第72話

 サチは身動きができず、ただ彼女の柔らかな唇を受け止めていた。瑞穂はそっと唇を離すと「わたしと付き合ってください」と囁くように言う。

 熱を帯びた吐息がサチの首筋にかかる。瑞穂の髪の良い香りが鼻をくすぐる。

 彼女の唇が頬を掠めたのを感じながらサチは「先生、酔ってるんですよね?」とすがるように聞いた。瑞穂は答えない。その代わりのように唇が首筋に触れる。サチは「先生!」と思わず彼女の肩を掴んで力一杯押し返した。


「酔ってるんですよね?」


 もう一度、今度は彼女の目を見つめて聞く。瑞穂は熱の籠もった表情でサチを見下ろしていたが、やがてゆっくりと身体を起こした。サチも身体を起こして瑞穂と向き合う。


「……酔っていれば、こういうことをしても許すんですか?」


 ぽつりと、彼女は言った。


「それは――。でも先生がこんなこと」

「するわけない? しますよ。わたしだって人間です。好きな人にはこういうことしたいって思います。酔っていても、いなくても」


 瑞穂の視線がサチを離さない。強い想いが込められた視線がサチの心を突き刺すように向けられている。


「どうして……」

「どうして?」


 瑞穂は悲しそうに眉を寄せる。そしてサチの顔を両手で包み込んだ。少し冷たい手は、微かに震えている。


「先生、まさか本当に気づいてなかったんですか? わたしの気持ちに」


 サチは答えられなかった。まったく気づいていなかったといえばウソになる。薄々、彼女の態度や言葉からそういう気持ちを感じたことはあったのだ。しかし気づかないふりをしていた。考えないようにしていた。


「先生は御影さんのことで頭が一杯だったんですよね。わたしのことなんて、まったく見てなかった」


 答えないサチを見つめて瑞穂は悲しそうに微笑む。


「わたしはそれでもよかったんです。御影さんのことを想うあなたが幸せなら、笑っていてくれるのなら、それでよかった。告白しようなんて思ってもなかった。こうやって触れようなんて……。でも、もう無理ですよ」


 言って瑞穂は顔を歪めると、サチの頬を包んでいた両手を背中へと回して身体を引き寄せた。


「御影さんのことを想って苦しんで、悲しんで、こんなに弱ってしまう先生なんて見てられない。放っておけない」


 我慢なんてできない、と彼女は震える声で言った。首元に微かに感じる吐息は熱く、泣いているのかしゃくり上げる声が聞こえた。


「そんなに苦しいのなら、わたしにしてくださいよ。わたしは絶対に先生を悲しませたりしない。苦しませたりしない。ずっとずっと先生の味方でいるから。だから――」

「でも」


 サチは瑞穂の言葉を遮る。瑞穂の身体が微かに強ばったのがわかった。


「わたしが好きなのは、御影さんです」

「わかってます」


 瑞穂のくぐもった声が言う。


「それでもいい。わたしは先生の全部が好きだから。御影さんのことを好きなあなたのことも好きです」


 瑞穂の言葉が耳の奥で響く。


「なんでわたしなんか好きなんですか? こんなポンコツで、どうしようもないわたしを」


 気づくとそんな言葉を口にしていた。瑞穂はサチを抱きしめる手に力を入れ、しがみつくようにしながら「初めて会ったときのこと、覚えてますか?」と言った。


「……初出勤の日?」


 フッと笑ったような息遣い。そして瑞穂は「違います」と言う。その口調はさっきよりも幾分か落ち着いているようだった。


「先生が採用面接に来たときです」


 サチは記憶を探る。

 たしかあの日は、事故の渋滞に巻き込まれて面接時間ギリギリに到着したのだ。そして来客用玄関から入って面接の部屋の場所を受付で教えてもらった。しかし慣れない校内。慌てていたこともあって迷ってしまったのだ。途方に暮れていたところを通りかかったのは、背の高い綺麗な女性だった。


