第3話

 ひとまず言われた通りアパートの敷地内に車を停めたサチは彼女と犬が戻ってくるのを駐車場に立って待つ。アパートを見上げると、どうやら部屋数は四つ。どの部屋にも灯りはなかった。


「よーし、あとちょっとだよ」


 優しく励ますような声に視線を戻すと、美桜が犬と供にゆっくりとサチの前を通り過ぎていった。

 アパートでこんな老犬を飼ってもいいものなのだろうか。そんなことを思いながら彼女の後ろをついていくと、アパートの裏手に立派な犬小屋が置かれてあった。

 犬のプライベート空間と言わんばかりにフェンスで囲まれた空間。

 地面にはクッション材が敷き詰められ、フェンスには段ボールが貼られて風よけの役割を果たしているようだった。

 犬小屋の床にはマットが敷かれている。そこに彼女は老犬を誘導して「ほら、着いたよ」とハーネスを持つ手の力を緩める。そうすると、犬は心得たようにマットの上にゆっくりと腰をつけ、そのまま横たわった。


「おつかれ、ナナキ」


 美桜は犬にそう声をかけながら薄いストールのようなものをかけてやる。すると犬は納得したように一度息を吐くと、そのまま目を閉じて動かなくなってしまった。


「寝たの?」


 なんとなく心配になって訊ねると美桜は「みたいですね」と振り返る。そして先ほどまで犬に向けていた表情とは別人のような無表情で「で?」とサチを睨むように見てきた。


「こんなところまで何の用ですか。まさか遅刻が多いことの説教?」

「え、あ、いや。そうじゃなくて。えっと、ここ、御影さんのご自宅? お父さんとお母さんもいらっしゃるの?」


 アパートを振り返りながら言うと、彼女は「いえ」と短く答えてアパートへと戻っていく。


「実家は学校の近くで……」


 言いかけて彼女は怪訝そうに眉を寄せて振り返った。


「そういえば、ここの住所なんで知ってるんですか。親に聞いたんですか? いや、でも今日は両親ともいないはずだし――」

「あ、だから違うの。わたしはたまたま通りかかっただけで」

「たまたま? 本当に? こんな田んぼしかない場所を?」

「あー、うん。まあ、ちょっと気晴らしに」


 なんと言っていいのかわからず、視線を泳がせながら答えたサチに、美桜は「ふうん」と頷いた。そしてしばらく何かを見定めるかのようにサチを見つめていたかと思うと「上がって行きます?」と首を傾げた。


「え、でも……」

「部屋、ここなんで。どうぞ」


 言って彼女がドアを開けたのはアパートの一階、右側の部屋だった。ここまで言われて断るわけにもいかず、サチは「お邪魔します」と部屋に入る。

 中はリフォームされているようで外観よりも綺麗だった。単身用の部屋らしく、こじんまりとした1LDK。家具も少なく、あまり生活感がなかった。


「もしかして御影さん、ここで一人暮らしをしてるの?」

「まあ、そんな感じです」

「そんな感じって……。でも、ここって学校から結構遠くない?」

「そうですね。朝のバス一本逃すと三十分は来なくて」

「それで遅刻が多いの?」

「まあ、そんな感じです」

「そんな感じって……」


 ここは教師として何か言うべきなのだろうか。しかし、どうも言葉が出てこない。今のサチは教師としてのスイッチが完全に切れているのだ。

 深くため息を吐いて「そっかぁ」と頷くとバッグを床に置き、そのままベッドに背を預けるようにして座り込んだ。

 そんなサチをちらりと見てから美桜は「ビール、ありますよ。呑みます?」と冷蔵庫から缶ビールを取り出して持ってくるとテーブルに置いた。


「ちょっと、高校生がなんでビールなんか」

「祖母の置き土産です。まだ賞味期限もあるし、誰かにあげようと思ってたところです」

「お婆さん……?」

「このアパートの所有者だったんですけど、今年の二月に亡くなったんです。ここは祖母が暮らしてた部屋」

「そうなの」


 ということは、あの犬もお婆さんが飼っていたのだろう。そして飼い主がいなくなったから美桜が世話をしているのか。

 サチはぼんやりとテーブルの上に置かれたビールの缶を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。プルタブに指をかけて開ける。小気味の良い音が響き、アルコールの香りが鼻をつく。そしてグビッと最初の一口を喉に流し込んだ。


「……まずそうに呑みますね。先生」


 声に視線を向けると美桜が盆にのせた皿をテーブルに並べて腰を下ろしたところだった。皿の上には、おそらくスーパーで買ってきたのだろう総菜が並んでいた。


「大人はビールを美味しそうに呑むものだと思ってましたけど」

「そうでもない大人もいるのよ」

「疲れてるんですか?」

「なんで?」

「だって、学校の先生ならもっと色々聞いたりするんじゃないですか? 遅刻の多い生徒がこんなへんぴな場所に一人暮らしして、しかも冷蔵庫にビールが常備されてるなんて」

「お婆さんの置き土産なんでしょ?」

「信じるんですか」

「嘘なの?」


 美桜は答えない。代わりに焼き鳥を乗せた皿をサチの方へ押しやってきた。


「どうぞ」

「どうも」


 しばらく二人は無言で食事を続けた。テレビもついていない部屋は静かで、しかしたいして話したこともない生徒と会話が続くわけもない。

 サチは今日一日の出来事を思い返しては深くため息を吐いた。


「やっぱり疲れてるんですね」


 美桜の声。サチは「最悪の日だったの」と零すように呟く。そうですか、と美桜は立ち上がると再び冷蔵庫に向かう。そしてもう一缶ビールを持って戻ってきた。


「そういうときはやけ酒するんでしょ? 大人は」

「うん。そうかもね」


 缶を受け取り、そして最初の缶に残っていたビールを一気に飲み干した。するとなんだか無意味に楽しくなってきてサチは二缶目に手を伸ばしたのだった。

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