第30話
役所の場所は地図にも書かれてあったがそれを見なくとも迷う心配はなさそうだ。街のどこにいても見えるほど大きな建物。どうやらそれが役所であるらしい。
それでも一応、最短距離での道順を宿の主人に尋ねると親切に教えてくれた。さらに何を勘違いしたのか主人は「新しい奴隷の調達ならもう少し待った方がいいと思いますよ」と言い出した。
「なんで?」
心桜が訊ねると彼は「奴隷市の開催は来週からですから」とにこやかに言った。
「なにそれ」
「え……?」
店主は「お客様はそのためにこの街へ来られたのでは?」と驚いたように目を丸くする。
「違うけど」
「左様ですか……。それは失礼致しました」
彼はなんとも微妙な表情で苦笑する。心桜は眉を寄せて「それで、何なの? その奴隷市って」と訊ねた。
「数年に一度、この街にあらゆる地域の奴隷商が集まってよりすぐりの商品を売りに出すんです。特級と出会えるのはこの奴隷市くらいなものなので、この時期は各地から富裕層の方がこの街にいらっしゃるんですよ。奴隷を購入するために資金を節約して平民街に滞在される方もいらっしゃるので、てっきり……」
「ふうん。ぜんぜん知らなかった」
「さ、左様ですか……」
「その奴隷市ってさ、必ず特級が出るの?」
「いえ。さすがに特級は希少すぎるので滅多に出品されることはありませんが」
「そう……。あ、そうだ。それよりもさ、安くて美味しい食事が食べられる店知ってる?」
「え、食事ですか? そうですね。我々のような平民が好む食堂でよろしければ。地図はお持ちですか?」
店主は戸惑ったような表情を浮かべながらも親切丁寧に教えてくれた。
「ちょうど奴隷市の時期だったのですね」
宿を出て歩きながら瑠璃が言う。
「瑠璃は知ってたの? その市のこと」
「話だけは。開催は不定期なので、時期までは知りませんでした」
「ふうん。なんかそれ目当てで来たとか思われててイラッとした」
「心桜様は魔者ですから、新たな奴隷を買いに来たと思われても当然だと思いますよ」
「魔者って奴隷を買うものなの? 自分だって人間だったのに」
「そういう魔者もいるということです。魔者は死にません。あまりに長く生きると自分が人間であったということを忘れてしまう……」
瑠璃は言いながら心桜に視線を向けた。心桜は眉を寄せて「わたしは人間だから」と言った。瑠璃は小さく微笑んで頷く。
「――そうですね」
「でもさ、お金持ってないんだろって遠回しに言われた気がしない? 失礼じゃない?」
「それは事実です」
「そうだけどさ……」
心桜が眉を寄せると瑠璃は「でも」と穏やかな口調で言う。
「あの方は良い人ですよ」
「まあ、たしかに差別的な感じはなかったかな」
「はい」
瑠璃は頷くと「それで、先にどちらへ行きますか?」と前方に見える建物と地図とを見比べながら言った。
「どちらへって?」
「いえ。さきほど食事のことを気にされていたので、お腹が減っているのかと」
「お腹は減ってるけど先に役所に行こう。役所に向かってる間に、この街の雰囲気もわかりそうだし」
言って心桜は通りを眺める。役所は街の中心にある。そこに向かう通りは必然的に大通りとなっているようだ。街の雰囲気を見るにはちょうど良い。瑠璃も同じことを思ったのか「承知しました」と頷いて心桜の一歩後ろを歩き始めた。
「……ねえ」
「なんでしょう」
「それ、嫌なんだけど。隣を歩けばいいじゃん」
「この街では、わたしは奴隷ですから」
「命令って言ったら?」
「心桜様にとって、わたしは奴隷ではないんですよね?」
「めんどくさ」
「我慢してください。これが一番良い選択なんです」
そう言った瑠璃の声は心桜がギリギリ聞き取れるくらい小さい。きっと周囲の目を気にしてのことだろう。心桜は深くため息を吐くと彼女を振り返る。瑠璃の表情は至って普通だった。無表情でもない、いつもの彼女の表情。
「……ま、今はいいよ。それで」
心桜の言葉に瑠璃は安堵したように微笑んだ。
「ところでさ、瑠璃」
「はい」
「役所ってバイト紹介的なこともやってるかな」
すると瑠璃は目を見開いて首を傾げる。
