一章 冬、であう

 一日の疲れを込めたため息が、目の前で白く濁るのを見て僕は寒さを改めて実感し身震いした。

 道のど真ん中にそびえ立つ鮮やかな電光で彩られたモミの木を見上げ、今度は腕時計に視線を落とす。

 父親のおさがりである古い安物の腕時計は本当に正しい時間を指しているのか分からなかった。だが、僕にはそれを確認する術などなかった。

 その日も数時間の労働をこなし会社が入ったビルを出る頃には、辺りはもうすっかり闇に包まれていた。


 通行人の邪魔にならないよう道の脇の壁にもたれながらスマホを開く。

 何件か仕事のメールに目を通し、僕は何と無しにカレンダーアプリを起動した。

 カレンダーは仕事の予定を表す青で埋まっていて、プライベートモードに切り替えてもそこには純白の画面が広がるだけだった。

 アプリを閉じて、通知欄を眺める。

 顔のついたテレビが目に入り僕は少しだけ期待した。だがその期待はすぐに裏切られてしまった。

 期待すること自体、間違っていた。

 コメントが書かれました、という文章。その下には疲れた僕の心を容赦なく抉る言葉が連なっていた。

 長い文章だったので途中で切れていた。僕はそれから目を逸らしつつも、何故だか少し見てみたいと思った。


 しばらく呆然とスマホの画面を見つめていると、もたれていた壁が突然振動した。

 驚いてその場を離れ、しっかりと目にしてからやっと気づいた。

 僕が壁だと思ってもたれていたのは、従業員用の出入口だった。壁と完全に同化していたそれの存在を僕は認知できていなかった。

 ゆっくりと扉が開いて、中から1人の女性が出てきた。

 咄嗟に「すみません」と声に出し軽く頭を下げる。

 女性は鋭い目付きでじろりと僕を見ると、舌打ちだけして大股で去っていった。

 たったそれだけのことなのに、僅かに心の軋む音がした。


 また真白な息をゆっくりと静かに吐き出し、スマホをポケットにしまって歩き始めた。

 無性に音楽が聴きたくなって、立ち止まってイヤホンを取り出そうとバッグに手を突っ込んだ。

 バッグの中でイヤホンを手に取って、そのまま数秒固まった。

 何か罪悪感というか、不安が押し寄せてきて、僕はイヤホンを手放しまた歩きだした。


 身を縮こませながら歩いて数分、会社の最寄り駅が近づいてきた頃。

 どこからか音楽が聞こえてくるのに気づいた。

 都会なのだから街に音楽が流れているのなんて不思議ではない。

 でも何故か僕の耳にはその音楽だけが飛び込んできた。

 微かに聴こえるその音楽を、僕は理由も分からないままに求めた。

 気づいた時には全速力で走っていた。息を切らしながら、ただその美しい声を求めて。

 どれくらい走っただろうか。声に導かれるまま路地へ入ったり、そこら中を駆け回ったせいでそこがどこなのか、全くわからなかった。


 でもそのおかげで見つけることができた。一瞬にして僕を魅了したその声を。

 走り続けた先に見つけたのは、路上ライブをしている女の子だった。

 胸くらいまである長い綺麗な髪の毛を2つに結び、ギターを1本首から下げ、目を閉じて歌っていた。

 路上ライブを快く思わない人達の視線など気にすることも無く、ただ気持ちよさそうに歌っていた。

 ふと視線を落とすと、ギターケースに置かれたスケッチブックに、ローマ字で「SAKU」とだけ書かれているのが目に入った。

 きっとその少女の活動名なんだろう、そう思った。


 SAKUの声は僕の薄汚れた語彙では言い表せないほどに美しいものだった。

 細く透き通った、でもどこか力強く、聞く人を虜にしてそのまま飲み込んでしまいそうな歌声。

 街は人々の騒ぐ声や、自動車や電車の音で塗れていたが、僕の世界はその一瞬、SAKUの音楽だけになっていた。

 たった数分。それが僕には何時間にも感じられた。

 曲が終わって、僕はやっと現実に戻ってきた。それでも僕の頭の中は音楽でいっぱいで他のことなんて考えられなかった。


 SAKUが不審に思ったのか、眉をひそめてこちらを見ている。

 何か言わなきゃ、そう思ったが、当たり前のように言葉は見つからなかった。

