第71話

 平日のゴールデンタイム。地上波で流れている番組はバラエティばかりだ。しかしどれを見てもつまらないと感じてしまう。しばらくぼんやりテレビを眺めてから、サチはボリュームを小さくしてスマホを開いた。

 美桜とのメッセージは誕生日の日から止まったままだ。きっとここに新たなメッセージが届くことはないのだろう。


「おかゆ、できましたよ」


 聞こえた声にサチはハッと顔を上げた。瑞穂はトレイに一人用の土鍋と器を乗せて運んでくる。


「わー、土鍋もあるんですね。わたしも買おうかな」


 スマホを床に置き、サチはできるだけ明るい声で言った。瑞穂はテーブルに土鍋と食器を置きながら「あまり使いませんけどね」と笑う。


「一人でお鍋とか寂しくて。この土鍋も買ってから何年も経ちますけど、使ったのは数えるくらいですよ」

「へー。でも、なんかいざというときにはあった方がいいですよね」

「いざというときって、いつですか」


 瑞穂は笑って言いながら再びキッチンへ戻ると、今度はご飯と餃子、そしてビールの缶をトレイに乗せて戻ってきた。


「あ、松池先生は本当に晩酌っぽい」


 思わず言うと瑞穂は「食べたかったらどうぞ」と言いながらトレイをテーブルに置いて座る。


「餃子、昨日の残り物ですけど。しかも中身は野菜のみ」

「野菜餃子ですか」

「けっこう美味しいんですよ。あ、ビールもまだありますよ? って、胃が痛いのにビールはダメですよね」

「そうですね。お酒は……。あ、松池先生は遠慮せずに呑んでくださいね」


 サチが言うと、瑞穂は「そうさせてもらいます」と缶を開けた。そしてグビッと最初に一口呑む。その姿を眺めていると瑞穂が「どうかしました?」と首を傾げた。


「いえ。先生がお酒を呑むイメージ、あんまりなかったもので」


 ああ、と瑞穂は笑って頷いた。


「家でしか呑みませんから」

「そうなんですか。お酒、強い方なんですか?」

「まあ、明宮先生よりは」


 何か思い出したのか、瑞穂はクスリと笑った。そして餃子をひとつ食べてから再びビールを呑む。


「わたし誕生日のとき、そんなに酔ってましたか?」


 聞くと彼女は「それはもう」と深く頷いた。


「酔ってないって言い張ってましたけど」


 サチは深くため息を吐いた。


「ダメだな、わたし」

「そんなことないですよ。お酒に弱い明宮先生、可愛いかったですし」

「可愛……。いや、そういう問題じゃなくて」


 言いながらサチはレンゲで掬ったおかゆを食べる。薄すぎず、濃すぎない味付け。優しい温かさが胃に広がっていくのを感じる。


「――おいしい」


 思わず呟くと「よかった」と瑞穂が微笑んだ。そして彼女はテレビへ視線を向けてビールを呑む。サチは再びレンゲでおかゆを掬って食べる。もう一口。また、一口。

 カチャカチャと食器がぶつかる音が小さく響く。ふいに瑞穂は席を立つと、冷蔵庫からビールの缶を二本持って戻ってきた。


「もう二本目ですか」


 聞くと彼女は「今日は、ちょっとペース速いかな。三本目も持って来ちゃいました」と苦笑した。そして再びグビッとビールを呑む。まるで、何かの感情も一緒に呑み込むかのように。

 瑞穂は餃子やご飯にはほとんと手をつけていない。ただビールだけを呑んでいる。そんな彼女を見つめていると一瞬だけ目が合った。しかし、瑞穂はすぐに視線をテレビへと移してしまった。

 ワッとテレビから笑い声が響いてきた。それでも瑞穂の表情は変わらない。ただ画面を見ているだけなのだろう。


「松池先生は、お酒呑んでも変わらないんですね」


 サチは手にしたレンゲを見つめながら言った。


「わたし、お酒弱いってわかってたんです。すぐに酔いが回ってまともな思考ができなくなるってわかってたのに、あの日は楽しくてつい呑んじゃったんです。みんなに祝ってもらえたのが、とても嬉しくて」


 視線を上げると瑞穂は真面目な表情でサチを見ていた。


「何か、あったんですか。あの日、わたしたちが帰ったあとで」


 静かな瑞穂の声。サチは頷く。


「キスを、してしまって」

「先生から?」


 驚いた様子もなく瑞穂は聞く。サチは「いえ」と土鍋へ視線を落としながら答えた。


「最初は御影さんから。たぶん、わたしが寝てると思って。わたしも酔ってて、これは夢なのかなって。それで勢いに任せてわたしからも……」

「好き合ってるんだから別にいいんじゃないですか?」


 瑞穂の声にサチは「いいわけ、ないじゃないですか」と言った。


「だって、わたしは御影さんに言おうと思ってたんです。その気持ちには応えられないって。誕生日の翌日、そのことを言おうって決めてたのに、あんな軽率なこと」

「どうして?」


 瑞穂の口調が少し変化したことに気づいてサチは顔を上げた。瑞穂はわずかに怒ったような表情で「どうして? 先生だって御影さんのこと好きなのに」と続ける。


「だって、普通に考えてダメじゃないですか」

「普通? 女同士だからってことですか?」

「それもあります。でもそれだけじゃなくて、御影さんは生徒でわたしは教師。歳の差だってある。なにより、わたしと御影さんがそういう関係になったとして、学校に噂が広まるのが怖かったんです」

