二章 晩冬、うたう
自分の曲が好きじゃない。
たまに「自分の作品を愛さないで、人に愛される作品を作れるわけが無い」などと誰かが言うが、その人の作品が売れてるのは、見たことがない。
結局その人たちの作品はいわゆる自己満足で、大衆が欲し金を出すものでは無いのだ。
こんなことを言えば周りになんて言われるか分からない。
だから僕は誰かに自分の活動を言うこともないし、自分の好みも話さない。
そのやり取り自体が面倒くさいから、と言うのが本当の理由なのかもしれないがそんなことは僕にとってどうでもいい。
理由がなんであれ結局言わないのだから。
その考えはある日突然変わった。
変わったと言っても思想が真逆になったわけじゃなく、ただある人に自分の曲を歌って欲しいとそう思うようになった。
何でだろう。
自分の曲、嫌いなはずなのに。
嫌いなのに、好きな人に歌って欲しい。
きっとこう言う感情はこのポンコツな頭で理解できるほど単純なものじゃなくて、
その彼女の手を引いて、僕はいま歩いている。
街は、音楽で溢れていた。
聴きたくなくても、その音楽は勝手に頭を支配した。
僕が男にした言い訳はかなり苦しかったと思う。
今回分かったのはそんな適当な嘘でも自信を持って堂々としていれば案外バレないということだ。
警官の服装をした男はすぐに納得して、僕と彼女に早く家へ帰るよう告げそのまま巡回に戻った。
少しだけ早足で歩く。
彼女は僕が男に声をかけた時からひっそりと何も言わず、僕の後ろに隠れていた。
今も特に抵抗することも無く、僕にされるがままに歩いている。
ふと後ろを見て男が見えなくなったことを確認し、僕は彼女に向き合った。
「ここまで来れば、大丈夫かな…………。その……、もし…………、お節介だったら、さっきの……、ごめんなさい」
辺りを見回し軽く頭を下げる。
彼女は俯いたままで何も言わなかった。
「……だ、大丈夫?」
僕は彼女の顔を覗き込むようにして少しだけ屈んだ。
しばらくして、彼女はとても小さな声で何か言った。
聞き取ることが出来ずに聞き返すと、声を荒立てて、と言っても声量はそこまで大きくないのだが、俯いたまま言った。
「あ、あの……! 手、が…………」
かすかに聞こえた声で僕はやっと彼女が何を言いたいのか分かった。
慌てて彼女の手を放し、僕は両手を上げ謝った。
「ご、ごめんっ! 急に、つ、掴んだりして……! き、気持ち悪かったよね! ほんとう、ごめん!」
どうしていいか分からずにただ平謝りする。
「そんなに、謝らなくても……、だ、大丈夫です」
「……ごめん」
「あの、ありがとうございました。助けてくれて」
小さく頭を下げて、彼女がそう言う。
「いやいや、お礼なんて! 迷惑だったら、ごめん。言い訳も苦しかったし、もしかしたら、余計に路上ライブしにくくなっちゃったかも……」
「あのまま捕まってたら、たぶん親に連絡されたので……。え、っと…………Nanaさん、でしたっけ、助かりました」
「僕は、SAKUさんの歌が聴けなくなったら嫌だって言う、勝手な理由で助けただけなんだ」
「そう言って頂けて、嬉しいです」
彼女が柔らかく笑う。
「嬉しいん、ですけど……、警察にも何度か注意されてますし…………。今後はちょっと、路上ライブ、控えようと思ってて……」
「え……? そ、うなんですね……。残念だな…………」
彼女の言葉を聞いて胸が痛くなった。
何とか笑顔を浮かべたが、彼女の表情から察するに多分うまく笑えてなかったんだと思う。
「それでその…………、さっきの、お誘い……、お話だけなら、聞いてみてもいいかなって……、思って……。ダメ、ですか…………?」
さっきまでの後悔が嘘のように吹き飛んだ。
思えばあそこまで他人に自分のことを曝け出したのは大人になってから初めてだったかもしれない。
どうせ後悔するのは分かっていたから。
