第6話

 シャワーを浴びて借りたスウェットに着替え、酒臭い服は丸めてバッグに入れた。そういえば、この服のままで寝てしまったのだからきっと布団だって酒臭くなっているだろう。あれもクリーニングに出して返さなければ。

 考えながら浴室を出たが、まだ美桜は戻ってきていなかった。老犬との散歩は朝でも夜でも変わらず、あのペースなのだろう。もう少し時間がかかるかもしれない。待っている間にできることは何かないだろうか。

視線は自然とシンクに向いた。そこには朝食の皿とフライパンがそのまま置かれてあった。


「洗っても、いいよね?」


 サチはとりあえず皿を洗い始める。ちょうどそのとき、玄関のドアが開いた。


「あれ? 先生、洗ってくれてるんですか」

「あ、うん。一応、大人としてこれくらいは」

「へえ」


 視線を向けると、美桜は冷めた目でサチを見ていた。


「なに、その目は」

「いや。今更大人とか言われてもなぁと思って。けっこう大変だったんですよ? 酔っ払った先生を布団に運んで寝かしつけるの。吐くだの吐けないだの延々と――」

「……それは、その、すみませんでした。あんまり覚えてないけど」


 サチが素直に謝ると美桜は苦笑して「いいですよ、別に」とシューズボックスの上に置かれた箱からドッグフードと犬用の皿を取り出した。


「あ、あと布団はちゃんとクリーニング出して返すから。もちろんこの服も」

「ああ、別にいいですよ。服は普通に洗濯してくれれば。あの布団は先生にあげますし」

「え?」


 計量カップ一杯分のドッグフードを皿に入れて美桜はにやりと笑った。


「引越祝いです」

「いや、でも」

「元々来客用で買ってあったんですけど来客なんてないし。どうせ使わないから」


 言いながら美桜は再び玄関を出て行く。サチは皿についた洗剤を洗い流しながら深くため息を吐いた。なんだか教え子の方が大人な気がする。やはり、ずっと実家暮らしだったのがいけないのだろうか。

 皿とフライパンを洗い終わったサチはバッグを持って外へ出た。そしてアパートの裏に回る。そこで美桜は犬の身体を支えるようにして腰を下ろしていた。どうやらその状態のまま犬が餌を食べ終えるのを待っているようだった。


「なにしてるの? それ」

「支えてるんですよ」


 美桜は微動だにせず答える。


「うん。それはわかる。なんで支えてるの?」

「だってこの子、この体勢維持できないから」


 言った美桜は優しく微笑んだ。


「だから食べ終わるまでは待っててあげなきゃいけなくて」

「毎朝?」

「そうですね。朝と夜と。昼間は母が見に来てくれるんですけど、母は世話が下手だから、この子は不満みたいで」

「ふうん」


 やはり美桜はこのナナキの事を話しているときはすごく優しい表情をする。


「犬、好きなんだね」


 ただそう思ったから言った言葉だった。しかしその言葉を聞いた瞬間、美桜の顔から表情が消えた。


「別に、好きとかそういうんじゃないですよ」


 低く冷たい声。彼女はナナキを見つめながら「これは後始末です」と続けた。


「――え」


 思わず言葉を失っていると、美桜は「あ、そういえば」といつもの淡々とした口調に戻って視線をサチに向けた。


「うちの母、昼の二時くらいだったら時間とれるみたいなんですけどいいです? わたしの部屋で契約手続きってことで」

「あ、えと、うん。大丈夫だけど……。あ、でもわたし保証人とかいないよ? 親は、たぶん無理だろうし」

「ああ、あの様子じゃそうでしょうね」


 美桜は嘲笑を浮かべると「じゃ、わたしが保証人ってことで」と言った。


「それは無理じゃない?」

「じゃあ、保証人はなしでいいですよ。先生は素性がはっきりしてるので問題ないです。それはわたしが保証しときます」

「……どうも」


 非常勤だから職も安定していないのに本当にいいのだろうか。途中で追い出されたりしないだろうか。家賃は結局いくらになるのか。色々と不安がよぎる。


「部屋の間取りはどこも一緒なんですけど、希望のところあります?」

「え、いや、どこでも」

「じゃ、わたしの隣の部屋ってことで。ちゃんと掃除もしてあるし、エアコンとコンロ、それから電灯とか、そういうのは備え付けてありますから問題ないですよ。あ、小型の冷蔵庫も」

「えと、じゃあ、何を用意すれば」

「そうですね……」


 少なくなったドッグフードを一生懸命口に運ぶナナキを見つめながら美桜は言葉を切り「服とか化粧品とか?」と呟くように言った。


「え、それだけ?」

「生活用品は色々と揃えなきゃでしょうけど、しばらくはうちのを貸してあげますよ」

「……いや、ちゃんと自分で」

「お金あるんですか?」


 言い返せないほど経済力のない自分にがっかりしながらサチは「お世話になります」と頭を提げた。美桜は「素直でよろしい」と頷く。


「とりあえず契約したらすぐに入れるんで、先生は一度家に帰って適当に必要な荷物持ってきたらどうですか?」


 そう言って美桜はゆっくりと腰を上げた。どうやらご飯の時間が終わったようだ。ナナキは満足そうに口をクチャクチャ動かすと、そのまま身体を横たえて目を閉じた。


「おやすみ、ナナキ」


 美桜は柔らかくそう言うとナナキの身体に薄いタオルをかけてやる。日中は気温も上がるので、あれが布団代わりなのだろう。


「で、とりあえず契約に必要なものは身分証と印鑑です」

「あ、うん。わかった。でも本当の本当に貸してくれるの? 部屋」


 色々と不安なので念を押して聞くと、彼女は何を今更と言いたそうな表情で頷いた。そして「先生」と笑みを浮かべる。ナナキに向けていたような、あの柔らかな微笑みを。


「これで寂しくないでしょ?」


 優しい表情の彼女はそう言って首を傾げた。しかし、その笑みに見惚れていたサチには言葉の意味が理解できない。


「え、なにが?」


 聞き返すと、彼女はやれやれとため息を吐いて「いいから早く行ってきてください」と手を振った。


「えと、じゃあ――」


 この場で言うべき挨拶は何だろう。少し思案してから「――いってきます?」と言うと美桜は一瞬きょとんとした表情を浮かべてから楽しそうに笑った。


「はい、いってらっしゃい」


 何だか立場が逆転しているような気がするのは何故だろう。まるで年上のような教え子に見送られながら、サチは一度家へと戻るため車に乗り込んだ。

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