第三章 太陽

 目を開けてもそこは、いつもと同じ真っ白な天井だった。窓の外も、いつも通り静かだった。動くたびにベッドがギシリとうなり、布団が僕を嘲笑う。飽きるほど繰り返した日常を変えようともせず、ただ流れるままに身を置く。白痴はくちみたいだ。ふと、何かが顔を伝った。顔を擽るそれが何なのか、すぐには分からなかった。瞬きをして、もう一度天井を見る。いつもと同じ景色がぼやけて、歪んで見えて、やっとわかった。僕は、泣いていた。宇宙船の、小さな小さな丸窓から、すぐそこにある”夢”を見ていた。四肢を満足に伸ばすこともできないこの小さな宇宙船で、僕はただその夢を眺めていた。流れ落ちた涙は顔を伝うこともなかった。重力も効かないこの場所で、宙に漂うばかりだった。望むわけないじゃないか。孤独を、望むわけないじゃないか。たった一人で大義を背負って、重要な役割だからと言って、だからって、孤独に耐えられるわけないじゃないか。身動きも取れず、何を言っても、何をしても、ただ虚空に響くだけ。宇宙船地球号はたった一人、コリンズ中佐だけを乗せて、永遠の旅を続けている。なぜ僕は、彼らと共にいけなかったのだろうか。なぜ僕は、夢を置いて、故郷に残れなかったのだろうか。君は知っているだろうか。この孤独を。世界は何故、僕を一人にしたのだろうか。憎いのに、憎めない。相手がいないから。世界には僕が一人、立っているだけ。僕の感情を、一体誰が貶してくれるんだ。どこまでも広がる青天井が、涙色に見えた。青嵐に揺れる木々は、苦痛の声を上げていた。

 鈴木さんの提案は、僕が想像だにしないことだった。ああ言うのは、普通なんだろうかと考える。人間関係なんて小説でしか見たことがない。現実は小説より奇なりと言う。小説が、現実をそっくり写しているとも思えない。僕の人生に小説はなんの参考にもならなかった。現実を面白おかしく飾っても、元を知らない僕に響くものもなかった。小説なら、彼女はどんな事情であんなことを提案したのだろうか。僕の知らない彼女の素性や、僕との関係も、読者には語られているのだろうか。それとも、情報を小出しにして、文章の端々に思わせぶりな言葉を載せて、文豪気取りで考察させようとでもしているだろうか。

 僕は一人が好きだ。彼のように、望んで自ら孤独をつくった。一人は心地よい。誰にも邪魔されることなく、世界が大きく変化するとしたらそれは僕の影響だった。そのこと自体が、その結果そのものが、僕を大きくした。そう、思い込んでいた。いや、盲信するように、自分で自分を誘導していたのだ。コリンズ中佐は、宇宙船の中は申し分のないほどに快適だと応えた。僕が乗るこの宇宙船も、快適なはずなのだ。

 コーヒーメーカーがこぽこぽと楽しそうな音をあげる。ゆらゆらと昇る湯気を何も考えずにただぼうっと見つめていた。湯気にじっと心を奪われた。差し出したという方が正しいかもしれない。抜け出そうと思えばすぐにでも抜け出せる沼に、僕は自ら足を突っ込んだ。視覚だけに集中する。目の前でふらふらと漂っているだけの水蒸気に、全部の神経を注いだ。鳴るはずの無いインターホンが部屋中に反響することにすら気付かないほどに。カチリと何かの音がして、湯気が薄れた。瞬間、全ての感覚が自分の居場所を思い出した。徐に視線を下へとずらす。さっきまで赤く光っていたランプはもう消えていた。虚しい静寂が数瞬だけ続く。それに見とれて数秒、つんざくような、不思議な音がその静寂に響いた。自分以外が出した聞き覚えのないその音は、僕に恐怖を覚えさせるのに十分だった。頭に響く。急き立てるように、何度も。

