第28話
それから月日は流れた。どれくらいの時間が過ぎたのか少女にはよくわからない。
妹がいなくなったということ以外は毎日同じ時間を過ごしていたある日、珍しく少女の持ち主である奴隷商が納屋にやってきた。
「早く準備しろ。ここを出発する」
彼はそう言うと納屋で暮らしていた人間たちを追い立てて鉄格子付の馬車に乗せた。しかし乳母だけは納屋に残るようだ。
馬車に乗せられた少女は鉄格子を掴んで乳母を見つめる。彼女は悲しそうな表情で近づいてきた。
「これでお別れだね」
囁くような小さな声で言ったのは、おそらく少女との会話を禁止されているからだろう。乳母はチラッと奴隷商へ視線を向けた。どうやら旅支度に夢中でこちらの会話には気づいていないようだ。
「わたしたちはどこに?」
「たぶんクシャラだと思う。大口の商談が入ったって言ってたから」
「クシャラ……。あの子もそこにいる?」
「それはわからないけど、いるかもしれない。あの街には奴隷を買う金持ちが多いから」
「そう」
少女は頷くと鉄格子を揺すってみる。しかし少女の力ではビクともしない。
――鍵はあいつの腰にあるやつか。
少女は納屋から何かを運び出してくる奴隷商を見つめながら考える。そのとき「何を考えてるの」と乳母が心配そうに言った。
少女は乳母に視線を向ける。
「ダメよ」
そう言った乳母は真剣な表情だ。
「変なこと考えちゃダメ。ずっと教えてきたでしょ? この世界でわたしたちが生きていくには奴隷でなくちゃいけないの。そうじゃなきゃ殺されるんだから」
「……約束は守らなくちゃいけない」
少女の言葉に乳母はハッとした表情を浮かべた。少女は微笑む。
「そう教えてくれたのはあなたでしょ?」
「それは、奴隷が主人に対してそうあるべきだという意味で――」
「あなたはあのおじさんがいなくなったらどうなる?」
「どうって……」
「その奴隷紋はどうなる?」
乳母は首元に手をやった。
「主人が死んだらこれは消えるわ」
「自由になる?」
「死ぬわ。これがないとわたしは殺される」
乳母は奴隷紋を撫でながら小さな声で言った。少女は笑みを浮かべて首を横に振る。
「死なないよ。だってあなたは半分獣人でしょ? 目の色はわたしたちとは違う。髪の色さえ隠せばどうにでもなる。あなたは読み書きもできるし知識もある。あいつが死ねば、あなたは自由」
少女は乳母を見つめてそう囁いた。乳母の表情がわずかに引き攣る。そして彼女は鉄格子に自分の身体を押し当てた。
「――これを」
まるで吐息のような声で乳母は言って格子の間からグッと何かを差し出してきた。見るとそれは小さな果物ナイフ。少女はそれを手に隠すようにして受け取りながら彼女の小指に自分の小指を絡めて微笑んだ。
「約束するよ。あなたを自由にする」
「……無茶なことはしないで」
「無理だよ、それは」
そのとき「おい!」と奴隷商の声が響いた。瞬間、ビクッと乳母が鉄格子から離れる。
「何をしている!」
「すみません。この子がお腹が減ったというので」
頭を下げる乳母の言葉に奴隷商は眉を寄せて「我慢させろ」と吐き捨てる。
「お前は俺が帰るまでに納屋を綺麗にしとけ。また新しい商品を仕入れてくるからな」
「かしこまりました」
乳母が頭を下げながらチラリと少女を見たのがわかった。少女は手の内に隠し持ったナイフを服の中へと忍ばせ、少しでも外が見える位置に座る。乳母はこちらを気にしながらゆっくりと納屋の中へと戻っていった。
――大丈夫。約束は守るよ。
乳母との約束、そして妹との約束。それを守るためにはまずあの男を殺す必要がある。
――チャンスはあいつがこの鉄格子に近づいたとき。
動き出した馬車に揺られながら少女は両足を抱えて過ぎ去っていく景色を眺める。
どれくらいの旅になるのかわからないが、どこかで食事くらいは与えにくるだろう。なにせ、ここにいるのは貴重な商品だ。そして少女にはこの中でも特に自分が価値のある商品だという自覚もある。
――でも焦っちゃダメだ。
この小さなナイフでは大人の力であっても相手を殺し切ることができるかどうかわからない。まして子供の力だ。むやみに刺したところでかすり傷にしかならなかったら意味がない。
少女は何度もチャンスを伺った。しかしなかなかそのときは訪れない。奴隷商は思っていた以上に用心深かったのだ。
食事を与えるときはパンを格子の間から投げ入れるし、休憩時も近づいては来ない。待っているだけではチャンスは訪れないのではないか。次第に焦りを募らせながらも辛抱強く待ち続けていた少女は、ふと馬車の後方の道の先に砂煙が上がっていることに気づいた。
――馬車?
もうすぐ日が暮れそうな時間で視界はあまりよくない。しかしそれがどうやら馬車ではなく数頭の馬であることは辛うじてわかった。
その馬たちは猛スピードでこちらに近づいてくる。それらに跨がった者たちの姿を見て少女は思わず笑みを浮かべた。そして揺れる馬車の中で立ち上がると前方に移動する。
「おじさん」
声をかけると奴隷商が「うるさい。黙ってろ。メシなら昨日やっただろう」と答える。少女は笑うことを我慢することもできずに「盗賊が来たよ」と言った。
次の瞬間、大きな爆発音と共に馬車が横転した。そして近づいてくる複数の馬の足音と粗暴な男たちの声。
「ま、待て! 命だけは――」
奴隷商の声が途絶えた。同時に少女の首にはめられていた首輪がゴトッとその場に落ちる。
「おい見ろよ! これ人間だぜ? 高く売れるんじゃねえか?」
横転した馬車の荷台を覗き込んだ男たちがヘラヘラと笑いながら鉄格子の扉を開け始めた。
――よかった。これでやっと約束を守れる。
少女は果物ナイフを両手に握りしめて大人たちの後ろに隠れた。首輪が落ちたということは奴隷商が死んだということ。乳母との約束は果たした。これから自分がすべきことはただ一つだ。
「人間ども、とりあえず外に出ろ。今日から俺たちがお前らのご主人様だ」
言葉を理解できない大人たちが不安そうに外に出て行く。その後に続いて少女も外に出た。
「お、ガキもいるじゃねえか。しかも見た目も悪くねえ」
下品な笑みを浮かべた男がこちらに近づいてくる。少女は数歩下がって自分の両親の背後に回った。
「なんだ? お前の親か?」
何の疑いも持たず、盗賊たちは両親の目の前に立った。そのタイミングを見計らって少女は素早く両親の背中をナイフで突き刺していく。瞬間、体勢を崩した両親は悲鳴をあげながら盗賊たちに体当たりするように倒れていった。
咄嗟のことで避けきれなかった盗賊たちは面白いようにその場に倒れ込んでいく。同時に少女は森に向かって全力で駆け出した。
「お、おい! 一匹逃げたぞ!」
「くっそ、邪魔だ! この人間どもが」
背後で悲鳴が響き渡る。おそらく全員殺されたのだろう。だが、どうでもいい。
あれらはただの『人間』だ。
少女は振り返ることもせず森の中を懸命に走り続けた。
――死んじゃいけない。逃げなくちゃ。
たった一人の大切な家族との約束を守るために。
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