第68話
どれほどの間そうしていただろう。あまり長くこの場にいることはできない。かといって、こんな状態で仕事など出来るわけもない。サチは立ち上がると保健室へ向かった。
「あの、すみません」
戸を開けながら声をかけると養護教員の木坂が振り向き、そして目を丸くした。
「明宮先生? 大丈夫ですか。真っ青ですよ?」
「ちょっと、気分が悪くて。休ませてもらってもいいですか」
「もちろんです。ベッド空いてますから」
「すみません」
サチは言いながらベッドに横たわると深く息を吐き出した。少し身体を丸めるようにすると胃痛が和らぐ気がする。そんなサチの様子を見た木坂が「お腹、痛いんですか?」と聞いてきた。
「朝から具合悪そうでしたけど……。生理痛?」
「いえ」
「食あたり、という感じでもなさそうですし」
彼女はサチの顔を見つめてから「できるなら今日は早退した方がいいかもしれませんね」と言った。
「え……」
「睡眠が足りてないって感じの顔してますよ」
「そう、でしょうか」
「食事もまともにとってないでしょう? げっそりしてます」
「ちょっと胃が痛くて」
木坂は頷くと「あまり色々抱え込まないほうがいいですよ」と労るような笑みを浮かべた。
「初めての教職で、しかも担任なんてストレスが溜まらないはずないですから。他にも色々あるでしょうけど、たまには全部忘れてゆっくりと休むことも大切です」
「全部忘れて……」
「はい。まあ、難しいでしょうけどね」
彼女は微笑みながら「でも、とりあえず今日はもう帰って休んだ方がいいと思いますよ」とベッドから離れてカーテンを引く。
「無理しても良いことなんて何もありませんから」
たしかにその通りだ。無理をして頑張って、そして今、すべてのことが上手くいかない……。
「――少し休んだら、早退しようと思います」
「はい。教頭には先生の体調が悪いこと伝えておきますね」
「ありがとうございます」
サチは言いながら目を閉じる。まだ胃はキリキリと痛む。ぎゅっとお腹を抱えるようにしながら身体をさらに丸めた。
そっと戸が開かれる音がして、そして閉まる音。コツコツと木坂の足音が遠くなっていく。人の気配のなくなった保健室はとても静かで心地良い。けれども眠ることはできない。耳の奥には、まだ三奈の声が残っていた。
ニ十分ほど横になって休んだサチは胃痛が少し和らいできたことを感じて身体を起こした。もうすぐ五限の授業が終わるだろう。その前に帰ってしまおう。三奈の姿も、そして美桜の姿も見ないようにして。
サチはベッドから起き出すといつの間にか戻っていた木坂に「ありがとうございました」と礼を言う。
「もう少し休んでても大丈夫ですよ?」
「いえ。とりあえず胃痛は少し治まったので、あとは家に帰ってから休ませてもらいます」
答えると木坂は穏やかな表情で頷いた。
「くれぐれも無理はしないでくださいね。明日も今日ほど具合が悪かったら休むという選択肢もありますから。一日くらい自習にしてもカリキュラムは問題ないでしょう? あ、それから胃痛がひどいと思ったら迷わず病院へ行ってください。潰瘍ができてるかもしれませんから」
サチはなんとなく驚きながら彼女の言葉を聞いていた。すると彼女は怪訝そうに「何か?」と首を傾げた。
「いえ。先生、いい人だなと思って」
すると木坂は「何を言ってるんですか」と眉を寄せた。
「これがわたしの仕事です」
「ああ、そうですよね。でもこういう感じに心配されるのって新鮮で、つい」
サチが笑うと木坂も微笑んだ。
「先生は心も疲れてるみたいですね」
「そうかもしれません……」
木坂の事務的な優しさが今はなんだかとても心に染みる。
「じゃあ、わたしはこれで。お先に失礼します」
サチは深く頭を下げてから保健室を後にした。
職員室に戻ると、そのまま教頭の元へ行って体調不良で早退する旨を伝えた。すると教頭はすでに木坂から聞いていたらしく、とくに何を言われるでもなく「わかりました」と頷いた。
「あとのことは他の先生に頼んでおきますから、とりあえず今日はゆっくり休んでください」
「すみません」
サチは一礼してから、帰り支度をしてすぐに職員室を出た。そして昇降口へ向かっていると手に紙袋を持った木坂と出くわした。
「あ、よかった。間に合って」
彼女はそう言うと「はい、これ」と袋を差し出してくる。
「何です?」
受け取って中を見るとドーム状のカップに入ったみかんゼリーが一つ入っている。袋が冷たいので、どうやらそれごと冷蔵庫に入っていたようだ。
「それ、うちの近所にある洋菓子店の新作です。美味しいので食べてみてください」
「え、でもこれ先生のじゃ?」
「おやつにと思って買ってたんですけど先生に差し上げます。疲れてるときは美味しいスイーツで気持ちが回復したりしますから。ゼリーなら胃も受け付けてくれるでしょう?」
スンとすました表情で言って木坂は「じゃあ、今日はお疲れ様でした」と職員室へ向かっていく。
「あの、ありがとうございます」
「お大事に」
木坂は背を向けたまま手を振った。
「……本当にいい人」
思わず呟く。そういえば彼女はカウンセラーの資格も持っていると聞いたことがある。もしかするとサチの心情を何か察してくれたのかもしれない。
もし、この気持ちを相談したら何か答えてくれるだろうか。何か解決策を見つけてくれるだろうか。
思ってから首を左右に振る。
――甘えてはダメだ。
サチは冷たい袋を両手に抱えて昇降口へと向かった。
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