第69話

 寄り道することなく帰宅したサチは、ノロノロと着替えて朝から敷きっぱなしになっている布団の上に座った。

 静かだ。雨も降っていない。カエルも鳴いていない。ナナキはまだ寝ているのだろう。そして、隣の部屋に美桜の気配もない。

 サチはバッグと一緒に畳の上に置いた紙袋を引き寄せて中からゼリーを取り出す。少しぬるくなってしまったそれを一口食べると、ほんの少しだけ気持ちが和らいだ気がした。

 胃痛はまだ続いているが甘みと酸味がほどよく、のどごしも滑らかなので一気に全部食べてしまった。サチは空になったカップを畳の上に転がし、そのまま布団の中に潜り込んだ。

 目を閉じると再び三奈の言葉が蘇ってくる。蘇ってくる言葉を脳内で整理して考えてみても、結局どうしたらいいのかわからない。

 美桜を見るなと彼女は言っていた。彼女の言う通りにすれば美桜は悲しまないですむのだろうか。サチが見なければ美桜はまた笑えるのだろうか。でも、もし彼女が再び笑ってくれたとしてもその笑顔を見ることができない。彼女の笑顔を見ていたいのに、それすらも許してはもらえない。こんなに近くにいるのに。


 ――そんなの、嫌だよ。


 サチは思いながら枕に顔を埋める。

 美桜の気持ちが知りたい。美桜が本当はどうしたいのか、それを知りたい。もう自分の気持ちはわかっているのだ。三奈との会話ではっきりした。

 美桜の隣にいたい。彼女の隣で笑っているのは三奈ではなく自分でいたい。それを美桜が望んでいてくれるのだとしたら尚更だ。

 彼女が望むなら、そのときは――。

 ウトウトしてきた意識の中で同じ考えがグルグルと頭の中を回る。そしてそのうち、サチの意識は眠りの中へ落ちていった。





 コンッと音が聞こえた気がしてサチは目を覚ました。部屋の中は薄暗い。今、何時だろう。思ったがスマホはバッグに入れっぱなしになっていて時間がわからない。

 コンコンッと音がする。サチはハッとして布団から起き上がる。聞き覚えのある音は昨夜と同じ、玄関がノックされる音だった。


「……御影さん?」


 コンコンッと再び玄関をノックする音。


「御影さん!」


 サチは布団から飛び出すようにして玄関へ向かった。そしてドアを開けると、そこに立つ人物を見て動きを止めた。


「あ、松池先生……」


 そこにいたのは瑞穂だった。彼女は驚いたように目を丸くして立っていた。勢いよくドアを開けたので驚いたのだろう。


「すみません、つい」

「誰かと間違えたんですか?」


 瑞穂は悲しそうな笑みを浮かべて首を傾げた。


「いえ。あ、どうぞ」


 サチは言ってドアを開けたまま瑞穂に背を向けた。


「インターホン、鳴らしてくれたらよかったのに」

「寝てるかもしれないと思って。三回ノックして出なかったら帰ろうと思ってました」

「なんで帰っちゃうんですか。起こして――」


 玄関を上がって笑いながら言った言葉を途中で呑み込む。気づくと、背中から回された瑞穂の腕にギュッと抱きしめられていた。パタンッとドアが閉まる音が響く。


「……松池先生?」

「よかった」


 耳元で聞こえる安堵したような瑞穂の声。


「どうしたんですか?」


 身動きができず、抱きしめられた状態のままサチは聞く。


「どうしたじゃないです。五限の授業が終わって職員室に戻ったら明宮先生が早退したって聞かされて。スマホには何もメッセ入ってないし。こちらから連絡しても返信ないし。今日の先生の様子、普通じゃなかったからすごく心配で……」


 心配で、と瑞穂は繰り返してサチを抱きしめる腕にさらに力を込めた。


「……すみません」

「謝られるのは嫌です」


 サチは「スマホ、バッグに入れっぱなしで……」と言いながら瑞穂の腕に手をやる。


「わたし、すぐに寝ちゃってたから」


 すると耳元で瑞穂がフフッと笑った。


「そうみたいですね。今日の先生の部屋は生活感が溢れてます」


 スッとサチから離れて瑞穂が言う。サチは慌てて「あ、いや、これはその……。見ないでください!」と部屋に戻ると電気をつけて布団や脱ぎっぱなしの服、そしてゼリーのカップを一気に片付けた。


「別にそのままでもいいのに」


 クスクス笑いながら瑞穂は言う。そして「よかった」とさっきと同じ言葉を繰り返した。


「少しは眠れたんですね。学校にいたときよりも元気みたい」


 サチは笑って頷き「あ、そういえば今何時です?」と聞いた。


「時計、買ったほうがいいですよ。もうすぐ六時ですけど」

「六時……」


 そのときふいに「あ、マジで犬だ。アパートで犬を外飼いしてるってどういう状況?」と甲高い声が外から聞こえてきた。その声にサチは無意識にビクッと身体を強ばらせた。そういえばナナキの小屋近くにある窓を、ほんの少しだけ開けたままにしていたと思い出す。


「高知さんの声、ですね」


 瑞穂が怪訝そうに眉を寄せて呟く。


「三奈、うるさい。迷惑だから」


 帰宅した美桜がナナキの散歩へ行こうとしているのだろう。いつもと同じように。しかしいつもと違う、寂しそうな声で。


「御影さん、このアパートによく友達連れてくるんですか?」

「いえ。初めてだと、思います……」


 きっと三奈がせがんだのだろう。彼女は知っているのだろうか。ここにサチが住んでいるということを。


「いいなー。わたしも一人暮らしとかしたい。ね、部屋空いてないの?」

「空いてるけど未成年の入居には保護者の許可が必要だから」

「えー、そこをなんとかしてよ」

「無理」


 淡々とした美桜の声。なんだか呼吸が苦しい。サチは短く息を吐いて俯いた。


「……先生?」


 瑞穂が肩にそっと手を置く。


「行くよ。三奈、それ持って」

「どれ?」


 ――嫌だ。


「そのバッグ」

「なにこれ?」


 ――この声を聞いていたくない。


「ナナキのトイレ用グッズが入ったバッグ」

「え、マジで。ちょ、嫌なんだけど」

「行くよ」

「待ってよ、美桜。えー、これトイレ……?」


 ――それを持って一緒に歩くのは、わたしだったのに。


「……っ」


 勝手に涙が溢れてきてサチは慌てて目を両手で覆う。瑞穂がいるのに、泣いてはダメだ。


「明宮先生」


 瑞穂がサチの肩に手を置いたまま静かな声で言う。


「今日は、うちに来ませんか?」


 なんとか涙を堪えて顔を上げると、瑞穂が労るような笑みを浮かべて「ね?」とサチの顔を覗き込んできた。


「ご飯も作りますよ。一緒に食べて呑んで、嫌なこと全部忘れちゃいましょう」

「――嫌なこと、全部?」

「はい。全部。何もかも」

「そう、ですね」


 それもいいかもしれない。ここで一人、あの二人の気配に苦しむのは嫌だ。瑞穂と一緒なら、きっと気も紛れる。

 サチは手早く支度をして外に出ると瑞穂の車に乗り込んだ。瑞穂はゆっくりと車を発進させる。向かうのはナナキの散歩コースとは逆方向だ。

 ミラー越しに見た美桜たちは、こちらには気づかない様子でゆっくり歩いている。二人と一匹、仲良く並んで。

 そのとき美桜だけがこちらを振り向いた。しかし遠ざかっていく彼女がどんな表情をしているのかは、わからなかった。

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