第二章 天才
夢を見ていた。僕は学者だった。不思議なことに、自分が天才であることを知っていた。夢だから、それくらいのことは不思議でもなんでもないのかもしれない。夢の中で僕は、一人だった。当たり前か。現実でもたった一人、孤独に生きる人間が、夢だからと孤独でなくなるわけが無い。夢は、起きている時の記憶の整理によって起こると言う。記憶の断片の再編集。人を知らない僕の夢に、人が出てくるわけがあるはずもない。夢は長かった。数分どころか、その夢は数年、数十年と続いた。現実と夢の区別がつかなくなるほどに、長く長く続いた。と言っても、例えば2時間の映画に数十年が詰められているような、そんな感じだったし、目を覚ました後に起きた衝撃が大きかったからあまり気にならなかった。夢は一人称視点で、体は僕の言うことを聞かずに動いたから、自分が誰なのかは分からなかった。だが何をしていたかはよく覚えている。実験。そう、科学実験だ。知識がない。なんの実験なのか、僕には想像もつかなかった。ただ何となく、部屋の感じからも数百年前、あるいはもっと前であることが分かった。僕はずっとひとりだった。数十年間、誰とも関わらずに、ただ一人で研究をしていた。
冬、手がかじかんで薬品をこぼした。足を火傷したが、誰も助けには来なかった。春、部屋が地下にあるのか、窓はなかったから外は見えなかったが、部屋の温度からも気持ちのいい天気であることは想像できた。一人で、外にも出ずに、咲き誇る花々も見ず、一人でいた。夏、サウナのように熱された部屋で、多くの実験器具がダメになった。誰も外に出ないような真夜中、人と会わず、わざわざ回りくどい方法で部品を注文した。やはりかなり昔の時代のようで、ポストはなかった。それどころか、夜で暗かったから詳しくは分からないが、日本ですらなかったような気がした。秋、乾燥と寒暖差で身体を壊した。メイドが心配して部屋に来たから、そのメイドは解雇した。
そうして何度も季節を繰り返した。数え切れないほどの、成功を収めた。数え切れないほどの、発見をした。数え切れないほど、色々な場所から「外に出ろ、研究を見せろ」と手紙をもらった。冬は、薪に困らなかった。もう一度言うが、僕には知識がない。何をやっているかは分からなかった。だが、それが世界を変えるほどに大きな研究で、僕が孤独でなければ、きっと今の未来は来ないだろうと分かるような、そんな研究だったのは心のどこかで知っていた。手紙の宛名を見て、自分の名前を知った。一瞬だったからよく見えなかったし、僕は英語が読めないから読み方もあっているか怪しい。だが……、何となく分かった。そう、僕は……、僕の名は、キャベンディッシュ。僕は、ヘンリー・キャベンディッシュ、彼だった。
目を覚ました。夢がどこで終わったか。どんな内容だったか、そもそも夢を見ていたかどうか、僕は全く覚えていなかった。覚えていなかったと言うより、起きた瞬間は覚えていたのに、すぐに忘れてしまった。僕の横に、人間がいたからだ。知らないはずの、ある秋を思い出した。僕は、理不尽に使用人を解雇していた。何の記憶かと考える暇もなかった。また鼓動が早くなる。全身に血が巡るのがわかった。
「真一くん?」
喋った。人の声を聞くのは久しぶりだった。父の声を除けば、十数年ぶりか。僕はただ、自分を覗き込む人間の女性の顔を通して、部屋の壁を見ることしかできなかった。真一。中年の女性はそう言った。確か、自分の名だ。父にもらった、自分の名前。覚えている。あぁ、ちゃんと。
「起きた? 気分はどう?」
気分、気分か。どうかな。あまり良くない。恐怖はもう無かった。だが、突然の事だった。まだ頭は、追いついていない。思えば、そうだ。高校卒業以来、僕は世界で一人だった。父親を除いて。段々と人が消えていったのを覚えている。道行く人々の数は日に日に減っていき、無人の車が当たりを走り回った。教室にいる生徒の数も、段々と減っていった。ある日から、教師も来ることはなくなった。たった一人の教室で、勝手になるチャイムにただ従った。一人になっていくのが怖かった。世界に取り残され、全員に見放されていく感覚。気付けば僕は、誰にも気をかけられなかった。どこに行っても、たった一人だった。怖くて怖くて仕方なくて、訳も分からず。心に病を患ったのは、それよりも少し前だった。だが幸いなことに、恐怖心は段々となくなっていった。人がいないのも当たり前になった。理不尽な孤独に僕は人間を忘れた。無人の車は当たり前になった。人のいない道路も、人のいない店も。困ることは少なかった。もともと僕は病気のせいで働く事ができなかったから、必要なものはネットで買って、少し待てば手元に届き、外の景色を見たくなったら気まぐれに外へ出る。そんな日が続いた。いつの間にか、父と僕以外に、人間がいることすら忘れた。寂しくは無いし、孤独が辛いとも思わなかった。慣れてしまったから。嬉しいことがあっても、嫌なことがあっても、それを一人で消化するのは当たり前だった。選択肢がなかったからだ。人間を忘れた僕に、人間が欲しいと思う気持ちは生まれなかった。僕は一人だった。
