第45話
「シャワー、サンキューって、あれ? 明宮、なんでそんなとこに座ってんの」
バスタオルで頭を拭きながらミナミが出てきたのを見て、サチはハッと我に返った。そして「高校一年の梅雨の日……」と座ったまま問う。
「さっき御影さんの部屋で言ってた、わたしのことをもっと知りたいと思ったきっかけって、もしかして」
するとミナミは微笑んだ。少しだけ嬉しそうに。
「思い出したんだ?」
「うん。あれは島村さん的に覚えててほしくないことかと思ってたから」
「だから忘れた? 器用だな、明宮は」
ククッと笑いながらミナミはバスタオルを肩にかけてサチの隣に腰を下ろした。
「あのとき、わたしすごく嬉しかったんだ。みんなが知ってるわたしは絶対泣いたりしないような奴で、誰かの前で泣くなんてしちゃいけないって思ってた。あのときは母さんが毎日泣いてたから、余計にさ。わたしは笑顔でいなくちゃって。でも、明宮は泣いていいって言ってくれたじゃん?」
「うん」
「ここには誰もいないからって」
「うん。言ったね」
「あのとき、わたし思ったんだよね。明宮のこと好きだなぁって」
「それは、わからなかった……」
サチは両足を腕で抱え込む。ミナミはフフッと笑って「だよね」と頷いた。
「だって、わたしだってよくわかんなかったもん。女の子を好きになるなんて思ってもみなかった。きっと明宮だって女の子を好きになることはないだろうって、そう思ってさ。ずっと――」
悩んでたんだ、と彼女は顔を俯かせて言った。
サチは横目で彼女を見る。俯いた顔から表情は読み取れない。
「三年間悩んでたことって……」
ミナミは顔を上げるとサチを見てヘラッと笑った。
「そう。明宮のこと」
彼女はバスタオルで顔を包むようにしながら「自分の気持ちをどうしたらいいのか、まったくわかんなくてさ」と続ける。
「とりあえず明宮に好かれようと頑張ってみたものの、明宮ってばクール過ぎて全然気持ち伝わらないし」
「いや、面倒見のいい人なんだなって感じにしか思えなかったよ」
「なんでよ」
バスタオルから顔を出してミナミは首を傾げる。
「だって島村さんいつも、なんていうか、軽かったから」
するとミナミは深く息を吐き出した。
「軽く接しないと嫌われると思ったから」
「どうして?」
訊ねるとミナミは息を吐くようにして「だって」と言った。
「あの頃の明宮はきっと相手から強い気持ちを向けられたら逃げてたでしょ」
「それは……」
きっとそうだろう。あの頃のサチは人見知りがひどく、母親の態度が怖く、そして自分という人間が好きではなかった。他人から気持ちを向けられたら混乱して、きっとその相手と距離を置こうとしたに違いない。
「明宮には嫌われたくないし、でも自分の気持ちを我慢できないし。だけど直球で気持ちを伝える勇気もなくて、三年になった頃にはもう苦しくてさ」
苦しくて、と彼女は繰り返した。
「それで辞めようと思ってたの? わたしのせいで?」
「うん」
ミナミは頷いた。そして少し寂しそうに微笑む。
「ま、柚原のおかげで卒業するまで頑張れたけどね」
「……先生、知ってたんだ?」
「そりゃね。そういう相談してたんだから。今思えば、あの男も変な奴だよね。女の子が好きだって言ってる相手に告白するとかさ」
そう言ったミナミの表情は、しかし、幸せそうに見えた。
「明宮はきっと普通に大人になって、誰かわたしの知らない男と付き合って結婚して、そんな平凡な人生を送るんだって、そう自分に言い聞かせてわたしは柚原の気持ちを受け入れたんだ。明宮のことはきっぱり諦めようって」
「そう……」
広がる沈黙。微かにサーッと音が聞こえてきた。どうやら外では本当に雨が降り始めたらしい。キッチンにミナミと並んで座りながら雨の音を聞く。まるで、あの時のようだとサチはぼんやりと思った。
「今日さ」
ミナミは低い声で口を開いた。