「バイトですか?」
「そ」
「本気ですか?」
「なんでそんな驚くの……。言ったよね? 仕事を探すって」
「本気とは思っていなかったもので」
「わたし、瑠璃の貯金を食い潰して生きることに何も思わないほど人の心を忘れてはいないよ?」
「そこまでは言ってませんが」
瑠璃は苦笑すると「仕事を斡旋してくれるところはあると思いますよ」と続けた。
「じゃあ、ついでにそこにも寄って――」
「心桜様!」
そのとき突然、瑠璃が心桜の腕を引っ張った。同時に何かが路地裏から飛び出してきて瑠璃の身体にぶつかって倒れる。
一瞬のことで呆然としていた心桜だったが「心桜様、お怪我は?」という瑠璃の声にようやく我に返る。
「あ、うん。平気。てか、なにこの子」
心桜は瑠璃から離れながら目の前に倒れた人影を見下ろした。
ボロボロのローブにフードを被っているので容姿はわからない。しかし小さな体格と「痛っ……」と微かに聞こえた声から、その人物が少女であるだろうことはわかった。
「いきなり飛び出すと危ないですよ」
警戒した口調で瑠璃が言う。すると少女は身体を起こしながら苦しそうに息を吐き出した。どこか怪我でもしたのだろうか。そう思って足を踏み出した心桜を止めるように瑠璃が一歩前に出た。すると少女は瑠璃を見上げてわずかに顔を上げた。
フードの下から覗いた顔はやはり少女だ。十歳くらいだろうか。あどけない顔の少女は、そのあどけなさとは無縁のような鋭く冷たい目つきで瑠璃と心桜を見やる。そして「ごめん」と言って去って行った。
「……なんだったの?」
少女が再び路地の向こうに消えていくのを見送りながら心桜は呟いた。
「浮浪児でしょうか」
「浮浪児……」
たしかに大きな街だ。生活レベルの格差が平民層の中にあってもおかしくはない。思いながら心桜は周りを見渡す。この辺りに彼女のような子供の姿はないように思う。地図には描かれていないが、もしかするとどこかに貧困層が住む地域もあるのかもしれない。
「行きましょう、心桜様」
「あ、うん」
何事もなかったように歩き出す瑠璃に追いついてから心桜は「なんであの子、謝ったんだろ」と首を傾げる。
「ぶつかってゴメンって感じじゃなかったけど」
「お金を取られました」
瑠璃の言葉に心桜は思わず足を止める。
「……今なんて?」
数歩先に進んでしまった瑠璃が戻ってきて心桜の斜め後ろに立ちながら「お金を取られました」と繰り返した。
「は?」
「あの謝罪はそれに対してのことだったのではないかと思います」
「じゃなくて!」
心桜は眉を寄せて「盗まれたのわかってたならなんで逃がしたの?」と瑠璃を睨む。
「少しだけですから別に構わないかと」
「いくら?」
「銅貨を二枚です」
「なんで二枚だけ取られるの。財布って一つでしょ?」
「大きな街にはスリが出るとシャドラ様から聞いたことがありましたので財布を分けておりました。ポケットに入れていたのは必要最低限の今日の資金です」
「……まあ、それでも取られたのはダメだと思うんだけど?」
すると瑠璃は「ですが」と少女が消えていった方へ視線を向けた。
「彼女は怪我をしていたようだったので」
「え、うそ」
「血の臭いがしていましたし腹部を庇う素振りも……。それにきっと空腹だったのでしょう。飢えた表情をしていたので、つい見逃してしまいました」
瑠璃はそう言うと「申し訳ありませんでした」と心桜に頭を下げた。
「いやいや。わたしに謝ることじゃないでしょ。取られたのは瑠璃のお金なんだし。瑠璃がいいながら、まあ、別にいいよ」
――血の臭いなんて全然気づかなかったけど。
心桜は思いながら歩き出す。やはり瑠璃と自分では経験してきたことが違うのだろうか。あの子を見ても心桜は何も思わなかったというのに。ただ失礼な子だと思ったくらいだ。それとも心桜の人間としての感情が鈍くなっているのだろうか。
「心桜様?」
「なんでもない。早く行こ」
心桜は首を横に振ると再び役所に向かって歩き出した。
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