 音楽しかない頭の中には、どこを探しても最適な言葉はない。

「あの…………、どうしたんですか……?」

 SAKUの声が耳に入って、街の喧騒がやっと僕の耳に戻った。

 どうすればいいか分からず、僕は無造作に財布を取り出し、適当に札を何枚か抜いてSAKUのギターケースに放り込んだ。

 それがいくらだったかなんて覚えてない。

 そのまま走って逃げ出してしまったから。

 でも後でSAKUに聞いた時、彼女は放り投げられた金は全部万札で、それまでに路上ライブで貰った金額とは比べ物にならないほど高額だったと言っていた。


 普段は電車を使って辿る帰路を、僕はその日パソコンの入った重い荷物を持って走った。

 その後のことは何も覚えていない。

 頭の中はSAKUの歌だけでいっぱいで、気づいた時には自宅のベッドに横たわっていた。

 スーツも脱がず、中に入ってる会社のパソコンなんて気にもかけずビジネスバッグを放り、僕はただぼーっと天井を眺めていた。

 徐に顔を傾けてデスクの方を見た。

 2枚の大きなモニターの前に置かれた埃を被ったキーボードが目に入り、ゆっくりと身体を起こした。


 真っ暗な中、手探りでパソコンの電源ボタンを探し起動する。

 本体とモニター、キーボードが怪しく光り、僕は顔をしかめながら埃を最低限手で掃った。

 ゲーミングチェアに浅く腰掛けてソフトを起動し、ヘッドホンをつけてキーボードを鳴らす。

 瞬間、頭の中を無数のメロディーが駆け巡った。

 僕はただそれを掴んで曲にするのに必死になった。

 脇目も振らずにひたすらに指を動かした。


 気が付いたら一曲が出来上がっていた。

 窓から淡い光が差し込み、既に夜が明けていることを太陽が僕に教えてくれた。

 今日は有給休暇を取ってしまおうかという考えも一瞬頭を過ぎったが、前日に起こった出来事を思い出し、すぐにそんな考えは捨ててしまった。

 同じくらいの時間に同じ場所に行けば、また彼女に会えるかもしれない。そう思った。

 浅はかだったと思う。

 記憶が曖昧で、場所はもちろん時間もあまり詳しく覚えていない。

 それに思い出したとしても、今日路上ライブをやっているかもわからない。

 そう言えば、顔すらもよく覚えていない。


 こんな状態で再び出会うことができるわけがないと思った。

 だがそんなことは杞憂に過ぎなかった。

 また会えた。

 見つけられた。

 SAKUは同じ場所で、同じように、誰にも見向きもされずに歌っていた。

 彼女の歌を聴きながら、僕は何とか理性を保つ。

 また目を閉じて歌っていた。

 まるで何も見たくないとでも言うかのように。

 そんな彼女を僕はただ美しいと思った。


 曲が終わって、SAKUはゆっくりと目を開け消え入るような小さな声で「ありがとうございました……」と呟いた。

 彼女がふっと顔を上げた。

 目が合った。

「……あ、昨日の…………、諭吉の人……?」

 どうやらかなり嫌な覚え方をされているらしい。

 僕に気づいたSAKUが静かに、さっきよりも小さい声でぼそっと言った。

 一瞬頭が真っ白になって、僕は咄嗟に自分の右手に握りしめていたお金のことを思い出し、前とは違って静かにSAKUのギターケースに投げ入れた。


「えっ、と……、歌、凄く良かった…………、です…………」

 突然話しかけられたSAKUは、いぶかしげな眼差しで僕を見たまま呟いた。

「ども…………」

 数秒の沈黙が訪れた。

 どこかで車のクラクションが鳴り響いて、僕はまた口を開いた。

「その…………いつも、ここで歌ってるんですか?」

 僕はなるべくフレンドリーに、明るく声をかけたつもりだったが、彼女にはむしろそのせいで怪しく見えたのか、より警戒するような目つきでこちらを見た。

「…………まぁ、最近は、そうですね……」

 素っ気なく答える彼女に、僕は緊張で少し早口になりつつ言った。

「また聴きに来ても、いいですか? あ、その……君の歌が、すごく好きで…………」

「どうぞ…………、いつやるか、場所変えるか分からないですけど……」


