雨と物語

@manolya

第1話

 学校の授業が少し早く終わったので、読みかけの本の続きを読もうと、ちょうどよい場所を探した。木陰で静かな場所がよい。 

 歩いていて、寺の敷地のすみに長椅子を見つけた。立ち並ぶ蕎麦屋やお茶屋の喧騒から離れ、緑に埋もれている。通路と階段はあったが、少し待ってみても人が行き交う気配はなかった。私には好都合な場所だった。

 長椅子に腰掛けると、初夏の緑が日差しを透かし、開いた本を薄い緑に染めた。本に集中し出すと周りが見えなくなった。若い娘が一瞬、隣に座ったと思ったのは錯覚だったろうか。物語に集中しすぎるあまり、頭の外にまで想像力が及んだかもしれない。

 顔を上げると辺りに夕方が忍び寄っていた。腹が減ったことに気がつき、立ち上がろうとすると、足元に何やら見慣れぬものが落ちていた。薄闇に目を凝らし拾い上げると、どうやら貝殻のような形をしたものだ。あるような、ないような、よく見えぬと思ったのは薄闇のせいだけではなく、それが半分透けている素材であったからだ。手のひらに乗せると、私の手の皺が透けているのが薄い闇の中でも判別できた。色は薄い桃色、傾けると玉虫のようにいろいろな色が浮かんだ。青年である私の手のひらより、ふた回りほど小さい。貝殻と違うのは、貝殻はその中身を包み込むために中央がふっくらと膨らんでいるのに対し、それは平らだった。何かの飾りだろうか。自然にできたものがどうかも分からなかったが、地面に落ちていた割に汚れてもおらず、単純に美しいと思ったので、読んでいた本に挟んだ。歩き出そうとすると、本を読んでいる間ずっと、岩を掘ってできたようなお堂を背にしていたのを知った。もう暗くてよく見えなかったが、ご無礼をしましたと、一礼して手を合わせた。

 その場所が気に入り、私は夏の気配を増していく緑の下に何度も足を運び、本を読んだ。土曜、日曜には人が多かったが、平日はいつも通り、私と本と木々だけで、たまに小さな虫が本をのぞきに来た。虫が乗った頁を読み終わると、優しく息を吹いて虫をどかした。深大寺を出ると暑かったが、緑に囲まれたそこは木々の呼気が細かい霧を出しているようで、常に涼しかった。お堂に気がついてからは、着いたときと帰るとき、そこに向かって挨拶をするようになった。


 ある雨が降りそうな日、家に帰ってもよかったのだが、またその場所へ向かった。私ではなく足に、そこへ向かう癖がついたのかもしれない。一つ、二つと鳴き始めていた蝉は灰色の雲に気がついたのか、鳴りを潜めていた。長椅子には若い娘の先客がいた。娘はお堂を向いて、何をするでもなく背筋を伸ばして、長椅子の端に美しく座っていた。私はいつものようにお堂に一礼して手を合わせると、娘にも軽く会釈をし、反対側の端に座った。

 本を開くが、物語はいっこうに頭に入ってこない。ただ文字を目で追って、娘の存在を意識し続けていた。そして、バラバラになっている頭の中で、初めてこの長椅子に座って本を読んだとき、この娘がいたのではないかと思い当たった。顔も洋服も足元も、よく見ていなかった。しかし、娘から私に届くその気配は、あのとき感じたものとよく似ているように思った。

「以前もここにいらっしゃいましたか」

思わず声をかけた私に、娘は驚いた様子もなかった。顔をこちらに向けて、はいと答えた。緑がかった影が染めたせいか、肌が透けるように白く見える。艶のある長い黒髪、大きな目と澄んだ声を持つ、きれいな娘だった。

 その日を境に、娘とよく会うようになった。会う、といっても、長椅子に互いの姿を認めたら会釈を交わし、あとはそれぞれ、娘はじっと座っているだけ、私は物語に没頭しているだけだった。


 ある日、今にも降るかもしれないと思いつつ、降るまでは、といつものように椅子に座っていたら、ポツリときた。私は本を閉じて手ぬぐいで包み、鞄にしまった。傘を持っていた私は、こちらもいつものように、反対側の端に腰掛けていた娘に差し出そうとした。娘の周りに傘は見当たらなかったのだ。雨はあっという間に勢いを増し、水たまりになった足元で大粒の雨が何度も跳ねた。

 娘は雨の中でまばたきもせず、前を向いて座っていた。まるで雨など降っていないかのように。寒くなって凍えてしまったのだろうかと、傘を開いて差しかけた私の手は、娘の足元を見て動きを止めてしまった。

 娘の透けるような白い肌は本当に透け、長いスカートの下にあって見えないはずの足は足ではなく、鱗に覆われたヒレが地面にペッタリと張り付いていた。その鱗に、私は見覚えがあった。いつか地面で拾った、玉虫色の薄桃の、半透明の丸い、平べったいもの。娘の鱗はそれと同じものだった。