「九年ぶりに会えて嬉しかったんだよ。普通に話せて、あの頃のように普通の友達として明宮はわたしを見てくれて。やっぱり明宮は普通の人生を送ってたんだって、そう思った。なのに」
ミナミはバスタオルを頭から被って顔を隠した。
「話してみたら、何なの。女子高生に告白されたってさ。それで悩んでるって言ってるあんたを見てたら、なんか無性に腹が立って相手がどんな奴か見てやろうって、そう思って来たんだ。そしたら、明宮はわたしが見たこともないような表情であの子のこと見ててさ。あんなの好きだって言ってるようなもんじゃん。正直、何なんだよって思った。なんで……」
ミナミの声は震えていた。僅かに触れる彼女の肩が小刻みに震えている。彼女は一度、大きく息を吐き出した。
「――なんで、わたしじゃダメだったんだよ」
そう呟くように言った彼女の声は涙混じりだった。
「島村さん……」
「わかってる。わかってるよ。わたしは旦那のことが好きだし、子供だってめっちゃ可愛いし愛してる。今のわたしは幸せなんだよ。でもさ」
彼女はサチを見た。バサリとバスタオルが落ちる。彼女は泣いていた。あのときのように悲しそうに。そして、寂しそうに。
「なんかもう、よくわかんなくて。モヤモヤすんの。胸が苦しい。今のわたしは幸せだし、家族のこと大好きだよ。でも、やっぱりまだどこかで明宮のことも好きなんだよ。だから」
「……だから?」
だから、とミナミは繰り返して涙を流しながら唇を噛んだ。
「こうして、二人っきりで話したかった」
ミナミは真っ赤になりながら続ける。
「全部ぶちまけて、スッキリしたかった」
そして彼女は潤んだ瞳でサチの目をまっすぐに見つめた。
「島村ミナミは、明宮サチのことが大好きだった! 大好き、だったんだ――」
言いながら、彼女は再び俯いた。
「……うん」
サチは頷くと、床に落ちたバスタオルを拾ってミナミの頭に被せた。そしてまだ濡れている髪を拭いてやる。ミナミは顔を俯かせて、ただされるがまま拭かれている。あのときのように。
サチは高校時代のことを思い出しながら「わたしね」と口を開く。
「高校生の頃って本当に自分のことしか考えてなかった。自分のことが嫌いで、でも傷つきたくなくて。傷つくのが怖いから誰かと必要以上に関わりたくなくて、いつも逃げてた。きっと年齢よりもすごく子供だったの。そんな子供だったわたしは、島村さんの気持ちに気づけなかった」
サチは手を止めるとバスタオルごとミナミをそっと抱き寄せた。
「ごめんなさい」
胸元でミナミの押し殺した泣き声が聞こえる。外で降り続ける雨は、それをかき消すには弱々しい。
「明宮は」
掠れた声で彼女は言う。
「あの頃、少しでもわたしのこと好きだった?」
サチは微笑む。
「じゃなきゃ一緒にご飯食べたり、修学旅行を二人で行動したり、深夜まで長電話したりしなかったよ。わたしは島村さんのおかげで寂しくなかった」
ありがとう、とサチは彼女を抱きしめた。背中に回されたミナミの手がそっとサチを抱きしめ返してくる。
「そっか。なら、いいや。わたしも明宮がいたから寂しくなかった」
――こうしてれば寂しくないでしょ? わたしもこれで寂しくない。
思い出した。そう言ってミナミが一緒に昼食を食べようと言ってきたのは、あの梅雨の日の翌日だったのだ。あのときから、彼女はいつだってサチの近くにいてくれた。
「明宮は、今は寂しくない?」
「うん。寂しくない」
「そっか」
「島村さんは、寂しくない?」
するとミナミは「幸せだよ」と呟くように言った。
「母さんと旦那、それに子供。大好きな人たちと一緒にいられてすごく、すごく幸せ」
「よかった」
そう言って、サチは彼女をぎゅっと抱きしめる。
「――ありがとう、サチ」
彼女がサチのことを名前で呼んだのはそれが初めてで、きっとこれが最後なのだろう。彼女を抱きしめながら、サチはそう思った。
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