今回も、思った通りで後悔した。
自分の発言、行動、全てを。
消えてしまいたいと思うほどの恥辱から僕は彼女に救われた。
自分で勝手に突っ込んだ沼から、勝手にきっかけにして、勝手に抜け出して。
勝手に、救われた気になって。
それでも彼女はもう僕にとって、希望でしかなかった。
彼女からしたらとんだ迷惑かもしれない。
でも僕にはもう彼女しか見えていなかった。
この感情が何か分からなかった。
少なくとも、恋ではない。
僕には恋人がいるし、そもそも彼女は、SAKUはどう見たって未成年だ。
恋なんてするわけないし、僕が彼女を求める理由はどこを探しても音楽だけだったから。
色々と思考を巡らせながらどうにか返事をする。
「ほ、ほんとにっ!? さ、SAKUさんがいいなら!」
僕の返答を聞いて彼女は緊張が崩れたのか、安心したように笑って「良かった」と呟いた。
「あ、えっと……、さすがに、今日は、無理だと思う、から…………。そ、の…………、連絡先、とかって……」
ナンパでもしているのか。
そう思われても仕方ないような状況だという事を認識しながら、口に任せて言葉を発する。
彼女が一瞬困ったような顔をした。
やってしまった、と思った。
連絡先なんて、急に聞くべきじゃなかった。
また、他人との距離の詰め方を間違えてしまった。
そうやって再び後悔の念に苛まれそうになったが、彼女がそんな顔をしたのは全く別の理由だった。
「えっと……、私、スマホは持ってるん、ですけど…………、LINEは、禁止されてて……。メールでも、いいですか…………?」
彼女は見たところ、高校生って感じだった。
高校生でSNSを禁止されてるなんて、今の時代そんな厳しい親もいるのかと考えた。
そんな考えが浮かんですぐに僕は自分を責めた。
他人の家庭に口を出すべきではないし、彼女が現状に何も不満を感じていないかもしれない。
思わず口から出そうになった言葉を飲み込んで、スマホを取り出した。
「大丈夫だよ。はいこれ、メールアドレス。あとで連絡して」
その日は久しぶりに、音楽をした。
翌日が休みだという事もあり、時計も気にせず僕は心の赴くまま埃舞う部屋の中で1人音楽をしていた。
誰かからのLINEが来るたびに鳴る通知の音も僕の耳には届かない。
ふとメールが来たことに気が付いて、スマホの通知を一瞥してからパソコンでメールを開いた。
送信主は僕たちが所属しているとある有名な音楽系事務所の人だった。
内容は今度リリースするシングルのジャケットについて。
僕はヘッドホンから流れる自分の曲に合わせて鼻歌を歌いながらそのメールを読んで、彼女にそのことを知らせた。
すぐに彼女からの返信が来る。
彼女の元気で可愛らしい喋り方はメールでもよく分かる。
楽しそうにジャケット案を選ぶ彼女を、僕はただ小さく笑いながら見ていた。
うーん、と彼女が唸る。
顎に手を当てて悩む仕草をしながら、やっぱり、これがいいかなぁ、なんて呟く。
彼女のことを静かに見ていたら、彼女がななさんはどれがいい、と聞いてきた。
とりあえず彼女が一番気に入っていそうだった一枚を選んで、これかな、と短く返信した。
彼女との楽しいやり取りは電話の音に遮られた。
ヘッドホンを取ってスマホを見ると、そこには恋人の名前がハート付きで書かれていた。
ハートマークは自分でつけたわけじゃない。
恋人に付けられたがわざわざ消す必要も無ければ、その作業も面倒臭いのでそのままにしてあるのだ。
ため息をついて電話に出た。
「……もしもし?」
「あ、ななくん? ごめんね、急に電話して。その…………、話したいことがあって……。今日、会えるかな」
恋人の声が耳元で響く。
僕は面倒くさい気持ちを何とか隠して普段の優しい恋人を演じた。
「いいよ、会おう。なんか大事なこと?」