「……御影さんが、孤立してしまうかもしれないから?」


 サチは頷く。


「それに、きっと進路だとかそういうことにも響いてくるんじゃないかって。うち、私立じゃないですか。退学の可能性だってある。わたしがクビになるのはいいんです。どうせ非常勤で契約期間決まってるし。でも御影さんは違う。将来を潰してしまうかもしれない。それが怖かったんです」

「だから、自分の気持ちに蓋をしようとしたんですか」


 瑞穂はグビッとビールを一気に呑み干した。そして新しい缶を開ける。


「……昨日の放課後、御影さんに呼び出されたんです。そこでわたしは御影さんから離れようと思った。御影さんの気持ちを無視してでも、彼女から離れようって。でも、その会話を高知さんに聞かれてしまって」


 サチはレンゲを土鍋に置くと深く息を吐き出した。瑞穂は「なんとなく、わかりました」とビールを呑みながら言った。


「高知さん、御影さんに恋愛感情を持ってる様子でしたもんね。それで今の話を黙ってる代わりに自分と付き合えと御影さんを脅した、と」


 サチは思わず瑞穂の顔を見た。


「先生、高知さんの気持ちも知って……?」


 すると瑞穂は自嘲するような笑みを浮かべた。


「明宮先生より一年長くあの子たちを見てきたんです。わかりますよ。それともわたし、そんなに鈍感な人間に見えますか?」


 酔っているのだろうか。いつもの瑞穂とは雰囲気が違う。少し、怖い感じがする。サチは彼女から視線を逸らすと「すみません」と謝った。

 瑞穂はビールの缶をテーブルに置くと「御影さんから何か言われたんですよね」と静かな声で言った。サチは頷く。


「元の、何もない関係に戻ろうって」


 一瞬の沈黙。そして瑞穂が「それは」と低い声で言う。


「明宮先生が望んでいた結果ですよね?」

「望んでいた……」


 そうだ。たしかにその通りだ。この結果はサチが望んでいたものとと同じ。


「なのに、なんで落ち込んでるんですか?」


 ――なんで。


 なぜだろう。サチは考える。

 三奈が美桜の隣に立っているからだ。これから美桜が笑みを向ける先にいるのがサチではなく、三奈だから。 

 では、三奈でなければよかったのだろうか。美桜が他の誰かと付き合うことになっていれば。


「御影さんが普通に同年代の男の子と付き合っていれば、先生の気持ちの整理もついた?」

「それは……」


 心臓が苦しくなってサチは両手で胸を押さえる。美桜の隣に誰かがいて、その誰かに向かって美桜が微笑んでいる。それを想像するだけで心が押しつぶされそうだ。


「結局、先生は御影さんを誰かに取られるのが嫌なんでしょう?」


 サチは瑞穂へと視線を向けた。瑞穂はまっすぐにサチを見つめている。


「誰に取られても嫌で、彼女を自分だけのものにしていたい。矛盾してますよね。先生の気持ちと言ってることは」


 サチはごくりと喉を鳴らして浅く呼吸を繰り返す。


「それは、だって、しょうがないじゃないですか」


 瑞穂の責めるような表情を睨みながら「だって好きなんだから!」と声を荒げる。


「好きな人と一緒にいたいって、自分のものにしたいって思うのはどうしようもないじゃないですか!」


 その瞬間、ガタンッとテーブルが大きな音を立てた。そして身体に強い衝撃を受ける。気づけばサチは床の上に仰向けになっていた。目の前では瑞穂の綺麗な顔がサチのことを見下ろしている。


「すみません。意地悪なことを言ってごめんなさい。泣かないでください」


 そのとき初めてサチは自分が泣いていることに気づいた。瑞穂は床についた右腕を上げ、そっとサチの頬に流れた涙を拭う。そして、少し顔を近づけながら言った。


「でも、先生もそういう気持ちがわかってるんだって知って、ホッとしました」

「え……?」

「先生が今言った気持ち、高知さんも一緒ですよね」

「それは――」

「そして、わたしも一緒」

「松池、先生?」


 ゆっくりと近づいてくる瑞穂の瞳が切なそうに細められる。


「わたし、明宮先生のことが好きです」


 そのまま優しく押し当てられた唇からは少し苦いビールの味がした。

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