37話

「うい、今日の配信終わりぃ! おつー」

「おっつー、兄ちゃん」


 コンピューターの高性能化・小型化が進んだ現在、VRデバイスに積まれている程度のものでも、いくつかの働きを並列化できるようになっている。仮想世界への没入とサーバーへのアクセス以外にも、その様子を3D・2D対応動画として外部へ発信することも可能としている。機能の一部を生体脳に依存しているからこそのハイスペック、そしてきわめて安く抑えられた価格であった。


「今日お前、若干ラグってなかったか? 大丈夫かよ」

「心配ないって。油断して風邪ひく季節だけど」


 笑わせんなよこいつぅと背中をばんばんやってから、ザイルはログアウトして、現実世界に戻った。柳リュウトとしての体感覚は、食事の回数が少なかったからか、少しばかり重い。ここのところゲームに集中しすぎて昼食を食べておらず、少々のおやつでごまかして、夕食が入るようにぎりぎりの調整をしている。


 自分などよりもはるかによくできた弟は、どこへ行っても好かれているし、家族との仲もよい――事実を並べるだけで皮肉めいて聞こえてしまうのは、父母は両方ともゲーム配信に懐疑的だからだろうか。リュウトは、そんなことを思った。


 両親曰くゲームは、将来役立つ勉強でもなく努力もまるで必要としない、まやかしに塗りこめられた怠惰の塊であるそうだ。プロチームから目をかけられている、文字通り倒れそうになるほど反復練習を繰り返している、などという事実には耳を貸さず……繰り返される言葉は、まるで歯の欠けたオルゴールのようだった。美しいのに届かない、大事なものが欠けた音の連続。


 役に立つ勉強をしろ、努力しろ。そんな言葉はもしかすると、彼ら自身が浴びた言葉の繰り返しなのかもしれない。配信のリスナーや、コンタクトを取ってきた企業の大人は、総じてそのような結論を出していた。そんな事実をあっさり吹き飛ばすように、弟のツムギは「バイトより儲かってるし!」と……反論しようのない成果を盾にしてくれた。


「そもそもNOVAでラグとか聞いたことねーよな。調べた方がいいか……?」


 外部音声もオンにしながら、リュウトは再び仮想世界にダイブする。検索エンジンを利用するにせよ、結果が早く出るに越したことはない。「NOVA、ラグ……原因」と発声して情報を入力した彼は、瞬時に出た結果をスクロールしていく。


「なになに。デバイスの不調……は、ねぇかな。まめに掃除してるから、髪の毛入ったりしねぇし。神経組織の不調って、いや、あんのかよ」


 彼が知る限り、脳神経の異常は何であっても一大事だ。肉体の損傷によるVRデバイスへの依存はよく聞かれる話だが、ハードウェアへのアクセスさえ困難となれば、社会への適応は限りなく難しくなる。


「つか、神経の不調って簡単に言うけど。寝てるだけだろ、起こるわけねぇじゃん」


 例えば外科手術の失敗、巨大な衝撃にさらされたことによる組織の破壊、そういったことでも起きなければ神経の不調など――そう考えたリュウトの目に「性徴顕化」という言葉が滑り込んできた。


「いやいや、そんな」


 細胞の著しい変化には神経組織も巻き込まれ、神経細胞が増えるという前代未聞の変化により、人格が変容することもあるという。そのような変化の渦中でVRデバイスを使用していると、ラグや接続の不具合が発生する。神経接続に乱れが起こるため、ときには強制ログアウトに見舞われることもある。読むだけでは説得力のかけらもないが、記録されていることは事実であるようだった。


 とん、という音が聞こえた。仮想世界NOVA内部の音ではなく、外部の……部屋の壁から聞こえた音だ。どこか弱々しいそれは、どうやら弟がいる部屋の壁から聞こえているようだった。


「行かなきゃ……!」


 即座にログアウトし、ツムギの部屋に駆け込む。


「兄ちゃん、あつい……」

「熱測ろう、すぐ温度計持ってくる。オカンも呼んでくるから」

「うん……」

「だいじょうぶ、すぐ良くなるって!」


 ベッドの上ではあはあと悶えるツムギがひどく艶めかしく見えて、リュウトは戦慄した。そんなことを考えている場合ではない。自分の頬を張って、リュウトは母を呼び、弟の体温を測って、SNSに活動休止の告知をばら撒いた。


「もうそんな時期なのね」

「季節柄だけどさ、不謹慎だろそんな言い方」

「え?」

「えって、なに」


 環境が激変するとき、精神的に大きな負荷がかかるとき、性徴顕化は起こりやすいとされている。十四歳から十七歳までが最頻であり、中学校卒業後はあらゆる意味で理想的なタイミングである。まるで予定調和であるかのような言い方に、母親は疑問を持っていないようだった。


「遺伝子検査したもの。あの子があの子らしく育つようにって思って、時機が来たらきちんと知らせるつもりだったのよね」

「はぁ? マジで言ってんのかよっ、ただの丸投げだろ! 知っててなんで知らせないんだよ、心構えとかさ……!」

「着替えもトイレも違うのに、どうして馴染めって言うのよ」

「そういう話じゃないって!!」


 付き添いは私がやるわ、という母親を背にして、リュウトは部屋に飛び込んだ。


 高熱の原因を知っていれば、適切な対応ができるだろう。何が起きるか分かっているのだから、未来を見据えて優しく諭すこともできる。しかしながら、それは例えば性教育のように、予防的な対策ができるはずのものだった。両親は、情報を自分たちの手元で握りつぶして、当人にさえ伝えていなかったのだ。それは、何よりも手ひどい裏切りだった。


「……ツムギ、って」


 かろうじて男に聞こえないでもない“ツムグ”や“イト”ではなく、どちらかといえば女の子らしい名前。優しくて、両親や友人との仲も取り持ってくれる、文字通り絆を紡ぐような弟だった。


 その糸がいま、ぷつりと切れたように感じられた。

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