「……うん、そう、だね。とっても大事。えと……じゃあお昼すぎに、いつものカフェでいい?」
「うん、いいよ」
「………………じゃあ、切るね……」
ぷつっと電話が切れて、僕はまたため息をついた。
時計を見ると思ったよりも予定の時間に近くて、少し焦り気味に用意をし始めた。
恋人が言っていた「話したいこと」の内容は、割と検討がついていた。
「私達……、ちょっとだけ距離置いた方がいいと思うんだ」
やっぱり。もう聞き飽きた、その言葉も。どうせ理由も同じだ。
恋人……、いや、元恋人は聞いてもいないのに語り始めた。
「ななくんに、失礼なのは分かってるんだけど……、あなたの気持ちが分からないの。私はななくんのこと大好き。でも、あなたは違うでしょ?」
ここまで同じだと笑えてくる。
僕は湧き出る笑いを抑えて「そっか」と小さく呟いた。
もう弁解するのも疲れた。好きだと本心を伝えても、どうせ自分の思い込みだけで勝手に解釈して勝手に僕に愛想を尽かす。
初めてできた恋人にも同じ理由でフラれた。あっちから「付き合ってほしい」と言ってきたくせに。
その人は僕が誰にでも優しいから別れを切り出したらしかった。優しい所が好きって、君が言ったんじゃないか。
過去にも何回か告白されて、続いたのは長くて半年だった。
どれも向こうから終わった。
全員、当時は愛していた。
だけどどうしても伝わらなかった。
そう言えば今の恋人はもう10ヶ月だ。気づいたら大幅に記録を更新してた。
ちなみに知りたくもないだろうけど、一番短かったのは3週間だ。もちろん、同じ理由。
1回それを歌にしたこともある。それは僕が作った曲の中で2番目に有名な曲になった。
「想像できない虚しさがある」とか「ハーレム妄想きめぇ」とか顔も名前も知らねぇ野郎どもに言われた。
そんなことを考えてたら、どうやら元恋人の話が終わったらしい。
「ななくんは、どうしたい?」
ごめん、聞いてなかった。
まぁいいか。どうせ僕の言葉なんて期待してないんだろうし。
「…………僕は、君のことを愛してるよ。でも、それが伝わらないなら、別れたほうがいいと思う」
心のどこかにこの人なら分かってくれるかも、という思いがまだ残っていたみたいで「愛してる」だなんて巨大な感情を薄っぺらい言葉に乗せて発してしまった。
「これ、コーヒー代。うちにある君の持ち物は後で郵送するよ。なんかあったら連絡先は消さないでおくから、電話して」
コーヒー代にしては明らかに多い金額をテーブルに静かにおいて、元恋人の返事を待たずに店を出た。
どうせ外に出たんだ。買い出しに行って、そしたらさっさと帰って歌でも書こう。
こういう感情は放っておいたら風化してしまうから、作品にするならすぐした方がいい。知らないけど。
彼女と最後にセックスしたのはいつだっけ。
覚えてないけど、頻度が低くなったのも要因の1つなのかもしれないな。
そうだ。どうせならこれも歌詞にしよう。下ネタは一部の人に受けがいいらしいから。
その日の夕方。僕は食糧品やら何やらを買い足して家に帰り、元恋人からの抗議の電話に対処しつつ読書をしていた。
元恋人が頼んでもいないのにただひたすら思い出話を語り続ける。
スマホから放出される声によって呼び起こされた記憶が頭の中を駆け巡っても、僕のスマホの写真フォルダはもう空虚で埋め尽くされていて、まるで過去を置き去りにしたようでもあった。
その時、彼女の声だけがしていたスマホから通知音が聞こえた。
ふと読んでいた本から目を離して、スマホの画面を見る。
彼女からだった。
メールの内容は表示をオフにしているから見えないし、彼女のメールアドレスも僕は知らない。
それでもなぜか確信した。メールの送信主はSAKUだと。
「俺は別れるべきだと思う。ちょっと予定できたから、ごめん」
電話越しにそう言って空になったコップをテーブルに置き去りにし、僕はパソコンを立ち上げた。