 電車に揺られ、僕を包む音楽の全てはどれも味気ないものに感じられた。

 彼女の歌声がやはり頭を離れなかった。

 この歌を彼女が歌ったら、なんてそんなことを妄想しながら頭の中を巡る巡る音楽に身を委ねる。

 ノートパソコンと睨めっこしながらボーカロイドのデモ音声を聴いていた僕に、彼女は嬉しそうな声で、今日は新曲のレコーディングだよね、と声をかけた。

 僕は彼女の顔を見ずに視線はパソコンに向けたまま、そうだよ、と適当に応えた。

 何回かりなおして数時間。レコーディングを終えた僕達はまだ少し明るい道を並んで歩いていた。

 隣を歩く彼女が、満足できるのが出来て良かった、と笑って言った。

 僕が彼女に感謝を述べると、彼女はまたコロコロと笑った。

 そう言えば、と僕が切り出す。

 日も沈んできたことだし、夕飯でも一緒にどうかと僕は尋ねたが、少しの沈黙のあと彼女は僅かに声のトーンを下げて静かに謝り、断った。

 僕は小さくごめん、と謝って、彼女を家の近くまで送り届けると、1人帰路に着いた。


 いつもとは違い、僕は少しだけ浮かれた気持ちで家のドアを開けた。

 すぐにパソコンを起動して使い慣れたDAWを開く。

 クラウドからその日に録った彼女の音声ファイルを自分のパソコンに移動し再生した。

 自分が作った自分の曲が彼女の歌声で彩られ、僕は今まで空っぽだった心が満たされてくような感覚に落ちた。

 気付けばまたパソコンの前で夜を越していた。

 パソコンをシャットダウンしてグッと伸びをする。全くもって睡眠をとっていないのに何故か心地よかった。

 冬の寒い中サッとシャワーを浴びて、別のスーツに着替える。

 充電していたイヤホンをポケットに突っ込みいつもより軽やかな足取りで僕は出勤した。


 その日の夜、僕はまた同じ場所に向かった。

 仕事中も、会議中も、後輩を叱っているときでさえ、彼女の声が頭から離れずまた路上ライブを見に行くことを考えると自然と高揚感が増してきた。

 でもそこに彼女はいなかった。

 あったのは「路上ライブ禁止」と書かれた張り紙だけ。

 僕は何が起こったのか理解できなかった。

 数秒間だけ、記憶が飛んで僕は小さく「どうして」と呟いた。

 迷子になった子供の様に、彼女を求めて辺りを見回した。

 当然のように、見つからなかった。


 その日は死んだように音楽も聴かず電車に揺られて、家に帰ると飯も食わずに次の朝まで眠りこけた。

 そんな日が、幾日か続いた。

 毎日のようにあの場所を通ったが僕の目に映るのはやはり紙切れ一枚だけだった。

 字が読めない子供じゃないのだから、もうそこに彼女が現れることはないことくらい分かっていた。

 分かっていたし、それを見る度僕は心が削られていった。

 それなのに毎日確認しないと余計に心のモヤが取れず、そうしないと気が済まなかった。


 それからまた何日かが過ぎた。

 昼間は彼女と会う前のようにただ淡々と仕事をこなし、夜はあの場所に立ち寄って帰り、1人で夕飯を食べて1人で寝て、また起きて出勤する。

 そんなつまらない日々。

 彼女と会う前と何も変わらないのに、何故か僕の心には虚しさだけが残っていた。

 たった数週間前の、彼女のいない僕がどう過ごしていたのか、それだけがどうしても思い出せなかった。

 パソコンを開くことも少なくなった。

 そうしてキーボードの白鍵が灰色に染まり初めた頃。

 僕はいつものように仕事を終えて、それからあの場所に立ち寄り電車に乗った。

 今となっては思い出せないほどにちょっとした、どうでもいい理由で僕はその日別の駅で降りていた。

 会社から数駅だけ離れた駅周辺の見慣れない風景は僕を少し困惑させた。

 子供の頃、迷子になったことを思い出した。

 こんな年になっても知らない街は不安になるものなのだろうかと、そう考えたことは覚えている。


 迷路のような構内を、出口を求めて歩いた。

 どこからか冷たい風が吹いてきて僕の頬を撫で、出口の在処を教えてくれた。

 駅の外を見ても視界は黒く濁ったままだった。

