第41話
「……松池先生は島村さんが嫌いなんですか?」
瑞穂の態度からして、きっと好意は抱いていないだろう。そう思って聞いてみると彼女はハッとしたようにサチを見た。そして薄く微笑む。
「いえ、島村さんがというわけではなく……。わたし、特に子供の頃の知り合いが苦手なんです。大人になってから出会った人なら、まだ大丈夫なんですけど」
「どうして?」
すると瑞穂は辛そうな表情を浮かべて俯いた。
「……小学校低学年くらいまで、いじめられっ子だったんです。わたし」
「え。それ、もしかして島村さんが――」
「ああ、いえいえ」
瑞穂は慌ててサチが言おうとしたことを否定した。
「彼女とは本当にまったく接点はなかったので顔は知ってるっていうくらいです。それにいじめられてたって言っても、クラスの女子数人からなんですけど」
そう言うと、彼女は浅くため息を吐いた。
「わたし、すごく気が弱くて人見知りで、学校行くのが苦痛で仕方なかったんです。そんなとき、兄と一緒に空手を習いに行くようになって」
「お兄さんと……」
「はい。兄はわたしがいじめられてることを知ってましたから、自分の身は自分で守らなきゃだめだぞって。わたしバカだからそれを言葉通りに受け取って鵜呑みにして、やり返しちゃったんです。習ったばかりの空手で。そしたら」
「いじめられなくなった?」
サチが問うと瑞穂は苦笑しながら頷いた。そして「でも」と続ける。
「すごく怒られて、通ってた空手道場はクビになりました。両親は相手の子の家に謝りに行って、わたしも謝って。そして学校で完全に孤立してしまったんです。噂は他学年まで広まってしまって……。そりゃそうですよね。わたし一人でいじめっ子三人を病院送りにしてしまったんですから」
「それは……。なんというか、思い切りましたね」
「相手がわたしをいじめてたっていうことは先生も承知していたみたいで、ケンカ両成敗みたいな感じにはなったんですけどね。それ以来、わたしはいじめられることもなければ誰かと友達になることもなくなったんです。ずっと、一人でした」
サチはたこ焼き屋のおじさんの話を思い出していた。一度だって友達を連れてきたことはなかった。高校の卒業式の日だって一人でたこ焼きを食べに来ていた、と。
きっと、その頃には噂だって消えていたはずなのに。それでも瑞穂の心には残ってしまったのだ。相手が自分を怖がって引いてしまう、そのときの恐怖が。
「なるほど。そういう理由だったのか。松池が一人でいたのって」
ミナミが鍋に食材を入れながら言った。
「そんな松池先生には興味をもたなかったんですか、あなたは」
ミナミの隣で作業をしている美桜が言った。たしかにミナミの性格ならばそんな状況の瑞穂を放っておくとは思えない。たとえ別のクラスだったとしても、何かしら絡みに行ったに違いない。しかしミナミは「んー」と唸った。
「わたし中学まではわりと病弱で、よく学校休んでたからさ。あんまり知らなかったんだよね」
「え!」
サチと美桜の声が揃った。
「失礼だな、君たちは。な、松池。わたし病弱だったよな?」
「あ、いや。同じクラスじゃなかったからよく知らないけど。たしかに、あんまり学校には来てないイメージだったかも」
「だろ? しかもさ、わたしは松池に興味あったんだけど、話しかけようとしたときの松池の逃げっぷりが半端なくて」
「逃げっぷり……?」
サチが瑞穂を見ると彼女は「だって」と俯いた。
「島村さんの勢いが怖くて、つい」
「ああ」
「なるほど」
サチと美桜の声が再び揃った。
「なんだよ、その納得は」
ミナミの声は不服そうだ。しかし、きっと一度でもミナミと同じクラスであったなら瑞穂の学校生活も変わっていたに違いない。
ミナミなら、あのたこ焼き屋のおじさんとも意気投合しそうだ。そして二人で楽しく放課後に寄り道したり遊びに行ったりしていただろう。子供が普通にそうするように。
そうなっていれば瑞穂はもっと人前で素の自分を出せるようになっていたに違いない。友達だってたくさんできていたはずだ。瑞穂は同性から見ても魅力的なのだから。
そんなことを思っていると、美桜が「なんか、ちょっと似てますよね」と言った。
「先生と松池先生って。ぼっちだったところとか」
「え、なんですかそれ。明宮先生がぼっち?」
瞬間、瑞穂が瞳を輝かせる。
「さっき、この人が話してくれてたんです。高校時代の明宮先生のこと」
「そんな楽しそうな話を……?」
瑞穂はうずうずした様子でサチを見ると、バッと立ち上がった。
「あの、わたしもお手伝いしますので少しだけそのお話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか」
「ちょっと、松池先生?」
「なんだよ、明宮モテモテじゃん」
「ていうか狭いです」
「どんな高校生だったんですか、明宮先生って」
どうやら自分の話題でなければ瑞穂はミナミと話しても平気らしい。ウキウキな様子で美桜の隣に立って料理に参加し始めた。
「ああ、何なの。ほんとに」
サチはため息を吐くとテーブルの上に頬をつけた。そしてキッチンを眺める。
狭いスペースに三人が押し合うように並んでサチの高校時代の話で盛り上がっている。賑やかだ。美桜と二人で過ごす時間も静かで心地良いが、こういう賑やかな時間も楽しくて良いかもしれない。
何も悪意のない楽しそうな声。こんな時間を過ごすのも、何年ぶりかわからない。
――家を出て良かったな。
サチは微笑みながら心から思う。新しい生活。新しい出会い。新しい発見。懐かしい再会。そして今まで経験したことのない気持ち。
サチの視線は自然と美桜の背中に向いていた。
明日からも彼女とこうして楽しく過ごしたい。ミナミや瑞穂がいなくても、こうして自然にお喋りをしていたい。そして笑ってほしい。あの、サチにだけ向けてくれる笑みで。
そんなことを思ってしまう自分の気持ちは、もうわかっている。自覚してしまえば悩むまでもない。自分は美桜のことが好きなのだ。
きっと別れた恋人に抱いていた気持ちよりも強く彼女のことが好きだ。だって彼と付き合っていても、こんなに温かな気持ちになったことはなかった。彼の笑顔を自分のものにしたいと思ったことだってなかった。別れて会うことがなくなっても平気だ。
でも、彼女に対しては違う。
サチは誰にも気づかれないように息を吐いた。
彼女はサチのことが好きだと言った。きっとこの想いは同じ。しかし彼女はまだ高校生。精神的にも不安定な年頃だ。もしかすると彼女のサチに対する想いは一時的なものかもしれない。思春期ゆえの錯覚かもしれない。だから受け入れてはいけない。彼女の為に。
そう思ってしまう自分もいる。
だってサチは大人なのだから。彼女の人生を導かなければいけない立場なのだから。
ミナミがからかったのか、瑞穂が慌てたように何か言い返している。その様子を見て美桜が笑っている。楽しそうに。心からの笑みで。この部屋で、いつもサチに向けていたような笑顔で。
――モヤモヤする。
サチは美桜の背中を見つめながら思う。
彼女を傷つけない答えはなんだろう。どちらの答えを出したとしても、あの笑顔をずっと自分に向けてもらいたい。他の誰でもない、自分だけに。そんな我が儘を叶えるにはどうしたらいいだろう。
思ってからサチはため息を吐いた。
「いい歳して、何考えてんだろ」
ワッとキッチンで笑い声が上がった。サチはそんな三人の背中を見ないように、そっと目を閉じた。
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