思った通り、彼女からだった。
僕は口から飛び出そうになるほど激しく鼓動する胸を押さえながら、メールを読んだ。
翌日、家から少し離れたカフェにやってきていた。
駅前で人が多く、大きな窓がすぐ横にある席。
僕はそこでコーヒーを飲みながら静かに音楽を聴いていた。
最初彼女に提案された場所はここではなく、前の日にも訪れた喫茶店だった。
何となく恋人のことを思い出してしまうが怖くて、僕は無理を言って場所を変えてもらった。
喫茶店のドアが開いて、ベルが客の来店を知らせる。
入店してきた女性を一瞥して僕は片耳だけ付けていたイヤホンをポケットにしまった。
店員と少しだけやり取りをして、彼女は僕を見ながらこちらに向かってきた。
「すみません、遅れてしまって……」
そう言いながら彼女は背負っていたギターを足元に置き、僕の向かいに座った。
「僕が早く来すぎただけだから、大丈夫だよ」
ぎこちない笑顔を浮かべて彼女にそう言う。
「あ、何か飲む?」
メニュー表を彼女に手渡す。彼女は「すみません、ありがとうございます」と言って受け取り、少ないメニューの中から少し楽しそうに選び始めた。
他愛のない雑談をして数分。僕は緊張の中やっと本題を切り出した。
「え、っと…………、僕の歌を、歌ってほしいって、話なんだけど……」
「あっ、はいっ……!」
背筋をピンと伸ばし座り直す。彼女は緊張した面持ちで僕を見ていた。
かしこまる彼女を見て僕はつられて一瞬だけ胸が苦しくなるのを感じた。
彼女からすれば僕は知らないおじさんで、これぐらいの女の子からすればこの世で一番恐れるべき存在だろう。
どうにか彼女に安心してもらえるような話し方を考えたが、どれもかえって余計に彼女を不安にさせてしまう気がした。
そうして彼女を見つめながら考えているうちに、僕はなぜか彼女の良すぎる姿勢がおかしくなってしまって開きかけた口から笑いが漏れた。
「ふはっ! …………いや、ごめん。なんか、可笑しくって……」
慌てて弁解しようとするがどうにも顔のにやけが取れない。
彼女が一瞬怪訝な顔で僕を見て、それから、笑った。
「ふふっ……、何ですかそれ。失礼すぎますよ」
そう言って口元に手を当てて小さく上品に笑う彼女は、路上ライブで歌っていない時の感情が失われた表情からは想像もつかないような、とてもやさしく柔らかい笑顔を浮かべていた。
笑う顔を見て、僕は何故だか罪悪感に苛まれた。
今までずっと歌だけを見ていた彼女の本心からの笑顔は天使のような麗しさだった。
だがそれは、僕が見てはいけないような、心の奥で見てはいけないと言われているような、そんな気がした。
気持ちの悪いにやけ顔を隠すことを口実に、彼女の笑顔から顔を背ける。
引き込まれてしまいそうだった。
人の笑顔を見てこんなことを思うなんて心底失礼だとは分かっているが、それでも彼女の笑顔は悪魔的で、僕は可愛いと思うと同時に恐ろしいとさえ思った。
「聞かせてください、そのお話。詳しく」
彼女は真剣な眼差しで僕を見ていたが、先程までの様に強張ってはいなかった。
笑うことで緊張が解けたのだろう。
笑顔が消えて、安心した僕はそのまま、彼女が笑った時に浮かんだ感情を無理やり外に追い出した。
相手は自分よりはるかに年下なのに、僕は面接を受けているような気がしてならなかった。
いま自分がやっていること、これから彼女とやりたいこと、漠然と浮かべていた願望を口に出して、人に伝わる様に論理だてたのは初めてだった。
話の構成なんかぐちゃぐちゃで同じことを何度も言った。
本当に社会人なのかと自分でも疑う。それだけ僕の望みは粗雑で幼稚で、叶うはずなんてないものだった。
いや、少し違うな。
叶える気が無かったんだ。
「夢は叶わないから夢だ」と誰かが言っていた。
その言葉をそっくりそのまま借りて、心のどこかで願っていたことを拒んで、自分のものだと認めなかった。