 当たり前に広がる見覚えのない風景に戸惑って、僕は駅を出るのを躊躇した。

 コートのポケットに手を突っ込んで手探りでイヤホンを探したが、すぐに家で埃を被っていることを思い出してため息を吐いた。

 仕方がなく身を縮こませながら歩き出す。

 見慣れない景色に、何年も前に初めて東京に来たことを思い出す。

 まだ幼かった僕は見慣れたスーツ姿の父親に手を引かれ、よく分からないままに東京に来た。

 見たこともない巨大な建物、目眩がするほどの人混み、頭が痛くなるほどの喧騒。

 父の方を見上げると真剣な眼差しにどこか辛そうな思いが見えて、僕は出かかっていた言葉を飲み込んだ。


 信号待ちをしながら空っぽのままの左手を眺め、渇いた目を擦る。

 その時だった。

 僕の目に、あの2つ結びにした長く透き通った髪の毛が映ったのは。

 彼女は道の脇でギターケースを開き、淡々と準備を始めた。

 信号が青になって、周りの人たちが僕を邪魔そうに睨みつけながら歩き去っても、僕はただぼーっと彼女を見ていた。

 彼女がボソッと虚空に向かって何か言って、ギターを鳴らした。

 瞬間、美しい音色が僕の耳を貫き、僕の心を飲み込んだ。

 僕にぶつかって吼える男の怒号も、辺りに鳴り響くクラクションも、僕は全部拒んで彼女だけを見続けた。

 勝手に足が動いて、僕を彼女の目の前に導いた。


 自分の全てを投げ出すことすら惜しまないと思えるほどに求めていた彼女の姿がすぐそこにあるのに、僕は何も出来なかった。

 彼女の歌声に全身を包まれて、動くことも考えることすら出来ず、僕はただ静かに涙を流していた。

 涙が出ていることにも気づかず、耳に入ってくる音に乗って、やっと意識が戻ったのは彼女に声をかけられてからだった。


「あ……、お久しぶり、ですね…………」

 顔色ひとつ変えることなく、彼女は歌っている時とは裏腹に感情の見えない顔でそう言った。

「…………場所、変えたんですね……」

 泣いていたことに気づいて、驚きつつも彼女にバレないようすぐ手で拭ってから、必死に言葉を探して紡ぐ。

 彼女の小さな小さな声は街の喧騒に揉まれてほとんど何も聞こえないはずだったが、僕には何故かそれが嫌にはっきりと、鮮明に聞こえた。

「警察に……、何度か、注意されて……、目をつけられてしまったので…………」

 少しバツが悪そうにより小さい声で彼女は言った。

「そうだったんですね……。前も言った、んですけど…………、君の歌が凄く、好きだから……、また聞けてよかった」

 大袈裟な身振り手振りを交えて何とか伝える。

「あ、ありがとう、ございます……」


「…………えっ、と……………………。じゃあ……」

 しばらく沈黙が続いて、その気まずさを打ち破ろうと彼女が口を開いた。

 それだけ言ってギターを一度鳴らすと、目を静かに閉じて再び歌い始めた。

 同じように目を瞑り、自ら彼女の世界へ足を踏み入れた。

 眠りにつくような心地よい感覚に襲われて、根拠もなく一度踏み入れてしまったら二度と帰れないような気がした。

 僕の他にもチラホラと彼女の歌を気にかけるものはいたが、それでもこの忙しい国を止めるほどの威力は無かったらしく、最後まで聴いていくものは中々いなかった。


「………………した」

 曲が終わって彼女が視認できるかできないかほど小さく頭を下げた。

 僕はおかしなリズムの覚束無い拍手をして、いくらかを彼女のギターケースに入れて言った。

「……やっぱり、聞きなれた曲でも、君が歌うだけで全然違うな…………。なんで君の歌は、こんなに素敵なんだろう……」

 言い終わって、どこか愛の告白じみたことを言ってしまったと気付き慌てて言い訳をする。

「あ、ごめんっ! その、変なつもりで言ったわけじゃ、なくて……!」

「……あ、はい………………」

 それでも彼女はやはり真顔のまま呟くように返事をした。

「その、次会えたら、言おうと思ってたことがあって…………、僕は普通にサラリーマンやりながら、ボーカロイドとか使って、ちょっとだけ作曲とかしてるんだ。……それで、もし、良ければ…………、君に、その、歌って、欲しい」

