第五章 白痴

「事故ですって、即死」

「まだ信じられないわ……。まさか……、ねぇ」

 その朝、僕は初めて寝坊した。病室の外、廊下を少し進んだ先から話し声が聞こえて、目が覚めた。医者と看護師、患者の声、足音。いつもと何かが違った。半開きの扉から、誰かの声が聞こえる。僕はまだ1人だった。それでも昔とは違った。君の声が聞こえて、それで、僕は笑顔で君を迎えて。それだけで良かった。少しだけ開いた扉から聞こえる声を聞くだけで、気配を知るだけで、1人じゃないと知った。でもその日、いつも僕を起こしに来る彼女が病室に現れることは無かった。鼓動が早くなるのがわかった。わけも分からない焦燥感に襲われて、少しだけ息をするのが苦しかった。考えても仕方ないことが、頭の中でぐるぐると回り続ける。なんで。どうして。君がここにいないだけで、どうしてこんなにも、胸が痛むんだ。周りの音が消えて、鼓動だけが聞こえる。いくらでも理性的な考えはできた。休んでいるだけかも。彼女は僕以外にもたくさんの患者の相手をする。今日はたまたま忙しい日なのかもしれない。起こしに来たけど、僕がなかなか起きないせいで仕事に戻ったのかもしれない。単純な話だ。ほかの看護師や患者に聞けばいい。それでも何故か心臓はうるさいままで、頭の中では分かっていても体は動いてくれなかった。彼女がいなくなるわけない。当たり前だ。いなくなってなんかいない。ずっと僕の近くにいるはずなんだ。それなのに。それなのに。そうか、分かった。やっと分かった。だ。しばらくして思いついた答えに、僕は一人で納得をして何とか心臓を少しだけ収めた。言い聞かせるように、体がまた嫌なことを考えないように、妄信的に頭の中で繰り返す。気付いた時には、ベッドの横から飛び出たボタンを押し続けていた。


「ですから! 治してくださいよ! あんた医者でしょう! もう一回! 治せよ!」

「落ち着いてください真一さん」

「またなんだろ!? 彼女が、香帆さんが見えないんだよ! いなくなったんだ……! 僕の、前から」

「ですから真一さん、私には治せないんです。治すものがないんだから。あなたはもう、健康なんですよ」

 辻井は諭すように言った。落ち着いて、荒ぶる多田を何とも思っていない様子だった。慣れとは怖いものだと、つくづく思う。それでも、看護師に押さえられた多田が収まることはなかった。

「じゃあなんで彼女は、いなくなったんだ! なぜ言わない!」

「……」

「何とか言えよ!」

「言ってますよ、ずっと。教えてます。拒んでるのは、あなたですよ、真一さん。うちの看護婦も、患者の皆さんも、ずっと彼女のことを話しています。あなたの耳に、それが入っていないなら……」

 多田には何のことだかさっぱり分からなかった。辻井が適当なことを言って誤魔化しているようにしか聞こえなかった。辻井が看護師の方に視線を移すのが見えた。居心地悪そうに、看護師は目を逸らした。

「多田さん……」

 看護師の一人が口を開く。を言った、ように見えた。多田の耳にその言葉は入らなかった。言い終わって、看護師が辛そうに顔を歪める。それでも、多田にその理由が伝わることは無かった。親の仇とでも相対しているかのように、多田は辻井をきっと睨みつけた。その視線にも、辻井が屈することはなかった。ただじっと見つめ返す辻井に、多田はだんだんと目を逸らした。

「白痴みたいだ……」

 自分自身を嘲るように呟く。

「君がいなきゃ、開く意味なんてないのに」


「お大事になさってください。もう、帰ってこないでください」

 最後に聞いた言葉に、どんな思いが込められてるのかは分からなかった。僕があの病院で過ごした数週間がどれだけのものだったか。言葉はどう綴っても冗長で、がらんどうな僕を満足には記せなかった。大きなものを得たと、素晴らしく、著しい成長をしたと、そう言えるだろうか。無理だ。あまりにも、失ったものが大きすぎた。元々なかったくせに。元に戻るだけのはずなのに。どうしても、その穴は満たせなかった。一人で歩く街は静かだった。君の泣き声がどこからか聞こえてきそうなほど。街は静かだった。僕は、一人だった。硬いアスファルトを踏みしめる自分の足音が、嫌に頭に響いた。夕陽に飲み込まれそうだ。このまま歩いて、ずっとずっと歩いて。夕陽に向かって歩き続けたら、君に会えるだろうか。僕を救えるのは、君しかいないんだ。

 気づいたら、いつの間にか自宅の前にいた。懐かしいな、なんて呆けたことを考える。こうして、一人で家の前に立って、鍵を開けて、扉を開けて、その奥に君がいればどんなにいいだろう。君が笑顔でいてくれたら、僕はもう何もいらない。一人には広すぎるこの世界も、二人ならきっと。その時だった、突然、目の前の扉が開いた。

「なんで入ってこないの? おかえり、真一さん」

 そこに立っていたのは、紛れもない彼女だった。

「か、ほさん……?」

「ん? どうしたの? なんかあった?」

「な、なんかって……、香帆さんはもう……、え……?」

 目の前で起こっていることに頭が追いつかず、ただ現実だけが逃げていって、僕は涙を流していた。

「わわっ、どうしたの! とりあえず早く入んな?」

「夢を見ていたんだ……。君だけがいない世界で、僕は一人だった」

「……」

「怖かった」

「うん、そっか」

「寂しかったよ、香帆さん」

「うん、大丈夫だよもう。君は一人じゃない。私がいる。私と、ずっと二人。ずっと」

 嗚咽混じりに情けなく話す僕を、彼女は受け入れた。ただただそれだけが嬉しくて。僕の世界は、たった半径1メートルの小さな世界だった。一枚の扉しかない、小さな小さな世界だった。

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