第4話

 目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。畳の上に敷かれた布団は自分のものではない。

 痛む頭に顔をしかめながらサチは深く息を吸い込む。するとトーストが焼ける良い香りがした。

 自宅とは違う、優しい香り。


「――どこ、ここ」


 唸りながら口の中で呟く。そしてゆっくりと身体を起こして「うぅ、頭痛い」と頭を押さえた。サチは一度は身体を起こしたものの、そのまま前へ倒れるようにして掛け布団の上に顔を埋めた。

 昨日の記憶が曖昧だ。いや、あの最悪の夜までは覚えている。

 クレームを受けて怒られて恋人に振られて親に攻撃され、家を出た。そして田園地帯に来て、そこで出会ったのは……。


「あ、御影さん……」

「呼びました?」


 言いながら美桜がキッチンから顔を出す。彼女はサチを見ると呆れたような表情を浮かべた。


「なんで起きたのに、また寝てるんですか。先生」

「頭が痛い」

「そりゃ、あんだけ酔っ払えばそうでしょうね」

「酔っ払い? わたしが? まさか――」


 布団に伏せたまま顔だけを動かしてサチは軽く笑う。しかし美桜は眉を寄せた。


「もしかして覚えてないんですか?」

「何を?」

「昨日の夜のこと。っていうか、ここがどこだかわかってます?」

「ここって――」


 サチは眉間に皺を寄せながら身体を起こすと部屋を見回した。そして昨夜の記憶を呼び起こす。


「……やば」


 ここは美桜の家だ。そして美桜はサチが担当するクラスの生徒。その生徒の部屋に押しかけて酒を呑んで潰れ、どうやらそのまま一晩眠ってしまったらしい。

 慌てて時計を確認する。ベッド脇の棚に置かれた置き時計が九時を表示させている。


「あ、学校! 学校行かないと!」


 慌てて布団から這い出すが、身体が重すぎて言うことを聞いてくれない。畳の上に両手両足をついてもがいているサチの顔の前に「はい」とホワホワと温かな湯気を立ち昇らせたマグカップが差し出された。


「コーヒー。砂糖とミルク入れます?」

「いや、それよりも学校に!」

「今日、土曜日ですけど。先生は土曜も仕事なんですか?」

「どよう、び?」


 サチは呟くと「土曜日かぁ」と息を吐きながらその場に座り込み、差し出されたマグカップを受け取る。


「砂糖とミルクは?」

「あ、結構です」


 美桜は頷くと手際良くサチが使っていた布団を畳んで部屋の隅に置き、片付けられていた折りたたみテーブルを布団があった場所に置いた。そしてキッチンに戻ると、トーストとスクランブルエッグが乗った皿を二つ運んできてテーブルに置く。最後に自分のマグカップを持ってきて「よし」と納得したようにテーブルの前に座った。


「いただきます」


 一人で両手を合わせ、朝食を始める美桜。サチはそんな彼女と向かい合うように座り直して「あの、ありがとうございます。いただきます」と小さな声で言って頭を下げた。

 美桜はトーストにスクランブルエッグを乗せながら「食べたらお風呂入ってくださいね。布団に運んでる最中、わりと盛大にビール零したんで酒臭いです。服も洗ったほうがいいですよ」と言った。


「いや、そんな。すぐ帰るから」

「電話ありましたよ。お家から」

「え……?」


 サチが首を傾げると美桜はトーストを一口かじってから「先生のスマホに」と続けた。


「ずっと鳴っててうるさかったんで先生は今日はわたしのところに泊まるし、明日からはうちの部屋を借りることになったって言っときました」

「え、待って? え? なんで? どういうこと?」


 サチは額に手を当てて考える。美桜はムシャムシャとトーストを食べ進めながら「先生は酔いつぶれてもう寝てるって言ったらすごい怒ってましたけど、先生のお母さんってもしかして毒親?」と気の毒そうな表情を浮かべた。


「いや、それは置いといて、なんで部屋を借りるって……。え? わたし契約したっけ?」

「まだですけど、いいじゃないですか。親から離れたかったんでしょ?」

「なんでそんなこと――」


 言いかけてサチはハッと目を見開く。


「もしかして、わたし何か言った? 愚痴ってた? うざい感じに愚痴ってた?」


 美桜は少し笑って「いえ」と答えた。


「ただ、面倒くさいって言ってただけですけど」

「面倒くさい……?」

「もう人生うんざりだって。生きるのが面倒くさいって。その後かかってきた電話がソレだったんで、先生も色々大変なんだなぁって。だから良い案だと思って」


 悪びれた様子もなく淡々と彼女は言う。完全に同情されているし、完全に私生活が透けてしまっている。詳しいことは言っていないようだが、どうやら彼女は今のサチの状況を理解してしまっているようだ。

 自分は教師なのに。

 彼女の人生を導くべき立場なのに。


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