 言い終わって、自分で驚いてしまった。

 後悔とかは無かった、けどまさか自分がそんなことを思っていたなんて、とそう思った。

 今まで感じていた彼女への気持ちが、すっと晴れたような気がして僕は前のめりになりながら続けた。

「別に有名じゃ、ないし……、人気も全くないんだけど…………」

 ――――でも、と少しだけ言い淀んだ。

 彼女は黙って聞いている。

 今伝えなくちゃ、ダメだと思った。

 ここで言わなきゃ、もう彼女に会えないと思った。

 僕の人生は、彼女に全て吐き出さないと暗いままだと、そんな気がした。

 このまま死にたくない。彼女と音楽で生きていきたい。

 そんな考えが頭の中を渦巻いて、喉をついて言葉が出た。


「僕は…………君と、音楽をやりたい」


 僕がそんなことを言ってもまだ、彼女は表情を崩さない。

 突然に周囲の音が戻った。

 大喧騒に溺れながら彼女の言葉を待つ。

 そのうるさい沈黙は数秒しか続かなかったはずだが、心臓の鼓動1回1回をしっかりと認識していた僕にはそれが酷く長く感じられた。

 しばらくぶりに彼女が口を開く。

「…………その、名前も知らない人に、急にそんな事言われても……、困ります」

 彼女の言葉に僕は一気に顔を赤くさせて言った。

「あ、ご、ごめん! そうだよね! えっ、と……、僕はナナって名前で、あ、ローマ字でNana、なんだけど……、活動してて…………」

 空中に指で書いて見せながら慌てて言う。

 また短い沈黙が訪れる。

 僕はどうにも居心地が悪くて、それを隠すためにきょろきょろと辺りを見回す。

「あの…………、ごめんなさい。お誘いは、嬉しいんですけど………………、ごめんなさい、出来ないです……」

 俯いたまま彼女がそう言う。

 学生時代、突然恋人に振られたことを思い出した。

 鼓動が早くなって、体が暑くなって、よく分からない大きな何かに飲み込まれる感覚。

 何度襲われても、正体は分からない。

 この何かを人は幾度となく言葉や音楽、色で表現しようとしたが、やはり感じてみて分かる。

 これを表現するなんて無理だ。

 例えようがない、それだけ恐ろしいものに僕は襲われていた。

「あの……、本当にごめんなさい…………」

 彼女の言葉が僕をさらに追い込む。

 彼女を思う気持ちだけが暴走してしまいそうで、僕はそれを抑え込むことだけに必死になった。

「……そ、っか…………、ですよね……。急にすみませんでした…………。あの、じゃあ僕、今日は帰ります…………」

 それだけ言って、僕はさっさとその場を離れた。

 鼓動がどんどん速くなって、酸素が足りない。

 ほぼ過呼吸のような状態で僕は急いだ。


 彼女の前を去ってから数秒が経ち、その後すぐに男の大きな声が僕の耳を貫いた。

「君、年は? 学生だよね? 親御さんは?」

 嫌な予感がして、足を止めばっと振り向く。

 案の定、彼女は警官の制服をした男に詰め寄られていた。

 迷うことも無く僕はすぐに方向転換をして彼女の元へ一直線に向かった。

 男の声が聞こえるくらいには近かったから、早足だった僕が彼女の所に着くまではそれ程かからなかった。

 だがその短い時間に僕はいくつも考えを巡らせた。

 なんて声かけようか。どうやって切り抜けようか。切り抜けたとしてその後どうしようか。そもそも自分が行っても悪化するだけじゃないか。

 色々と考えたが、彼女を目掛けて進む足が止まることはなくとうとう目の前まで来てしまった。

 男の肩を軽く叩き言った。

「あの……、妹が何か…………?」

 それからの記憶はあまりない。

 知らない誰かを助けることは、まぁ、何度かしたことはある。

 それが特別だとは思っていないが。

 だがその中で警官を介すなんてことは今までになかった。

 人助け、なんて言うとまるで彼女を救ったみたいだが、実際どうかは分からない。


 とにかく僕は、そんな風にして彼女と出会ったのだった。


一章 冬、であう 終

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