 娘は人魚だった。曇りや雨の日は水気に乗って、ここのお堂に祀られた観音様に会いに来るのだという。観音様といっても、像ではなくその姿が掘られた大石で、素朴で静かな雰囲気のある観音様だった。その大石は、海に沈んでいたところを、網で引き上げられたのだった。大石が沈んでいたのは寒い北の海で、そこに生まれ育った人魚の娘は海の底で観音様から陸の話をよく聞いた。大石は引き上げられ、お堂に祀られてしまったから、今度は娘が観音様に、海の話をしにきていたのだった。娘は、私が読んでいる本も知りたがった。娘は字を読めなかったので、私は話を聞かせてやった。読み上げるのに夢中になると、私はいつの間にか気持ちが集中し、あたりが深い海の中のように思えることがあった。人魚の娘の長い髪がゆらりと、海になった夏の緑に泳ぐように錯覚した。

 話をするようになってしばらく後、娘に、鱗を返さないでいいものかと尋ねたことがある。娘は大丈夫だと言った。人がこれを見つけるのは難しいので、見つけると幸運が訪れるとも言った。本当かどうか聞くと、娘は笑って、知らないと首を振った。


 ある雨の日、私と娘は会った。雨の中で、私が差した一つの傘の下で、娘に寒くないか尋ねた。娘は、北の海の中で過ごしていたので平気だという。私も本当は寒くなかったのだが、緑の海のようになった雨の中で、その美しいヒレで娘は私のそばからあっという間に泳ぎ去ってしまいそうで、私は娘を抱き寄せた。身動きも取れず、私の息は熱く、壊れそうに華奢な人魚を抱くのに力を込めすぎることもできなかった。

 気がつくと私は一人で、雨の上がった長椅子に一人で座っていた。娘に読んでやっていた本は、膝の上で水を吸ってふやけていた。木々の上では太陽が顔を出したところだった。頭上の葉の隙間から、金のかけらのような光がパラパラと音を立てそうに落ちてきた。


それからも、何事もなかったかのように、娘は相変わらずお堂の前で座っていた。娘が先にきて座っていることもあったし、私が本を読んでいると、いつの間にか座っていることもあった。しばらくすると、私が娘に本を読んでやるのだった。

 そのうちに、家にある本は尽きて、私は自分で話を書くようになった。はじめはその日の出来事を話していたが、変わりばえのしない私の生活の話題など、すぐに尽きた。娘は海の者であったので、山や街の話が面白いかと、夜は家で話を作って、紙に書きつけた。初めて私が書いた話を聞かせた日、娘はじっと耳を傾け、最後に物語の作り手を種明かしすると、大変な驚きようだった。全く本当の話と思ったと、透けるような白い頰がうっすらと赤くなったように見えた。私は、自作の物語を他人に聞かせることに緊張して、声が小さくなっていたのかもしれない。顔を上げると、熱心に聞いていた娘の顔が、思ったよりもずっと近くにあった。美しい白い肌は、本当にうっすらと、向こうが透けていた。消えてしまいそうで、つなぎ止めたくて、私は静かに娘に口づけをした。


 私は考え、長い長い物語を思いついた。想像なら、話の種は尽きることがなかった。北の海に生まれ、ゆっくりと沈んできた観音様と出会った人魚の話を書いたのだ。海の中や、観音様が人魚に話したことを書いた。人魚の家、人魚の一日、人魚の家族、友達、海の底の季節。陸で観音様に会いにきた、信心深い人々の話。

 娘は熱心に聞いていた。私が海の中を想像するのを、違うとも、そうだとも言わず、たまに自分が物語の中に出てくることに驚いていた。私は娘を自分に惹き付けたかった。昼も夜も、このお堂の前だけでなく、家でも街でも、たとえ海の中でも、娘のいるところに私もいたいと思うようになった。娘は夏の間、飽きる様子もなく、私とお堂の前で会った。夏の終わり、私の物語は、人魚の娘がお堂の前で出会った青年と、互いがともに生きることを誓ったところで終わった。


 秋が来て蝉の声は止み、強い緑は乾いた風が抜けていくごとに色あせていった。お堂の前で物語を読み上げる書生と、それを聞く若い娘の姿は見えなくなった。誰も気に留める者はいない。人通りのない寺の隅、見ていたのはお堂の中の観音様だけだった。


 私は娘と、海の中で暮らしている。娘の故郷の、北の海だ。海の中は、海の底は、私が物語に書いた様子、そのままだった。私はお堂の中にあった観音様のように、海の中の小さな祠の中にいて、娘が毎日ここを訪れる。太陽の光はかすかに私のところまで届き、その軌道や光の強さで、季節がめぐるのを知った。

 娘は今、毎日海の上に出ては、一つ、物語を私に話しにくる。海の上を忘れつつある私は、陸の賑やかさ、休みなく巡る季節を、時折夢を見るように思い出す。娘が、それを話してくれるからだ。

 人魚は死なないのだという。私はそのうち死ぬのだろうか。鏡のない海の底では、自分が老いたかどうかも分からない。ただ、私には人魚の娘が毎日のように会いにきて、話をしてくれることで、永遠に幸福な夢を見ているように思う。

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