虚ろな目をして、何も反応しないせいで、女性は少し不安げな顔をした。
「真一くん」
「…………」
「聞こえてるわね、気分は? 悪くない?」
「………………」
無言のまま、何とか首を縦にふった。僕は今、未知の生物と相対している冒険家、あるいは、科学者。慎重に、恐怖を見せかけの好奇心で覆い隠して。
「覚えてる?」
何のことだろうか。何もかも分からないが、1つだけ分かるのは、覚えていないことだ。そもそもお前は何者だと問う。だが声は出なかった。女性が指で自分の顔を指さして近寄る。呻き声に似た何かが口から零れ落ちた。取り繕っただけの好奇心がぽろぽろと崩れる。
「私のこと。覚えてないわよね。話したこと、そんなになかったし」
分からない。何が何だか。誰だ。この女は。何も分からない。息が苦しい。記憶を駆け巡る。いくら遡っても、いくら考えても、世界には僕と父だけだった。昔はいた周りの人間も、もう顔すら覚えていない。その中に、彼女がいたかもしれない。でもいくら考えても分からなくて、鼓動は早まるばかりで、胸が痛かった。
「私、鈴木貴子。あの人、真一くんのお父さんの知り合い。ちっちゃい頃に会ってるんだけど、覚えてないわよね」
「……何、しに来たんですか」
「え?」
ようやく振り絞った言葉は、あまりにも無礼で、知らない人、ましてや自分の介抱をしてくれたであろう人に向ける言葉でないのはすぐに分かった。だが、どう話せばいいか分からなかった。父以外との会話なんて、もう覚えていない。他人同士の会話も、小説でしか見たことがなかった。鈴木と名乗る女性はそれでも優しかった。何を言われたかなどさして気にしていない様子で、ただ僕が喋ったことに対して驚き喜んでいるようだった。
「ここに? あなたの実家に、なんで私が来たのかってこと?」
「……」
また、無言のままほんの少しだけ首を縦に動かした。
「……、そう、ね……。忘れたわ」
「え?」
「忘れた。あなたが倒れたせいで。私を見て急に倒れるんだもの。何しに来たのかもすっ飛んだわ」
「そう、ですか。……すみません」
「思い出せないってことは、多分どうでもいいことよ。気にしないで」
鈴木さんはそう言いながら立ち上がり、僕に背を向けた。何か、隠しているようにも見えた。人と会話するのすら十数年ぶりの僕に、そんな隠し事なんてわかるはずもなかった。だが、これがもし小説なら、きっと彼女は何かを隠している。そう感じた。
「……真一くん、聞いてもいいかな」
「……はい」
鈴木さんは、部屋をぐるっと一周して荷物が無くなった人気のない部屋を見てから僕に問うた。目だけで彼女をおったが、彼女がこちらに顔を向けることは無かった。静かだった。けど、いつもの静寂とは違った。鈴木さんが歩き回って、靴下と畳が擦れる音がした。気色が悪かった。僕は何故か、鈴木さんの出す音全てに、嫌悪感を抱いた。僕の返事が聞こえているのか聞こえていないのか、彼女は窓の外を眺めて立っていた。僕はただ、吐き気を抑えるのに必死で、その状況を打破しようとは思えなかった。
「武史……、お父さんは、好き?」
「…………なぜそんな……」
「いいから」
「……、好き、でしたよ…………。とても、よい父でし、た」
「……そう」
不思議な間があった。何もかもが分からなかった。鈴木さんが父を名前で呼んだこと。質問の意図。ため息混じりの返事。彼女はまだ、窓の外を見ていた。
だいぶ、時間が過ぎた気がする。外はもうどっぷりと闇に漬かり、時間がどれだけ経過したかは分からなかった。時計も、片付けてしまった。上半身を起こして、深呼吸をする。布団ががさりと音を立てて、鈴木さんがいることを忘れさせた。目の前のキッチンを、ぼうっと見つめていた。鈴木さんがねぇ、と呟いた。瞬間、体に一気に緊張感が走った。筋肉が強ばった。返事は、する気もなかった。黙って彼女がまた話し出すのを待った。少しだけ時間が流れた。彼女の息遣いさえも分かるような静寂が僕を襲った。
「貴方には……」
鈴木さんが口を開く。
「貴方には……、謝らなきゃいけない。無責任なことをしたわ。私のせいだって、分かってる。今はまだ、言えないけれど」
「…………」
「本当に、ごめんなさい」
何のことだか僕には見当もつかなかったが、なぜか僕はその謝罪を受け止めようと思えた。
「……それで、私に、こんなこと言う権利ないと思うのだけれど、でも…………」
「……なん、ですか?」
鈴木さんは、小さく深呼吸して口を開いた。何も言わず、口を開いたまま、一呼吸。
「ねぇ、真一くん……、私と、暮らさない?」
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