雨、溢れた想い
第47話
翌朝六時。サチは犬小屋の近くで美桜がナナキにハーネスを取り付ける様子を眺めていた。美桜は一つ目のハーネスを取り付けてからサチの方へ視線を向ける。そして居心地悪そうに眉を寄せた。
「なんでその人もいるんですか」
「わたしがいては邪魔ですか? 美桜さん」
ミナミがおどけた口調で言う。美桜はため息を吐いて「別にいいですけど」と答える。
「いや、老犬だって聞いたけど本当に結構な老犬だね。おじいちゃん? おばあちゃん?」
「おばあちゃんです」
「ふうん」
頷きながらもミナミは一定の距離を保ったままナナキへ近寄ろうとはしない。むしろ体勢は少し引き気味だ。サチは「もしかして」と首を傾げた。
「苦手だったりする? 犬」
するとミナミは「ちょっとね」と苦笑した。
「だったら別に来なくてもいいのに」
「帰る前にもっかい美桜に会っておきたいなって思ったんだよ。犬に会いにきたわけじゃないの」
すると美桜は怪訝そうに「わたし? なんで?」と言った。
「んー? 内緒」
「は?」
ミナミはニヤリと笑うと「美桜、ちょっとこっち来て」と手招きをする。
「何なんですか」
美桜は面倒くさそうに立ち上がるとミナミの前に立つ。ミナミは美桜の顔を笑顔で見つめると、無言でその頬を両手で引っ張った。
「痛っ!」
「ちょ、柚原さん?」
ミナミはめいっぱい美桜の頬を引っ張ってから手を放して「うん。よし!」と納得したように一人頷く。美桜は驚いて声も出ないのか、呆然としながら両手で頬をさすっている。
「じゃあ、美桜。明宮のことよろしくな」
ミナミは満足そうな顔でそう言うと美桜の肩をポンと叩いた。そしてサチに笑みを向ける。
「明宮も、またな」
「う、うん。また。あ、運転気をつけてね」
サチの言葉にミナミは片手を軽く挙げてから去って行った。
「……なに? なんでわたし、ほっぺた引っ張られたの? すごく痛いし」
「さ、さあ。なんだろうね」
「なんか納得してたけど、え? マジで何なの」
美桜は言って、両手で頬をさすりながら「あれ?」とサチを見た。
「先生、あの人のこと島村さんって呼んでなかったっけ。さっき、柚原さんって……?」
「あ、うん。今は柚原さんだから」
へえ、と彼女は頷くと探るような視線をサチに向ける。
「――何かあった? 夜、あの人と」
サチは笑みを浮かべて「昔の話を、ちょっとね」と答える。すると美桜は「ふうん」と頷きながらナナキの元へ戻った。サチはミナミが去った方を見つめる。朝の静かな空気の中に車のエンジン音が聞こえ、やがて遠ざかっていく。
「じゃ、先生。トイレグッズのバッグ持って」
振り返ると美桜がナナキを引き起こして歩き出したところだった。
「うん」
サチは小屋の上に置いてあったバッグを持つ。そして美桜とナナキの少し後ろをゆっくり歩いた。
一日休んで出勤した学校では今までと変わったことが少しだけあった。
一つ。教頭からの当たりが少し柔らかくなった。それはきっとサチが身を挺して生徒を守ったからだろうと小松がこっそり教えてくれた。
大事な生徒が怪我をするのと教師が怪我をするのとでは問題の大きさが違うらしい。学校の面目はサチのおかげで守られたということのようだ。
二つ。クラスの生徒たちが少し好意的になった。これは、よく理由がわからない。空き時間やホームルーム、授業が終わった直後に話しかけてくる生徒が増えたのだ。しかし、その話の内容はどれもサチが怪我をした経緯を知りたがるものだったので一過性のものかもしれない。それでも生徒たちからちょっとだけ認められたようで嬉しい気持ちになる。
サチは教室で生徒たちとお喋りをしながらも、その視線はどうしても一番後ろの窓際の席に向いてしまう。そこに座る美桜はいつものように机に頬杖をついていた。しかし窓の外を見てはいない。彼女は穏やかな表情でサチのことを見ていた。
――よかったね。
そう言っているような温かな表情。サチは美桜に微笑みを返して生徒たちからの質問に答え続けた。
そして三つ目の変化があったのは瑞穂だ。彼女は職員室だけではなく、廊下で偶然出会った時などでもサチと雑談をするようになっていた。しかも素の彼女のままで。
その変化に気づいたのはサチだけではない。生徒や他の教員たちがサチと話す瑞穂を見ては驚いたような表情で通り過ぎ、そして振り返っていた。
きっと今までの瑞穂ならば、その視線を嫌がっていただろう。けれど何があったのか彼女はまったく視線を気にした様子もなく、自然体のまま話すようになっていた。
「何かあったんですか? 松池先生」
昼休憩。月曜と同じように多目的教室で昼食をとりながら訊ねると、彼女は「何がですか?」と首を傾げた。
「いえ。なんか学校でも明るくなったなと思って」
すると瑞穂は少し考えるようにしてから「きっと」と微笑む。
「先生がいてくれるから、かな」
「わたしですか」
「はい。先生のおかげであまり人の目が気にならなくなりました」
「そうですか……」
答えてサチは「よくわからないけど」と首を傾げて笑う。
「わたしがお役に立てているのなら嬉しいです」
サチの言葉に瑞穂は心から嬉しそうな笑みを浮かべた。そして「ね、先生」と少し身を乗り出してくる。
「今度は先生のお家にお邪魔してもいいですか?」
「んー」
サチは少し考えてから「もう少し家具が揃ってからなら」と答える。すると瑞穂は思い出したように「ああ」と頷いた。
「たしかテーブルもないって」
「そうなんです。テレビもないし。どう生活してるんだって、柚原さんに呆れられました」
「柚原さん……。ああ、島村さんですか。いい人だったんですね、あの人。面白いし。先生の高校時代の話、いっぱい聞いちゃいました」
「……変なこと言ってませんでしたか」
「それは内緒ですけど」
瑞穂は楽しそうに笑う。
どんな話をしていたにせよ、きっと瑞穂の変化にはミナミの影響もあるのだろう。彼女は人を明るい気持ちにさせるから。
それからしばらくの間は楽しい生活が続いていた。
朝は美桜と一緒にナナキの散歩をし、学校では順調に仕事をこなして瑞穂と一緒に昼食を食べる。校内で美桜と会話をすることはあまりなかったが、ときどき目が合って微笑んだりする。そして帰宅して時間が合えば夜の散歩に付き合い、美桜と一緒に夕食を食べたりお喋りをしたりした。
とても穏やかで充実した、幸せな生活。けれど、そんな生活の中でも逃げていることが一つ。美桜への気持ちだ。
彼女の気持ちに対してどうするのか答えを出していない。彼女への気持ちをどうしたらいいのかわからない。わからないからそのままにしていた。その方が心地良かったから。楽だったから。
きっと美桜だって今の関係を続けたいと思っている。そう自分に言い聞かせて誤魔化して、大切なことに蓋をし続けて数週間が過ぎていた。
このままずっとずっと、美桜との心地良い関係が続けばいい。
そう、思っていた。
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