第四章 扉

 ある日突然現れた。文字通り、突然。見知らぬ男たちに連れられ、わけも分からず誰もいない病院のような建物に閉じ込められて三週間が経った時だった。彼女は、鈴木さんと正反対だった。一人っきりの僕の世界に突然現れた。でも何故か不快感はなかった。彼女は明るかった。彼女は優しかった。暗い病室の中で、彼女だけは輝いているようだった。振り返ってみれば彼女が現れる前に何か前兆があった気がする、それでもその一瞬は突然で、そのことを受け入れることのできた自分にも僕は驚いていた。

 彼女が現れる前、食事は知らぬうちに用意されていた。食事は温かかった。花の水が交換されていた。僕ではない誰かが飾ったホウセンカは、いつも穏やかな顔であった。彼女は教えてくれた。世界のこと。自分のこと。それから、僕のこと。

「真一さん、おはようございます」

「うん、おはよう」

 朝一で彼女がこの隅っこの部屋を訪れて、カーテンを開けて朝日をあびる。おはようと言い合って、笑い合う。それがいつの間にか日課になっていた。

「香帆さん」

「どうされました?」

「……、僕は……」

 考え無しに口を開いて、少し後悔した。僕は、何を言うべきなんだろう。何を聞きたかったんだっけ。彼女と接して、彼女と話して、色々なことを知った。僕は、もう一人じゃなくなった。不思議な感覚だった。自分でも、現状が信じられないような。彼女は僕がまた話し始めるのを静かに待ってくれていた。彼女がカーテンに触れて、さらりと小さな音を立てた。彼女が歩いて、小さな足音が部屋に響いた。心地が良かった。彼女の出す全ての音が、僕はこの時初めて、安らかな静寂を知った。できればもう少しこのままでいたいと思ったが、僕を信じて待つ彼女の気持ちを無碍にすることは心苦しく、また何も考えずに口を開いた。

「僕は」

「……」

「僕は、なんで……、一人、なんだろう……。僕はなんで、こうなったんだろう」

 独り言と同じように、小さな声で呟くように言った。勝手に口から出たという方が正しいかもしれない。彼女の顔を見ることができなかった。困らせただろうか。面倒くさがられているだろうか。笑って誤魔化すこともできず、何か言って話を終わらせることもできず、ただ時間が流れるのを待った。静けさは窮屈だった。だが一人でいた時とは違う、どこか心地よいような、そんな静けさだった。止まった時の中で、彼女の気配がするのに安心感を覚えた。やがて聞こえてきた言葉は、静かな声色をしていた。

「……分かんないです。私は、あなたじゃないから」

 そう言うと彼女は、少しだけ笑った。鈴の音のように綺麗な笑い声だった。彼女の答えに、僕は少しだけ失望した。理由は分からない。でも例えば、親に見放されたような、たぶんそんな感覚に近い。同時に自分にも呆れた。彼女に対して失望した僕に。なんて不義理な奴だと。こういう感情も、小説ならいくらでも描ける。現実はそうもいかない。初めて触れた他人に、そこから生まれる自分の感情に、僕はただしがみつくのだけで精一杯だった。何を言っていいか分からない僕に、自分の感情も整理できない僕に、彼女はまた口を開いた。

「私がどうやってあなたの前に現れたか、知ってますか?」

「……、いや…………」

「ノックし続けたんです。あなたが気づいてくれるまで。静かに静かに、小さな音で。ずっと」

 彼女は胸に手を当てて、懐かしむように語った。

「時には言葉をかけて、ちょっとノブに手をかけてみたりして。みんなが留守なのかなって、今は出られないのかなって諦めても、私は、ノックし続けたんです。知っていたから、あなたが必ず出てくれるって」

「なんで……」

「何でそこまでして扉を開こうとしたか、ですか? ……私は、臆病なんです。小さいころから。小学生の頃から、周りの人の目だけを気にして動いてきた。みんなに嫌われるのが怖かったんです。安全な扉の外から、上辺だけの関係を保つのが得意だった。でもそれじゃダメだって、気付けたのは最近ですけど」

 そう言って彼女は恥じらうように笑ってみせた。

「カレーやハンバーグだって嫌いな人がいるんですよ、真一さん。みんなに好かれようなんて思うべきじゃないんです。だから、ちゃんと扉、あけてあげようって」

「……」

「真一さんも、開けてみませんか。その固い扉。早くしないと、サビて動かなくなっちゃいますよ。扉は、一度開けたからと言って二度と閉まらないわけじゃないから。嫌になったら、ちょっと閉じてもいいんだから。いいんです、ゆっくりで」

 ゆっくりでいい。開いてダメだったら、閉じてもいい。そうか、そうだったのか。閉じていたのは、僕の方だったのか。サビて、歪んでガタが来ている扉が、どうして閉じているのか、僕は忘れていた。忘れていた。自分で固く閉ざしたのを。世界のせいにしていた。僕を孤独にしていたのは、僕自身だったのか。孤独が好きなわけない。居心地がいいわけない。自分で好きで孤独になったわけじゃない。そのせいでいつしか閉ざされた扉を誰かのせいにして、気を紛らわしていた。そうじゃなかった。確かに自ら一人になったわけじゃなかった。でも、地下室に籠って、その扉を閉じたのは自分自身だった。彼女が開いた扉のその向こうからは、静かに光が漏れていた。


 一度扉を開けてからはすぐだった。人間なんでもやってみれば案外すぐに慣れるもので、相手の扉を開くのは難しくても、訪問者のために扉を内側から開けることは容易だった。何より、彼女の「閉じてもいい」という言葉が、僕を救った。覗き窓から見ただけじゃ、訪問者もその奥の景色も、満足に見られるわけじゃない。扉はまだ、少しだけ固いけど。

「失礼、調子はどうですか。多田さん」

「辻井先生」

「顔色もいい。私のことも、しっかり見えてますね」

「はい」

「やはり清水に任せて正解でしたね」

 そう言って、辻井先生は安心したように顔を少しだけほころばせた。

「本当に、良い看護師でした」

 窓から吹き込む風の音がして、あの頃の静寂が戻ったようだった。

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