第四章 クシャラ自治都市
第20話
泣き声がする。女の子の泣き声。昔よく聞いていた泣き声。
――慎?
心桜は周囲を見渡す。しかしどこにも彼女の姿はない。それどころか周りは闇だ。何もない。誰の気配もない。ただ幼い慎の泣き声だけが響いている。
――助けなくちゃ。
慎が泣いている。幼い頃から彼女はずっと泣いているのだ。どんなに笑っていても、どんなに大人ぶっていても彼女の心は幼いまま。それを知っているのは自分だけ。
そのときふいに闇の中に現れたのは見覚えのある公園の景色。目の前にはまだ目に涙を浮かべた幼い慎がいる。
『心桜ちゃんがずっとそばにいてくれるなら、わたしもう泣かないよ』
彼女は笑って心桜の髪に触れた。
『心桜ちゃんの髪の毛、真っ黒だしサラサラで綺麗だね。お人形さんみたい』
嬉しそうに笑って心桜の髪を撫でる彼女の方こそ可愛い人形のようだと思った。フワフワの髪がとても愛らしくて好きだった。
あれはいつのことだっただろう。どうして彼女は泣いていたのだろう。理由なんてもう覚えていない。ただそのときの彼女の笑顔が愛しくて、本当の彼女を手に入れたような気がして……。
――わたしが守るよ。
心桜は闇の中に手を伸ばす。その伸ばした手すら見えない漆黒の闇の中、ふわりと温かな何かが心桜の額に触れた。
「――様?」
ふいに聞こえた声に心桜は瞼を開ける。ぼやけた視界には誰かの影が映った。同時に全身に激痛が走る。
「痛っ……」
想わず声を出すと「良かった。気づかれましたね」と心桜を覗き込んでいた影が言った。瑠璃だ。
「良くないって。なにこれ、全身痛いんだけど」
まだぼんやりとする意識の中、心桜は顔をしかめながら痛みに耐える。
「それはそうでしょうね。今、腕を再生中みたいですから」
淡々とした口調で言う瑠璃は、それでも心配そうに心桜のことを覗き込んでいる。
「腕?」
「はい。心桜様が気を失った直後、両腕とも炭になって崩れて消えました」
「なにそれ怖い」
言いながら視線を自分の両腕に向ける。しかし包帯でぐるぐる巻きになった腕は確かにそこにあるようだ。手の先の感覚もあるし指もちゃんと動く。常に激痛に襲われていること以外はいつもと変わらないように思える。
「眠っておられる間に再生が始まったようなので大丈夫です。まだ途中ですが動かせる程度には治ってきたようですね。確認されますか?」
「いい。動くけど動かそうとするだけでめっちゃ痛い。無理。絶対グロいもん」
「でしょうね」
瑠璃はそう言うと小さくため息を吐いて心桜の額に手を置いた。ひやりとした感触が心地良い。
「熱はまだあるようですが……。何か食べられますか?」
「喉渇いた」
「では、その前に身体を起こしますね。少し我慢してください」
「え、なに――」
心桜が言い終わる前に、瑠璃は素寝ている心桜の背中に手を差し入れるとグイッと身体を押し起こした。あまりの激痛に心桜は声を出すこともできずに思わず息を止める。
「大丈夫ですか?」
「……死んだかと思うような激痛が走ってる。いま」
「すみません。腕を引っ張ってしまうと取れてしまうと思ったので」
「怖いこと言わないで」
心桜は深く息を吐き出して痛みを堪えると瑠璃に視線を向けた。彼女は部屋の隅に置かれた棚の水差しからコップに水を注いでいる。その様子を見て初めて、心桜はここが外ではないと気づいた。
「瑠璃」
「はい」
「あれからどのくらい経った?」
「一週間といったところです」
「ここ、どこ?」
「民家です」
「……知り合いの家とか?」
しかし彼女は「いえ」と短く答えるとコップを持ってベッド脇に戻って来た。
「知らない他人の家です」
「ふうん」
心桜は頷きながらコップを受け取る。それだけでもかなり痛んだがそれよりも喉を潤すことが先決だ。
かなり喉が渇いていたようで一気にコップの中身を飲み干していく。そして一つ息を吐いてから「いや、待って」とようやく瑠璃の言葉を理解した。
「なんで他人の家にいるの。わたし、たしか街を出たところで――」
「はい。街を出て心桜様は気絶されました。ですので、とりあえず偶然見つけたここで休ませてもらっています。さすがに大変でした。ここまで心桜様を運ぶのは」
「それはごめん」
心桜はため息を吐くと「でも説明になってないから、それ」と瑠璃を軽く睨んだ。
「ここの家の人は?」
「いません」
「なんで」
「空き家のようでしたので鍵を壊して入りました」
「……空き巣じゃん」
「別に盗みに入っているわけではありませんので」
心桜は再びため息を吐くと部屋を見渡した。
なるほど。たしかに空き家のようで部屋はずいぶん痛んでいるように見える。天井も雨漏りでもしているのか木の色が変色していた。視線を自分が座っているベッドに向けると、どうやら布団と思っていたものは寝袋だったようだ。
「食器はこの家のもの?」
「はい。ガラス系の食器類は使えそうでしたので。水は近くの川から汲んできたものを煮沸していますので大丈夫です」
「そっか。家主がいきなり戻って来ないといいけど」
「傷みの具合からして、ずいぶんと放置されているようですから大丈夫ではないでしょうか」
再びコップに水を注いで心桜に手渡しながら瑠璃は言う。心桜は今度はゆっくりと水を口に含みながら窓の方へ視線を向けた。狭い部屋の窓から見える景色は街ではない。
「ここ、森の中なの?」
「はい」
「あの街は?」
「かなり燃えていたということしかわかりません。心桜様の魔力による炎ですから単純に水で消火もできなかったでしょうし、被害は甚大だったかと」
「そう。死んだ人もいるんだろうね」
いや、きっと大勢の人が死んだのだろう。自分たちが街を出る時点ですでにかなり火の手が回っていた。住人の何割が死んだのだろうか。
「気になりますか?」
瑠璃がじっと心桜を見つめながら問う。心桜は彼女へ視線を向けて微笑んだ。
「全然」
「……また、そんな顔をするのですね」
「わたしが殺したのは人間じゃないからね」
瑠璃は眉を寄せて「それは――」と言いかけ、ハッとしたように窓の向こうに視線を向けた。つられて心桜もそちらに視線を向ける。すると森の中から馬が数頭駆けてくるのが見えた。それぞれに鎧を身につけた男たちが跨がっている。
「盗賊?」
「どうでしょうか。それにしては身なりがちゃんとしていますが」
「この家の家主だったりして」
「その場合は謝るしかないですね」
瑠璃は言いながら首元に手をやる。そこに奴隷紋が巻かれていることを手で確認してから彼女は玄関へと向かった。
「待って。わたしも行く。いきなり切りつけてくるかもしれないし」
心桜は言いながらベッドから足を下ろして立ち上がろうとした。しかし激痛のせいでとても立ち上がることができない。
「心桜様――」
「誰かいるか!」
瑠璃の声を掻き消すように男の怒鳴り声と共にドアを叩く音が響いた。
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