第一章 人間
今思えば、僕の生涯は人にかける迷惑でできていた。世界で一番、たくさんの人間と最も深い形で関わった僕は、あまりにも、孤独だった。
机の脚に、自分の足をぶつけた。いつも思う。自分しかいない、いつもと全く同じ部屋で、なぜ足をぶつけるなんてことが起こるのか。さすがにそろそろ家具の位置を覚えて避けろよ、と
ため息混じりにもう一度くそ、と呟き重い体を持ち上げ立ち上がった。足の痛みはもうない。そのまま僕は吸い寄せられるように窓の前に歩を進めた。たまに、何となく窓の外の景色を見たくなることがある。いつもと変わらぬ景色は、僕に奇妙な安心感を抱かせた。静かだった。カラスがひとつ、カァと鳴いた。それにつられて、共鳴するように他のカラスがカァカァと返事をする。白く薄暗い空を見上げた。憧憬を孕んだカラスの群れが、真っ白なキャンバスに落ちた絵の具のように連なっていた。窓に切り取られたその絵は、いつもと同じだったが、いつも違った。時が経つ。変化する。神の振るサイコロは、6面なんかではなかった。ほんの少し先の未来すら予測できないのに、僕はなぜ未来に安心できるのだろうか。そうだ。神のサイコロに、僕の名はなかったんだ。
父親の遺品整理は、案外すぐに終わった。自宅から約2時間、閑散とした高速道路を走り、嫌に明るい太陽が照らすあぜ道を抜ける。酔いそうになるほど揺れる軽自動車の中で、少しでも道を外せばもう道には戻れないだろうなと考えて少し不安になった。一言で表すなら、限界集落。映画で見るような趣を感じる田舎に、僕は懐かしさと共に少々の嫌悪感を抱いた。あぜ道を囲む田んぼの奥で、トラクターが一人でうなっていた。
慎重に走ったせいで少し時間がかかってしまったが、少しして一際古い小さな家屋が見えた。少し前まで人が住んでいたはずのその建物は、何も変わっていないはずなのにどこか不気味さを思わせた。きっと僕が気づかないところで、何かが変わっているんだ。時が経ち、人がいなくなり、変化したのだ。無駄に広い庭の片隅に車を駐め、建付けの悪い玄関の戸を僕は何を思ったのか3回たたいた。静寂が際立つ。飛ぶ虫の羽音までも聞こえてきそうなほどにあたりは静まり返っていた。十数秒、立ち尽くす。当たり前のように、返事はなかった。僕はどこか、こんな古ぼけた小さな家に期待していたのかもしれなかった。こんな家に何となく郷愁を覚えたせいで、彼が、父がまだいるんじゃないかと、僕の近くにいないだけで今もどこかで生きてるじゃないかと、まだ、僕を助けてくれるんじゃないかと、そう思ってしまった。自分の考えを嘲笑してため息をつき、鍵のかかっていない戸を開いて片足を家に突っ込んだ。そこから先は、あまりものを考えなかった。ただ一人で、父が住んでいた部屋を、数年前まで自分が住んでいた部屋を片付けた。父はきっと、自らのために生きたことがなかった。平日の日中は淡々と仕事をこなし、その稼ぎはほとんどを僕に費やし、仕事以外の時間帯は病気持ちの僕を世話するのにあてた。そんなことに、いまさらになって気が付いた。父の遺品整理に時間がかからなかったのは、彼が最低限の生活しかしてなかったからだった。彼の幸せの価値はたった2時間に見立てた、20と数年だった。
遺品整理が終わり、薄暮が田んぼに反射して煌めくころ。無人のトラクターは家に帰り、朝日が照るのを静かに待っていた。相変わらず、田舎は静かだった。誘蛾灯が点滅をはじめ、それに気を取られて視線を離したすきに、あたりは溶けるようにすぅっと眠りについた。夜の帳が下りるのを僕は父の部屋から眺めていた。静かなのは、東京も田舎も変わらない。しかしここの夜の暗さは、なかなか仕事から帰ってこない父を待ち、こうして彼の部屋の窓からどこまでも続くあぜ道を眺めていたころを思い出し、どうにも落ち着けなかった。昔のようにここで待っていたら、その内ぶぅんという唸り声と共に奥から段々と2つの光が見えてくるような気がして、僕はしばらくそこから動けなかった。虫の声がする。早く帰れと言う様に、光に集まる蛾の羽音すら僕を急き立てた。
あまり遅くなっても面倒だからと、自宅に帰ろうと窓から目を離したその時だった。鳴るはずのないインターホンが、静寂を打ち破った。一瞬、頭が真っ白になった。家中に鳴り響くインターホン。壁掛け時計が揺れるのが見えた。部屋の隅の、壁に開いた小さな穴の中で黒光りした何かが這っていた。頭の中で何度も反響する。気づいた時にはまた静寂が支配していた。インターホンが鳴って、それから何が起こってどのくらい経ったのかすら僕には分からなかった。もう一度インターホンが鳴った。この部屋で息を殺しそのまま放置しても良かったのだが、そうするとなぜだかよからぬ事が起きる気がして、僕は玄関へと歩を進めた。心臓の音がうるさかった。音をたてぬようにそろりと足を動かすが、鼓動の音にかき消されて、本当に静かに歩けているかは疑問だった。玄関の戸を瞬きもせずに見続けた。今ならすぐ横のキッチンから人が出てきても気づかないくらい、全神経をそこに注ぎ込んだ。玄関まであと数歩、戸に手をかけようと、右腕を伸ばしたその時だった。戸が動いた。ほんの数ミリ、左へ。冷や汗が背を伝い、体は言うことを聞かない。戸が動く。なにかの光が洩れ込む。どれくらいの時間が経っただろうか。数秒、あるいは数時間そこにいたかもしれない。開いた。眩しすぎる光が僕の顔を照らす。逃げることも、叫ぶことも出来なかった。後ずさりさえも。その時僕は、酷く恐ろしいものを見た。きっと残りの人生でもこれ以上のものは経験しないような。敷居の向こうに立っていたのは、人間だった。
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