考えるよりも先に言葉がどんどん出てきて、聞く方に同情するほどに漠然と分かりにくい話だったと思う。
それでも彼女は真剣に、小さく頷きながら聞いてくれた。
「…………それで、2人組の音楽ユニットとして、ネットで、活動出来たらいいなと、思って」
彼女に見つめられながら、目線を合わせずにただ吐き出す。
「僕は今ボカロを使ってるけど、元々自分で歌おうと思ってたんだ。でも僕は自分の歌が好きじゃなくて……」
「それで、私を見つけた、と……」
僕は静かに頷いてコーヒーを飲む。
語っているうちに冷めてしまったらしい。
冷えた苦い汁に僕は顔をしかめた。
「詳しいことはまだ何も考えてなくて……、ほんと、こんな状態で誘ってしまって申し訳ないんだけど」
「いえ、嬉しかったです。あんなにちゃんと聞いてくれた人、今までいなかったので」
そう言った彼女は少し寂しそうな目をしていた。
「SNSとかって、やってないの? ほら、最近はYouTubeやらTwitterやらで簡単に動画投稿できるし……」
やってないの、とは聞いてみたものの、やってないことは知っていた。
調べたからだ。
僕の曲は聞かないくせにTwitterでは絡んでくる面倒な奴らに協力を頼み、ネットの底の底まで調べ上げた。
だが彼女はどこにもいなかった。
そう言えば、彼女は親にLINEを禁止されているらしい。
思っていたよりも彼女の親は厳しいようだ。
「え、っと……。やってない、です。…………親に、禁止されてて」
「そっか…………。じゃあもしかして、ニコニコ動画も見られない?」
「いえ、検索は……できるので。アカウントは作れないですけど、見るだけなら……、できると思います」
きょろきょろと視線を動かしながら、自信なさげにそう言った。
「あの、聞いてみても、いいですか……? ななさんの曲、いま」
「えっ、今!? ここで?」
彼女の口から予想だにしない言葉が飛び出て、僕は思わず声を荒らげる。
駄目だ。こんな中身のない音楽、彼女が歌う為に、真剣に聞くなんて。
制止しようとした時にはもう遅かった。
彼女はリュックからイヤホンを取り出しスマホを数回いじると、僕に画面を向けた。
「ななさんのアカウント、これですよね……?」
「え、あ……、うん……、そう、だけど…………。えっ、本当に今聞くの……?」
「はい、……ダメ、ですか?」
僕が戸惑っている理由が彼女には分からないようで、きょとんと首を傾げている。
「……ダメ、ではない、けど…………」
「一番新しいの…………、あ、結構最近……。これでいいですか?」
終わった。一番聞かれたくないやつだ。
彼女が聴いている曲は、僕が彼女を思って書いた曲だった。
彼女に歌ってほしいと、そう願いながら書いた曲だった。
要はただの自慰行為と同じだ。
そんなものを目の前で聞かれるなんて、一体僕は前世でどんな悪行を繰り返したんだ。
あと彼女が聞いてる間、僕は何をしていればいいんだ。
そんなことを考えていると、短い曲だったから彼女がもう聞き終わったみたいで、イヤホンを外しスマホを置いた。
何を言われるか怖かった。
もしかしたら気づかれたかもしれない。自分のことだと。
表情からは読み取れない。
彼女が何を考えているか、分からなかった。
ただテーブルに置いたスマホを見つめ、言葉を探しているようにも見えた。
そんな彼女を見つめているうちに、動画に流れる批判の言葉が僕の頭を埋め尽くした。
怖い。
今すぐ席を立って、逃げ出してしまいたい。
彼女の顔が見られない。
早く、音楽の世界に戻りたい。
嫌な汗が背中を伝って、心臓が縮こまって胸が窮屈になる。
ふと彼女が顔を上げた。
鼓動が早くなる。
彼女から発された言葉は、僕がまるで予想していなかったものだった。
「私、大好きなんです、歌うことが」
