推薦人

天海エイヒレ

推薦人

 私は今、あの子に宛てた恋文を全校生徒に語っている。


 体育館に集まった数百の生徒の瞳が、私を見つめていた。教室の蛍光灯よりもずっと多く、ずっと大きい照明が、壇上の私を照らしている。熱いのは照明のせいだけじゃない。自分の体温が上がっていくのがよく分かった。楽な姿勢を取るために、お腹の前で手を組む。小刻みに指が震えていた。


 手元にあるのは、彼女に宛てた恋文。少し手を加えてはあるが、ほとんどは元の文章のままだった。こんなものを大切な場で披露していいわけがないのだが、なにしろ当の海老原えびはらさんの頼みだ。いわゆる、惚れた弱みである。彼女が懇願するなら、私は引き受けざるをえなかった。


「海老原さんは太陽のような人です。柔らかな彼女の笑顔は、いつも私に温かさをもたらしてくれます。彼女は生徒会長に相応しい、素晴らしい人物です」


 マイクに乗せた私の声が、スピーカーを通じて体育館中に響く。もともと、人前で話すことが得意ではない。緊張から少し上擦っているのが自分でも分かった。

 生徒会長選挙応援演説と題した原稿を、私は見ていない。この原稿は選挙期間が始まるずっと前から綴っていたものだ。一文一文彼女のことを想いながら書いた文章は、全部頭に入っている。それどころか、原稿がなくたって、彼女のいいところならいくらでも話すことができる。


「彼女は素敵なものを見つけることが得意です。彼女の鋭い観察力と洞察力は、私が見逃してしまうような、日常に潜んでいる魅力を見出してくれます。

 みなさんは、この学校の庭園にはどのような花が咲いているかご存知でしょうか。部活動に励む運動部の声援と吹奏楽部の演奏が、一番よく聞こえる場所をご存じでしょうか。冬の日の短い日には、校門近くのウサギの銅像が、月を掴んでいるように見える角度があることをご存知でしょうか。

 日常の素敵を楽しそうに話す彼女は、私やクラスメイトの世界を広げてくれました。それは学校全体の魅力を高める上で、必ずや役立つことでしょう」


 この恋文は誰にも見せるつもりはなかった。もちろん、海老原さんにもだ。友達として親しくしている彼女の友情を、私の恋心が裏切ることになる。

 だから、海老原さんへの恋心は、私の中にぎゅっと閉じ込めていた。ただ、一冊。どうしても想いが溢れ出しそうになったときだけ、授業とは別のノートにひっそりと彼女への恋慕を書き記していた。


「彼女の洞察力が発揮するのは日常の景色だけではありません。海老原さんは人の感情に敏感で、優しく包み込んでくれる存在です。私が部活動で上手くいかず落ち込んでいるとき、彼女は私のそばにいてくれました。

 同じ部活ではないので、彼女にとってはあまりピンと来ない話だったでしょう。それでも私の話を聞いて、共に痛みを分かち合ってくれました。彼女がいたからこそ、私は再び立ち上がる勇気を得ることができました。

 海老原さんの支えは全ての生徒にとって、大きな心の支えとなることでしょう」


 そのノートを海老原さんに見られたのは失態だった。移動教室から戻るとき、私は教科書と授業ノートだけを持ち、彼女さんへの恋心が書かれたノートは置き忘れてしまった。それを、移動教室の忘れ物がないか確認した海老原さんが見つけてしまったのだ。

 彼女がノートを読んでいるところを見たとき、私は一瞬で全身の体温が下がっていくのを感じた。そのノート誰が忘れたんだろうね。実は海老原さんを題材に小説を書いていたんだ。次の授業が始まるよ、急いで。脳内ではいろんな言い訳を巡らせていたが、どれも無駄だと分かっていた。誰かに見られることを想定していないので、内容を読めば差出人は私で、相手は海老原さんであることは明らかだった。


――これは貴女が書いたのね。


 先に言葉を発したのは海老原さんの方だった。その声が明るいことに、少し安堵した。気持ち悪いだとか、悪い印象は与えなかったようだ。もはや弁解の余地はないと感じ、海老原さんの言葉に小さく頷くと、彼女はパァッと花が咲いたような笑顔を見せた。


――素敵だわ。私のことをよく見てくれているのね。ねえ、氷口さん。この文章で生徒会選挙の推薦人をお願いできないかしら。


 その瞳があまりにもまっすぐで、眩しくて、私は言葉を失った。

 後から聞いた話では、海老原さんは前々から生徒会長に立候補するために推薦人を探していたらしい。私の書いた恋文は、海老原さんの良さが仔細に書かれていて、推薦人として最適だったようだ。そんな事情を知らない私は頭の中が真っ白で、ただ彼女の力になれるのならと、反射的に首を縦に振ってしまった。


「海老原さんの洞察力と思いやりは、私を含め多くの人たちの心に輝きをもたらしました。その資質は生徒会活動を成功へと導き、学校を一層良くすることでしょう。みなさんも彼女のことを、応援していただけると嬉しいです。二年A組氷口真子ひぐちまこ


 頭を下げると、大きな拍手が体育館を包んだ。きっとこの拍手のほとんどが形式的なものだ。壇上で誰かが話を終えたから、機械的に拍手をする。私の話をまともに聞いている人は半分もいないだろう。