「ピンポーン」

「ピンポーン」

「ピンポーン……」

 耳に震える手のひらを押し当てて、痛いほどに、この世から消えてなくなってしまうほどに小さく身を屈めた。電子音と共に、頭にギシギシという音が響く。そこにがいる。僕ではない誰かが。それがどれほどの恐怖か、君たちに分かるだろうか。月面を周回する宇宙船の外は、宇宙が広がっている。無限とも思える先まで。扉の向こうに、見えない何かがいる。人だ。幻聴ならどれほど良いか。狭心が襲う。電子音に苛立ちが見えて、それから、二度とその音がすることは無かった。頭の中だけで音が何度も反響する。まだ微かに残る湯気の揺らぎさえも、ただ僕をイラつかせるばかりだった。俯きながら、拳を握りしめた。爪が手のひらに食いこんで、血が滲んだ。痛みの中に、鼓動を感じる。自分だけの、僕だけのリズムを刻んでいる。それがどこか心地よくて、じんじんという柔らかな痛みは僕を守ってくれているようだった。拳を、そのまま揺らめくそれに向かって振り下ろした。ガシャンと大きな音が立った。僕が立てた。だけど、世界は何も変わらなかった。

「おかしくなりそうだ……」

 世界はまたすぐに静けさを取り戻した。だがまた、突然失われてしまった。

「多田さん、大丈夫ですか。多田真一さん」

 背後から声がした。野太い、男の声。もう1つの気配が、床にできた水溜まりを迷惑そうに見つめて気だるそうに呟いた。

「お怪我は」

「手から血が出てますね。手当しますんで、我々と一緒に来てください」


 手掌から流血、傷は浅い。止血し、消毒でもして絆創膏やら包帯を巻いておけば済むはず。それにしては大層な建物に、多田は連れられた。看板にはハートを模したマークと共に、小さく見づらい文字でこう綴られていた。

「辻井精神医療センター」

 その建物の、3階。一番長い廊下の突き当たり、北側。白を基調としたその部屋で、多田は静かに眠っていた。病院から支給されたであろう無機質な薄緑の服、右手に包帯。それ以外で、彼に特筆すべきことは見当たらなかった。部屋は静かだった。小鳥のさえずりすらはっきりと聞こえるその部屋は、ナースコールが鳴り響き、皆が忙しなく動き回る建物の中心部とは何か見えない壁のようなもので隔てられているような感じがした。それはもう走っているだろと突っ込みたくなるような速度の早足で「走るな」の貼り紙を巻き上げる看護師。厳格な表情の奥に、やつれを隠しきれていない医者。暴れて医者と看護師数名に捕えられる患者。傍から見れば格好だけ整った烏合の衆。互いが互いを警戒しあっているような、冷えきったその中でただ一人顔は確かにやつれていたが、周りとは違う雰囲気を出す者がいた。

「また厄介なのが来たなぁ……」

 無機質な画面が映し出されたパソコンを前に、白衣を着た男が呟く。

「これは酷い、盛りだくさんだ…………」

「でも先生なら大丈夫でしょ? ね、辻井医師」

「……、こういうのは清水の方が得意そうだが」

「おだててもディナーには行きませんよ?」

「全く……、話してる暇があったら働きなさい」

「はーい」

 辻井と呼ばれた男は、考え込むように静かに背もたれに身を預けた。ギシリと椅子がうなる。

「参ったな……」

 ぽつりと喉をついて出た言葉は、清水の耳に届くことは無かった。


「失礼します。あ、もう起きたんですね。真一さん」

 気のせいだろうか。呼び掛けに応じるように、多田の左手が小さく動いた。

「もう2週間だって、早いですよねー。そろそろ慣れてくれましたか?」

 窓の外を眺めていた多田が、静かに清水のいる扉の方へ振り向いた。扉を見つめて数秒。静寂が病室を包んだ。清水は笑顔を崩すことは無かった。ただ静かに笑って、多田に近づいた。片膝をついて、彼の顔を見つめる。多田は、単に床を眺めているだけだった。

「真一さん、今日は面会に来てくれた方がいるんですよ」

「……」

「呼んでもいいですか?」

 一秒、二秒、三秒。静かな時間が過ぎた。清水が、小さく息を吸うのがわかった。

「鈴木さん。入ってきてもいいですよ」

 清水が扉の向こうへそう呼びかけ、立ち上がった。時間の流れが、何故か遅く感じられた。ゆっくりと部屋に足を踏み入れた鈴木は、真一の横で、ただ静かに涙を流していた。

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