何かを決心したような表情でそう言う。
彼女の顔は、どこかやましいことがあるような、そんな風にも感じられた。
僕の言葉を待たずに彼女は続けた。
「歌うことが大好きで、ちょっと依存しちゃうくらいに。歌ってる時だけは、私の周りのどろどろしたものから逃げられる気がして」
小さく微笑む彼女はどこか楽しげだった。
笑顔を見ないために少し俯く。
彼女の楽し気な声を聞いて、僕は羨ましいと感じていた。
と言っても、その感情に気づいたのは後になってからだった。
勿論僕と彼女は境遇が全く違って、簡単に比較なんてできるものではないと分かっているけれど、それでも自信をもって「歌が好き」と言える彼女のことが僕は羨ましかったんだと思う。
「急に語っちゃって、ごめんなさい。でも、この曲を聞いて、なんだか私に似てるなって、思って。この曲には、ななさんが音楽をすることが大好きだってことが、詰まってる気がしたんです。え、っと……、ごめんなさい、うまく言えなくて…………」
「SAKUさん……」
「歌わせてください。ななさんの曲、歌いたいです。一緒に、音楽をやりたいです」
その後いくつか話をして、僕はオフボーカルの音源をその日のうちにメールで送ることを約束し、1人帰路に着いた。
彼女の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
詰まっている、と彼女はそう言った。
その言葉を聞いた直後、僕は彼女が何も分かっていないのだと思った。
空っぽの曲を拡大解釈して、賞賛して、気持ちよくなってるヤツらと同じなのかと思った。
彼女なら分かってくれるのではないかと思っていたから、少し失望したりもした。
だけど、たぶん違う。そうじゃない。
あの曲は、僕が初めて彼女を思って書いた曲だ。
今までのような経験したことも無い「綺麗な恋愛」だとか、「理不尽な社会」だとか、「美しい死生観」だとか、そんなものじゃなく、僕が数十年ぶりに心の底からさらけ出した、そんな曲だった。
無意識だったから、それに気づいたのは彼女と別れて家に帰って、それからまた少し経った時だった。
僕は彼女に音源を送信して、そして、またキーボードを鳴らした。
それは段々と冬の厳寒がなくなってきたころだった。
彼女を思って書いた曲を持って僕は家を出た。
電車に揺られながらスマホを開き、メールを読む。
送信主は彼女。早めに着きすぎてしまったから先に入っているという内容だった。
僕は短く「分かりました」と一言、それから当たり障りのない絵文字を1つ付けて返信した。
休日の昼過ぎの電車は都心とは言えそこまで人も多くなく、ぎりぎり座れたことに感謝しながら外の景色をぼうっと眺める。
いつもと同じ電車のはずだったが僕の心は確かに浮ついていて、目に映る景色はいつもよりも明るく見えた。
十数分だけ電車に揺られ数分歩いた先には彼女と待ち合わせをしているスタジオがあった。
スタジオが入っているビルを見上げる。
中にはどうやらそこそこ有名な企業のオフィスやらも入っているらしく、近代的なデザインの綺麗な入口に僕は少し怖気づいた。
こういう所は大人になっても慣れないな、と心の中で弱音を吐きつつ一歩を踏み出す。
彼女にメールで到着したことを報告し僕は借りたスタジオの階のボタンを押す。
別に閉所恐怖症ってわけではないが、こういった狭い場所に一人でいると何だかソワソワする。
スタジオの扉の前に立って、小さく深呼吸をする。
耳をすませば微かに彼女の歌声とギターの音がした。
背負っていたリュックを下ろし今さら持ち物を確認する。
数回続けて確認して、ようやく入室せざるを得なくなったころ、突然目の前の扉が開いて僕は小さく声を出して仰け反った。
「あ、ななさん。ちょうど今、迎えに出ようと思ったところです」
ドアノブに手をかけたまま彼女が言う。