 それでも私は、祈らずにはいられない。

 どうか誰か一人でもあの子のことが好きになりますように。

 海老原さんが生徒会長になりたいのなら、絶対に叶えてあげたい。願いを込めて、頭を下げる。深く。深く。

 拍手に見送られながら舞台袖へ引く。次に演説をする海老原さんが、そこに待機していた。


「ありがとう」


 私だけに聞こえるような小さい声で、海老原さんは言った。

 たった一言。この一言で、全てが肯定されたかのようだった。思わず頬が緩んでいくのが、自分でも分かる。

 自分の特別な感情を大勢の人にさらけ出すなんて、嫌だった。壇上では手が震えっぱなしだし、声は上擦ってばかりだった。

 でも、彼女が認めてくれた。それだけで、やって良かったと心の底から思える。胸の内が晴れ渡り、ポカポカとした暖かさに包まれていた。


「続きまして、海老原唯えびはらゆいさんの演説です」


 司会の教師の声に、海老原さんは凛とした声で「はい」と返事をする。

 薄暗い舞台袖から演台へと向かう彼女の背は、輝いていた。




「たまごサンド売り切れてた」

「あら残念だったわね。代わりに私の卵焼き食べる?」

「え、ホントに!? 食べる食べる」


 彩り豊かなお弁当箱から、海老原さんは卵焼きを私に差し出した。私に向けられた箸を見て、一瞬息が止まる。これを私が口にしていいものだろうか。

 海老原さんは透き通った眼差しで、私に微笑んでいる。私たちは友達同士。これは普通のことなのだ。誰に聞かせるわけでもない言い訳をし、私は卵焼きを口に入れた。


「んー、美味しい。幸せの味がする」

「ふふふ、大さじ三杯で入れておいたわ」

「道理で。学食に置いてもいいレベルだよ」

鵜久森うぐもりさんに提案しようかしら」


 選挙の結果、海老原さんは生徒会長になることはできなかった。僅差で得票数を下回り、海老原さんは副会長となった。

 生徒会長に就任したのは鵜久森さんという女子生徒だ。先輩後輩問わず人気のある彼女は、学食メニューの充実・席順の自由化・校則の見直しといった政策を打ち立て、生徒の心を掴んだ。悔しいが、海老原さんがいかに天使であっても、鵜久森さんの悪魔のような手腕がまさったのである。


「ごめんね。その、私が不甲斐ないばっかりに」

「もう。何度も言っているけれど、貴女のせいではないわ。鵜久森さんの方が会長にふさわしかった。それだけのことよ」


 落ち度はなかったと海老原さんから何度も言われているけれど、私は納得できていない。僅差で負けたならなおさらだ。何か少しでも天秤が傾けば、彼女は生徒会長になれていた。私の力が及ばなかったのである。


「それに目的の半分は達成できたもの」

「え?」


「海老原、ちょっといいか」


 海老原さんの含みのある言葉に疑問符を浮かべると、同じタイミングで別の生徒が割り込んできた。生徒会長に就任した鵜久森さんだ。


「食事中すまない。招集が掛かってな。今から生徒会室に来てくれないか」

「ええ、分かったわ」


 口に入れたトマトを飲み込み、海老原さんは慌ただしくお弁当箱を片付けはじめた。要件を伝えた鵜久森さんは、隣にいる私に目を向ける。珍しいものを見たように、彼女の瞳に光が灯った。


「む、君は確か推薦人の」

「どうも、氷口です」


 短く挨拶すると、鵜久森さんは級友に会ったかのように肩をバシバシと叩いた。


「君の推薦文は良かったよ。生徒会にも欲しいぐらいの人材だ」

「そんな……結局は投票で負けました。大多数の生徒には響かなかったんです」

「そんなことはないさ。生徒会のあいだでも評判だったぞ。熱い感情がこもっていて、素晴らしかったと」

「私なんかより、海老原さんの良さを知ってもらえたら嬉しいです」


 私の言葉に、鵜久森さんは眼を見開いた。私と海老原さんを見比べると、何が面白かったのか、彼女は声を上げて笑い始めた。


「まったく、君たちは似たもの同士だな」

「似たもの同士?」


 そんなことがあるだろうか。海老原さんのような天使と、私のような一般人。似ているところがあるとしたら、どちらも人間であるくらいしか思い当たらない。

 全く理解できていない私に、鵜久森さんがあきれたように口を開いた。


「君自身が言っていたじゃないか。海老原は素敵なもの見つけるのが得意なのだろう。君のような原石を全校生徒に披露したのは、海老原じゃないか。つまり君も海老原も、お互いがお互いを素敵なものだと――」

「う、鵜久森さん! 緊急招集なのでしょう。急ぎましょう!」


 海老原さんがらしくない大声を上げ、鵜久森さんを引っ張った。彼女の耳が先ほど食べていたトマトのように真っ赤に染まっている。

 海老原さんの目的の半分。

 確かに彼女は素敵なものを見つけるのが得意だ。そして、それを広めることが好きだ。

 うぬぼれてもいいのなら、私を全校生徒の前に立つ推薦人に指名したのは、私のことを素敵だと思って――。


「氷口さん、そのことは今度ゆっくりお話しましょう」


 私に答える間も与えず、海老原さんは鵜久森さんを連れて教室を出て行った。


 去りゆく海老原さんの背を見て、ああやっぱり好きだなと思った。

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