第44話

 シャワーの音が微かに聞こえてくる。それはまるで雨の音のよう。サチはキッチンに座り込んだまま床を見つめていた。


「――雨」


 呟きながら記憶を探る。

 そうだ。あれは雨の日だった。高校一年の最初の梅雨。昼休憩の校舎裏。そこで、サチはミナミを見つけたのだ。

 別に探していたわけではない。あの頃のサチはまだミナミにしつこく絡まれることもなく、孤立した高校生活を送っていた。昼休憩になると教室を抜け出し、誰もいない場所を探してはそこで昼食を食べていたのだ。

 あのときもそうだ。一人になれる場所を探して彷徨っていただけ。そして、彼女を見つけてしまった。校舎裏の屋根のない場所で彼女はびしょ濡れになって立っていた。その細い肩を震わせて。

 驚いたサチは思わず声をかけていた。「大丈夫?」と。すると彼女はびくりとして振り返った。そしてサチの姿を認めると笑みを浮かべた。明らかな泣き顔で、一生懸命に笑っていた。まるでこの涙は雨だと言わんばかりに笑いながら「うっかり濡れちゃった」と彼女は言ったのだ。

 何をうっかりしたのか、まったくわからない。おそらくこんな場所に誰かが来るとは思ってもいなかったのだろう。彼女は居心地悪そうに笑って、そして俯いた。

 そんな彼女の手をサチはそっと引っ張って屋根のあるところまで引き戻す。


「明宮も濡れちゃうから、ほっといていいよ」


 俯いたまま言った彼女の声は小さく、雨の音に負けてしまいそうなほどだった。


「うん」


 サチは頷いてハンカチで彼女の頭を拭いてやる。小さなハンカチはすぐにびしょ濡れになってしまったが、それでも拭かないよりはマシだろう。

 頭を拭かれながら立ち尽くすミナミは何を言うでもなく、ただされるがまま俯いているだけだ。やがてミナミはズズッと鼻をすすると顔を上げ、そして笑う。


「ハンカチ、もう今日は使えないね」


 そう言って、いつものように笑おうとする。懸命に。頬を引き攣らせて。サチは無言で彼女の手を引っ張ると、その場に座り込んだ。ミナミも引っ張られるがままサチの隣に腰を下ろす。


「島村さん、ご飯は?」


 弁当の包みを開けながらサチは問う。ミナミは笑ったように息を吐いた。


「ない。今日は昼抜き」

「そう。じゃあ、半分あげる」

「へ?」


 ミナミの素っ頓狂な声がなんだか少し面白くてサチは笑みを浮かべ、二人の間に弁当を置いた。


「先に食べていいよ」

「……ありがとう」


 不思議そうに言いながらミナミは弁当を見つめ、やがて「何も聞かないんだ?」とサチを見た。サチは首を傾げて「なんで泣いてるのって?」と問う。


「違うよ。なんでここにいるのかって。そもそも泣いてないし」


 ミナミは笑ってそう言うと空を見上げた。


「雨だよ、雨。わたしが泣くわけ――」

「泣いてもいいのに」

「え……」


 ミナミは目を丸くする。そんな彼女にサチは微笑んだ。


「悲しいときは泣いてもいいよ。別に誰が見てるわけでもないんだし」

「……明宮が見てるじゃん」

「見てないよ」


 サチはミナミから顔を背け、雨に打たれる雑草を見つめた。


「わたしは、いないよ」

「いるじゃん」

「いないよ。ここには誰もいないから」


 隣でミナミが声を殺して泣いている。その声は雨の音と混じってサチの耳には何も聞こえない。

 サチはぼんやりと雨を見つめて座り続けた。昼休憩が終わり、午後の授業が始まり、そして放課後になるまで、ずっと。その間にポツリ、ポツリとミナミは話してくれた。

 父親が事故で亡くなったこと。母親が見ていられないほど弱っていること。自分が母親を支えようと頑張ったけど、どうにもできないことが多すぎたこと。

 どうしたらいいのかわからないと、彼女は泣いていた。

 悲しみ、寂しさ、そして自分の無力さに対する苛立ち。そのすべてが溢れてしまったのだろう。今、隣に座る彼女は教室で見る島村ミナミとは別人のようだった。サチはそんな彼女の話を、ただ静かに聞き続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る