「どうして固まってるんですか? どうぞ」
僕は小さく礼を述べ、彼女に触れないよう慎重に隙間を通り抜けた。
目の前には高い金額を払っただけあって、高級そうな機材の揃ったスタジオが広がっていた。
スタジオを借りてレコーディングをするのは初めてじゃない。
大学の時、気まぐれに入った軽音部で僕はキーボードをやっていた。
何度か作詞作曲もしたりした。
大学を卒業し、同じバンドだった奴らは音楽だけで食べていこうとする道を選んだ。
僕は、選ぶことができずに、大学院へ進学した。
父子家庭だったからそのせいで何度も父親に迷惑をかけた。
父親は僕がやりたいことについて何も言わなかった。
当時は興味がないのかと、勝手な勘違いをしていたがバンドを辞めたときは一言だけ「それでいいのか」と言われたのを覚えている。
父親の言葉と、もう連絡を取らなくなって十数年経つバンド仲間の顔が頭に浮かぶ。
それぞれ楽器を持って、マイクの前に立って。
僕はキーボードを弾いている。
何とも言えない感情が沸き上がってきて、僕はただ立ち尽くしていた。
「ななさん? さっきからどうしたんですか? 体調でも悪いんですか?」
ぼうっと立っている僕の顔を覗き込むようにして彼女がそう尋ねてきた。
彼女の声で現実に引き戻され、僕は笑って「何でもない」と呟き荷物を下ろした。
不思議そうに首をかしげる彼女の方を見ないまま、僕は荷物を出しながら言う。
「時間制だから、早く始めよう」
「そ、そうですね。何から始めますか?」
ギターの準備をしながら、彼女はそう言った。
「え?」
彼女の発言に違和感を覚え声を漏らす。
「……? どうしたんですか?」
「えっと、『何から』って、どういうこと?」
「あ、どの曲からやりますか、ってことです。……一応、ななさんの曲は全部聞いて、全部歌えるようには、してきたので……」
予想だにしなかった彼女の発言に僕は一瞬固まる。
「…………え、全部って……、全部?」
「はい」
何かおかしいことを言っただろうか、とでも言いたげに不思議そうな顔をする彼女。
「ぜ、全部って……、だって僕の曲、ニコニコにあげてる昔のやつも合わせたら数十曲あるんだよ?」
「はい、そうですね」
「そ、それをたった十数日で?」
「まぁ……、はい」
彼女は本当に何がおかしいのか分かっていない様子だった。
これ以上言及しても話は僕の思う方向に転じないだろうと思い、僕は「そっか」と呟いてミキサーの前に座る。
「…………じゃあ、リードとコーラスどっちも楽譜とサンプル送ってあるから、カフェで聴いたやつを録ろうか」
そう言って作業を進める僕に「お願いします」と小さく頭を下げて、彼女はマイクやらが置いてあるレコーディングブースに向かった。
「…………ギターから、ですよね」
ガラス越しに見える彼女がマイクの近くにかけてあったヘッドホンを着けながら尋ねてくる。
「うん、そう……だね。…………って、今気付いたけどエレキも弾けるの?」
「アコギとエレキはそれなりに。…………あとは、好きじゃないですけど……、ヴァイオリンも一応…………」
彼女は言った。肩に下げたエレキギターを握りしめながら、少し俯き気味に言った。
どこか悲しげなその表情を見て、僕はそれ以上言及するのをやめた。
あまり踏み込んではいけない領域のような気がしたのだ。
僕は口角を小さく上げて「そうなんだ」とだけ呟く。
そこからは何だか何を話す気にもなれず、彼女もその空気が読めてしまったのか言葉数は少なくなった。
久しぶりのミキサーの操作に少し手間取って、数分後やっと彼女のギターを録音する準備が完了した。
僕がガラス越しに彼女を見ると、彼女の目つきが変わった。
その眼差しに圧倒されて僕にも緊張が走る。
久しぶりに体験する全くの静寂は僕の緊張を促進するばかりで、コンサートやライブ前の静寂のような心地よさはどこにもなかった。
