第5話

 サチは深くため息を吐いてトーストをかじった。香ばしくカリッとした食感。スクランブルエッグは塩気は控えめだが卵の味が濃く、ふんわりとしていて美味しかった。


「ここの管理はうちの母がやってるんで契約はそっちでやってもらうことになりますけど、きっとすぐにオーケーでますよ。ここ、わたしの他に誰もいないし」

「え、そうなの?」

「しかも立地がこんなとこなんで家賃も安いです」

「……いくら?」

「さあ。たしか四万くらいだったかと」

「四万。四万かぁ」


 唸るように言いながらパンをかじっていると、美桜は「まさか」と眉を寄せた。


「四万も払えないくらい薄給なんですか? 学校の先生って」

「ああ、いや。正規職員だったらそんなこともないんじゃないかな。よく知らないけど。わたし、非常勤だから」


 非常勤、と美桜は繰り返しながら頷いた。


「そういえば三奈がそんなこと言ってたな」

「三奈……。ああ、高知さんね」

「うん。先生、非常勤なのになんで担任になったんだろうねって」

「それは――」


 わたしが聞きたいよ、という言葉をコーヒーと一緒に飲み込む。ダメだ。愚痴を零してはいけない。彼女は生徒なのだから。

 しばらく無言で食べ続けていると、先に食べ終えた美桜が「どうします?」と首を傾げた。


「なにが?」

「うちの部屋借ります? だったら今日、母に言ってみますけど。家賃は少しだけならどうにかできるかもしれないし」

「え、そうなの?」

「はい。元々このアパートって税金対策みたいなところがあって、祖母が道楽でやってたようなものなんですよね。だから別に家賃収入とか期待してないんですよ」

「税金対策……。御影さんの家って、お金持ちなの?」


 そうですね、と美桜は淡々とした口調で頷いた。


「いくつかアパート持ってて、そっちはちゃんと人が入る物件なんで真面目に経営してますね。ああ、でもいくらここがボロアパートでへんぴな場所にあるからと言っても、さすがにタダってわけにはいきませんよ?」

「うん。それはわかってる。三万円台なら、なんとか」


 すると美桜は深くため息をついた。


「本当に貧乏なんですね。貯金は?」

「ない」

「即答ですか」


 ズズッと美桜がコーヒーを飲む。そして「とりあえず」と立ち上がり、自分の皿をキッチンへと運んでいく。


「借りるってことでいいですよね。だって先生の毒親にもそう言っちゃったわけだし」

「あー、そうか。そうだよねぇ。言っちゃったんだよねぇ」


 ここに住むとしても、一度は家に戻って荷物をまとめなくてはならない。

 憂鬱だ。電話ですごく怒っていたと彼女は言った。その言葉を思い出してさらに憂鬱が増す。

 鬱々とテーブルを見つめながら最後のパンの欠片を口に放り込むと「先生、着替え出しとくから」とキッチンから戻ってきた美桜がクローゼットを開け、その中に設置された棚からスウェットのトレーナーを取り出した。


「家に帰るだけならこれでいいでしょ。お酒、パンツにはかかってなかったから下は大丈夫。あと下着は――」


 言って少し考える素振りを見せた美桜に、慌ててサチは「いや! さすがにそれは!」と両手を振った。美桜は口の端を上げて「冗談ですよ」と生意気な笑みを浮かべる。


「シャワーとトイレ、キッチンの横のドアですから勝手に使ってください。ボディソープとかも使ってくれて大丈夫なんで。わたしはちょっと外出てますから、ごゆっくり」

「え、どこへ?」

「散歩です。ナナキの。さっきから呼んでるから」


 言いながら美桜はジャケットを羽織って玄関へ向かう。ナナキというのは、あの老犬の名前だったはずだ。しかし呼んでるとは……?

 不思議に思って美桜の背中を見ていると「ホゥン」と微かな声が聞こえた。力ない弱々しい声。それは外から聞こえてくるようだ。


「あ、この声?」


 思わず聞くと、美桜は振り返って「はい」と微笑んだ。


「あの子、もうあまり声も張れないから。でもちゃんと呼んでくれるんですよ。訴えたいことがあるときは。この声は散歩です」

「そう、なんだ……」


 呟くように答えたサチに美桜は怪訝そうに眉を寄せた。


「どうかしました?」

「あ、いや。えと、じゃあ、お借りしますね。シャワー」

「どうぞ」


 再び淡々とした表情に戻った美桜は背を向けて玄関を出て行く。閉じられたドアを見ながらサチは、そうか、と思った。

 彼女のあの柔らかな笑顔は犬に向けられたものなのだ。この二ヶ月、学校では一度だって見たことのない表情。ナナキにだけ向けられるのだろう、あの笑顔。


 それを彼女は昨夜、自分に向けてくれてはいなかっただろうか。


 少し考えてから「いや、違うか」と苦笑する。ただ知らないだけだ。サチは美桜のことを何も知らない。学校生活の、ほんの少しの時間を見て彼女の何を知っていると言えるのか。サチが知らないだけで友人にもあんな表情を見せているのだろう。今はそんなことよりも考えるべきことがある。

 家を出る。それはいい。しかし金銭面の問題と親の説得という大きな問題があるのだ。


「……シャワーを浴びてから考えよう」


 まずは頭をスッキリさせてからだ。一人そう納得したサチは皿とコップをシンクに置いて、浴室を借りることにした。

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