変化、始まる新生活
第7話
爽やかな青空の下、のどかな田園地帯を走り抜けて車は見慣れた市街地に戻る。ゆっくりと車を走らせながら、サチの頭の中では母との会話のシミュレーションが繰り広げられていた。しかし、いくら試してみても上手く母を説得できない。
脳内ですら上手くいかないのだ。実際にはさらに無理だろう。そもそも、まともに会話できる自信がない。しかし……。
「契約するって言っちゃったしなぁ」
一度気持ちを落ち着けようとコンビニの駐車場に入る。そしてコーヒーを買って車の中で一息ついた。
そういえば起きてから一度もスマホを確認していなかった。どうせ母からの不在着信があるだけだろう。そう思いながらバッグから取り出したスマホは、なぜか電源が切れていた。
「御影さんかな」
きっと母からの電話に出たあと切ったのだろう。思いながら電源を入れる。少しして起動した画面には、とくに誰からの連絡の痕跡もなかった。彼からも連絡はない。
トークルームは消したしアカウントもブロックしたが電話番号やメールアドレスは削除していないのに。いや、こちらがしていないだけで彼はもう削除しているのかもしれない。自分の存在なんてその程度。だが、それに傷つくのはどうかしている。そういう関係しか築けなかったのは自分なのだから。
サチは深く息を吐き出しながらハンドルに両腕を乗せ、顔を伏せた。
彼のことはもういい。忘れよう。それよりも母との会話のことを考えなければ。
「……めんどくさいな」
思わず呟く。そのとき、ポンと通知音が響いた。サチは眉を寄せて顔を上げる。スマホの通知音はすべて切っていたはずなのに。いや、そもそも普段からマナーモードを解除することはない。
スマホに手を伸ばして画面を見るとメッセージの通知があった。その送信者の名を見てサチはさらに眉を寄せる。御影美桜とあったのだ。
「なんで」
呟きながら開くと『毒親からの脱出、頑張ってください』とあった。思わず苦笑しながら返信する。
『御影さんのアカウント、登録した覚えないんだけど?』
既読。そしてすぐに返信。
『昨日、電話のあとで先生の指を片っ端から指紋認証試してロック解除しました』
『え、なにそれ。怖いんだけど』
『酔っ払うと危ないっていう教訓ですね。わたしのアカウント登録しただけなので、他には何も見てませんよ』
『だったらいいけど』
すると既読がついたまましばらく何も反応がなかった。会話は終わりだろうかとスマホの画面を閉じかけたときスタンプが押された。それは可愛らしいゆるい犬のキャラが「ファイト!」という文字を背負っているスタンプ。サチは『ありがとう』と返信をして笑みを浮かべ、スマホを閉じた。
「あんた、誰なの? あの電話の相手!」
帰宅するなり母の第一声はそれだった。ドアが開く音を聞いてバタバタと玄関まで出てきた母は随分と怒り心頭の様子。サチは「誰って、友達だけど」と視線を逸らしながら答えた。まさか教え子だとは言えない。
「友達? 誰? 母さん知らないわよ」
「なんでわたしの友人関係を全部把握されなくちゃいけないのよ」
「なにその口の利き方は。ああ、あの子の影響なんでしょ。もう付き合いやめなさい。あんな礼儀を知らない子なんてろくでもないから。あんたが家を出るとかわけわからないことを――」
「出るから!」
母の言葉を遮ってサチは言った。母は眉を上げて「なんですって?」とサチを睨んでくる。ここで黙ってはダメだ。サチは両手を握りしめて「わたし、家出るから」と続けた。
「ふうん。本当に出る気なの? 母さんも父さんも援助しないよ?」
「いいよ、別に」
「何がいいのよ。無理でしょ、一人暮らしなんて。あんた貯金だってないんだから。いつまでも定職につかずフラフラしてるから。まったく……。お金もない、定職もない、結婚の予定もない。あんたは本当にダメな子なんだから、せめてお見合いでもして――」
「そんなわたしにしたのはお母さんでしょ!」
堪えきれずにサチは声を荒げた。両手が震えている。息が苦しい。それでも母から目を逸らさず、サチは続ける。
「何をしてもダメな子だって子供の頃からずっと言われてきた。そう言われて育ったら本当にそういう人間になっちゃうってわかんない? 友達だって、なんでお母さんが全員知ってなきゃいけないわけ? どこへ行くにもいちいち行き先を聞いてくるし。結婚が一番の幸せ? 今、どういう時代だかわかってる? お母さんの時代とは違うんだよ! わたしは別に周囲と同じように生きようとも思ってない。お母さんと同じ人生を歩もうなんてこれっぽっちも思ってないの! 押しつけないでよ! もううんざりだよ!」
一気に言葉を吐き出してしまった。肩で息をしながらサチは母の顔を見る。母は信じられないものでも見たように目を丸くし、そして嫌悪感に満ちた表情で「じゃあ、勝手にしなさい」と静かに言い放った。
「もう母さんは何もしないから。困っても助けないよ」
「いいよ、それで。今日からもう出て行くから。父さんにもそう言っといて」
返事はない。サチは母の横を通り抜けると自室へ向かった。そして込み上げてくる涙を堪えながら旅行用のキャリーバッグを出して服を詰め込んでいく。とりあえず仕事用の服を多めに。私服は少しでいいだろう。それから化粧品と、毎日使う小物類。それらを適当にキャリーに詰め込んで部屋を出る。母は、まだ玄関に立っていた。
「荷物は少しずつ取りにくるから。あと、借りてるお金もちゃんと毎月少しずつ返す」
母は答えない。サチは母の顔も見ず、玄関に置いていた靴もキャリーバッグに押し込んで家を出た。そして走って車へと駆け込む。
キャリーバッグを後部座席に投げるように入れて運転席に座ると、大きく息を吐き出した。
頭がクラクラするのは二日酔いのせいではないだろう。酸素が足りない。血圧が上がっている。母に対して声を荒げたのは初めてかもしれない。誰かに対して感情をぶつけたのもいつ以来だろう。よくわからない感情が駆け巡り、目頭が熱くなってくる。
「あー、もうっ!」
無意味に声を荒げる。そして車のエンジンをかけた。ナビに表示された時刻は十二時十三分。そういえば、玄関に入ったとき良い香りがしていた。焼きそばのソースのような香り。もしかしたら母は昼食を用意して待っていたのかもしれない。サチがお昼ご飯を食べに帰ってくると思って。
「あー、もうめんどくさい!」
一人車内で吠えたサチは脱力してハンドルに顔を伏せる。そして溢れた涙を袖で拭った。そのときふわりと香った柔軟剤の香り。
それは、美桜の香りだった。
ズズッと鼻を啜って、サチはゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
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