彼女がこくんと小さく頷き、僕はそれに頷き返す。
家から持ち込んだ、少しだけ奮発したヘッドホンから彼女のギターの音が流れてくる。
町の喧騒に塗れていた彼女の音楽とは全くの別物のような気がした。
彼女のギターは正確で丁寧だった。
まさに作曲者である僕が求めるような音をなぞっていた。
それでいてやはりどこか子供のような遊び心があるような、彼女にしか出せないような、そんな感じもした。
少なくとも、長らく機械でしか自分の曲を聴いてこなかった僕を射止めるにはあまりに美しすぎる音だった。
思わず聞き入ってしまって、仕事のために頭を使いながら聞くことも瞬きをすることすらも忘れていた。
僕が彼女の音楽に没入してしまったせいで回数が増えてしまったが、何度か録りなおして数十分。
彼女のギターを録り終わり、次はリードボーカルを録音しようと準備を進めていた時、休憩していた彼女が尋ねてきた。
「ななさんって……、楽器は何を、やって、るんですか?」
作業の手が止まる。
ここに入ってきた時に浮かんだ光景がまた脳裏を過って、僕は少しだけ胸が苦しくなった。
彼女が不思議に思って再度尋ねてくることを避けるように、僕はわざとらしく音を立てて腰を上げる。
「…………ピアノとキーボード、やってるというか、学生の頃やってた。まぁ、独学だけどね」
僕はなるべく笑顔を浮かべながら答えるが、言葉に抑揚がなく感情が見えづらいことには自分でも気付いた。
「じゃあ作曲もピアノで……?」
「うん、まぁ、そうだね。ピアノというか、キーボード。だから、今回のはそんなにだったかもしれないけど、ギターとかドラムは人には弾けないような曲も作ったりするよ」
「……今回ので、簡単なんですか…………?」
「え? まぁ、ギター弾けないから何となくしか分からないけど、簡単な方だと思うよ、僕の曲では」
彼女の困惑したような悲観するような表情がどこから現れたものなのか、僕には全く分からなかった。
「ななさん、今度からギターパート作る時は、私も呼んでください…………」
「え、うん…………。分かった」
それからまた数分。
ようやく僕の準備が終わって、今度はギターを持たずにレコーディングブースへ入っていった。
何度か発声練習を繰り返して、彼女が静かに「お願いします」とマイクに向かって呟く。
彼女の声が頭に響いて、正体の見えない何かが身体中を駆け巡る。
歌声を想像するだけで鳥肌が立った。
震える手でミキサーを操作し、そして、前奏が流れ始めた。
左手で右手を痛いほどに握りしめて、僕は静かに待っていた。
ボーカルが入るタイミングなんて僕が誰よりも理解しているはずなのに、酷く待ち遠しくて、呼吸さえ苦しくなる。
頭の中の楽譜をなぞり、数秒の空白を過ごす。
ガラス越しの彼女はやはり目を閉じていた。
片手をヘッドホンに添えて、外界との繋がりを全て断とうとしているようにも見えた。
そして、彼女は歌い始めた。
いつものように。
僕の目には路上ライブの時の彼女と、ガラスの向こうの彼女がしっかりと重なって見えた。
気付けば、目から涙が流れていた。
感情が乱れて、荒れて、一体自分がどんな気持ちで涙を流しているのかさえ、全く分からなかった。
心が震えて、喉を飛び出しそうになる。
苦しい。苦しいのに、心地よい。
この苦しさはきっと、僕に何かを与えようとしている。
そんな気がしてならなかった。
僕の涙に、彼女は気がついてるだろうか。
目を閉じて歌う彼女には、僕の気持ちは届いていないだろう。
僕の苦しみも、僕の心地良さも、僕の乱れた心情も。
彼女はうたう。
からっぽな僕なんかには目もくれずに、それどころか、世界すら置き去りして。
さくはうたっていた。
二章 晩冬、うたう 終
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