第35話

 結局、ミナミが手土産に選んだのは最近お気に入りだという洋菓子店の創作スイーツだった。ちゃっかりと自分の分まで買った彼女は、ご機嫌な様子で車を走らせていた。


「ねえ、島村さん」

「んー?」

「住所、ナビに打たなくても大丈夫? わたし、あんまり道案内上手くないけど」


 手土産を買ったあと、もうアパートへ向かうと言うので住所を伝えたのだが、ミナミは一度聞いただけで何を確認することもなく車を発進させてしまったのだ。もしかするとサチの口頭での道案内を期待したのかもしれない。

 そう思って聞いたのだが、彼女は「大丈夫だよ」と笑った。


「その辺、よく知ってるから」

「え、そうなの?」

「うん。中学出るまではその地域に住んでたんだ。だからなんとなくわかる」

「そうなんだ。知らなかった」

「明宮は何も知らないからなぁ」


 ミナミは笑いながら言う。サチは「そうだね」と頷いた。そしてなんとなく沈黙が続いた。車のスピーカーから流れてくるのはFMラジオ。普段ラジオは聞かないので、なんだか新鮮だ。

 やがて車は市街地を出て田舎道に入る。周囲に並んでいた建物の圧迫感がなくなった開放的な風景を眺めていると「明宮はさ」とミナミが口を開いた。


「高校の友達とか、連絡とってんの?」

「ううん」


 言ってからサチは「というか」と苦笑する。


「わたし、友達らしい友達っていなかったから」

「……そっか」


 少し暗いトーンの声にサチは彼女の横顔を見た。寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。


「島村さんは友達多かったから、まだ付き合いあるんでしょ?」

「いや、わたしもまったく。高校出てからは誰とも連絡取ってないから」

「そうなの?」


 意外だった。彼女は誰とでも仲が良くて親友と呼べる子だっていたはずだ。そう簡単に縁を切るような性格でもないと思っていたのに。


「……どうして?」


 聞いてみたが、ミナミは答えない。しばらく彼女は無表情に運転を続けていたが、やがて「わたしね」と口を開いた。


「もう島村じゃないんだ」


 一瞬何を言われたのかわからなかったが、すぐに納得する。


「結婚してるんだ?」

「うん」

「へえ。ちょっと意外」

「そう?」

「ちょっとね。今はなんて言うの?」

「柚原」

「柚原……?」


 どこかで聞き覚えのある名字だった。サチは眉を寄せて記憶を探る。そして高校時代の記憶にその名前を見つけ、思わずミナミの横顔を凝視した。


「柚原って、もしかして」


 ミナミは苦笑した。


「やっぱ覚えてたか。そう。英語の柚原だよ。三年のときは担任だった」

「え! ほんとに? ほんとにあの柚原先生なの?」

「そうだよ。あの柚原。やっぱりわたしと釣り合わないよなぁ? わたし、こんなに美人だし。あいつ十二歳上だし」

「いや、釣り合わないことはないと思うけど。柚原先生、結構人気あったし。でも、いつ結婚したの?」

「十九のとき。娘もいるんだ」

「そう、なんだ。何歳? 娘さん」

「今年で八歳」

「八歳かぁ……。え、八歳?」


 サチは思わず頭に手をやって考える。八歳ということは八年前に産まれたということだ。今年、ミナミはサチと同じで二十七歳になる。となると子供が産まれたのはミナミが十九歳のとき。

 サチは頭に手をやったまま「ち、ちなみに娘さんの誕生日は?」と聞く。


「十月一日」

「え、待って。ちょっと待って? それってつまり――」

「そう」


 鼻で笑うようにミナミが言った。


「妊娠してたの、三年の冬」


 あまりの衝撃にサチは言葉を見つけることができなかった。思考が追いつかない。しかし、たしかに思い返してみれば卒業を控えたあの時期、ミナミの様子は少し違っていたような気がする。どこか周りと距離を置いていたのだ。

 そんな彼女の態度を深く考えることもしなかったのは単純に会う機会が減ったからだった。高校三年の冬は、そのほとんどが自由登校。進学先が決まったサチは登校日以外は学校へ行くことがなくなっていた。

 ふう、とミナミが長く息を吐き出した。そして笑う。


「誰にもそのこと言わずに卒業しちゃったからさ、なんか後ろめたくて。友達全員と縁切っちゃったんだよね。そうするしかないって思っちゃって。わたしもガキだったから」


 前方の信号が赤になり、ミナミはゆっくりとブレーキを踏み込む。走行音のなくなった車内に聞こえるのはエンジンと小さく流れるラジオの音だけだ。


「いつから付き合ってたの? 先生と」

「……あれは、付き合ってたとは言わないかな」


 ミナミはどこか遠くを見ながら言った。信号が青になり、再び車が走り出す。


「わたしさ、高校の三年間ずっと悩んでたことがあったんだ。それはどうしようもない悩みで、自分でどうにかすることなんかできなくて。それで三年になった頃、学校辞めようかなって思ってた」

「え……」


 知らなかった。ずっと同じクラスだったが、ミナミが何かに悩んでいる様子を見たことは一度だってなかった。彼女はいつだって周囲を明るくさせるような笑顔で楽しそうに毎日を過ごしていた。


「でも柚原がさ、相談に乗ってくれて。わたしがあんまり思い詰めてたもんだからプライベートでも気晴らしに遊びに連れてってくれたりしてたんだ。で、なんか、そのうちあいつがわたしのこと好きだとか言ってきて。わたしは相手にしなかったんだけど、でも、なんかいつの間にか、ね――」

「知らなかった……」


 サチが呟くとミナミは「だろうね」と笑った。


「明宮はさ、ほんとわたしのこと何も知らないんだから」


 明るい口調で彼女は言う。そして前方に見えたアパートに気づくと「あ、これか」と車を減速させて駐車場へと入った。

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