「部屋まで、案内してくれた……?」


 呟くように聞くと瑞穂の頭が少し動いた。頷いたのだろう。そして彼女は「あのとき」と静かに口を開いた。


「わたし、すごく感じ悪かったと思うんです。担任をするしないの話を直前にしてて、嫌な気分で。そんなときに迷子の面接者に出会って、正直面倒くさいなぁって。すごく嫌な奴だった。でも、そんなわたしに先生、別れ際に言ってくれたんです。ありがとうって。綺麗な瞳でわたしの顔を見て、まっすぐな笑顔で」


 瑞穂は息を吐いた。


「それが、すごくすごく嬉しくて。それから先生の笑顔が忘れられなくて……。先生と一緒に働けるようになって、夢みたいでした」

「そんな些細なことで……?」


 思わず呟く。瑞穂は「それでも」と続ける。


「わたしにはとても大きなことだったんです。他人からあんなに素直な笑顔を向けられたのは初めてで、ありがとうって言われたのが嬉しくて」


 嬉しくて、と彼女は繰り返した。そして彼女は両手を放して身体をサチから離すと、涙に濡れた瞳でサチを見つめる。


「わたしにはあなたが必要なんです。だから、わたしと一緒にいてください」


 瑞穂の言葉がスッと心に入ってくる。ぼんやりと彼女を見つめていると、瑞穂は目に涙を浮かべて続けた。


「御影さんの代わりでもいいんです。わたしのものになってほしいなんて言わない。ただ、笑ってほしいんです。あのときみたいな笑顔で……。だから一緒にいて? サチ、お願いだから」


 そっと瑞穂の唇が触れた。少ししょっぱい味がするのは、涙に濡れているからだろう。拒否しようと思えばできたはずだ。けれどサチの身体は動かなかった。

 もう、考えることに疲れていた。

 思考が麻痺しているかのように何も考えられない。瑞穂がくれる言葉はサチが欲していた言葉そのもので、心が満たされるようで。

 自分のことを好きでいてくれる人がいる。自分を必要としてくれる人がいる。こんなにも求めてくれる人がいる。その事実が嬉しくて、心地良くて。もう、このまま彼女の気持ちを受け入れてもいいんじゃないかと思う。そうすれば楽になれるのではないかと。

 そのとき、ふいに蘇ったのは美桜の柔らかな笑顔。そして美桜の唇の感触。甘い、ジュースの味。


「……っ、すみません」


 唇が離れたわずかな瞬間、サチは顔を俯かせて声を振り絞った。瑞穂の動きが止まる。


「ごめんなさい。わたし、今、変で……」

「変?」

「だって、変ですよ。わたしが好きなのは御影さんなのに、どうして――」


 どうして、彼女を突き放せないのかわからない。止まっていた思考が次第に戻ってきてサチは大きく呼吸を繰り返す。


「それに、先生だって変です。なんで代わりでいいなんて、そんな悲しいこと」


 その瞬間、瑞穂が「だって!」と声を荒げた。


「だってそうじゃなきゃ、あなたはわたしのこと見てくれないから!」

「そんなことない!」


 言ってからサチはハッと口を押さえる。


「そんなことないけど、でもわたしは」


 サチは瑞穂の身体を押すようにして離れると「わたしは……」と繰り返す。また、涙が溢れてきそうだ。涙腺が壊れてしまったかのように昨日から涙が止まらない。


「明宮先生?」


 不安そうな声に目を向ける。瑞穂がまるで迷子の子供のような顔でサチのことを見ている。助けを求めるような目で。

 サチは眉を寄せて溢れた涙を手で乱暴に拭うと「ずるいですよ」と呟く。


「え……?」


 欲しい言葉を全部言ってくれる瑞穂はずるい。

 その言葉に甘えて流されようとする自分がずるい。

 寂しさを瑞穂で埋めようと一瞬でも考えてしまった自分がずるい。

 美桜のことから逃げてしまおうとする自分がずるい。


 ――ずるいのは、わたしだ。


 サチは床に転がっていたスマホを掴んで立ち上がると、そのまま玄関へと走った。


「明宮先生!」


 瑞穂の声を背中に聞きながら、サチは部屋を飛び出した。

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