幕間 シャドラとレイヴァナ
第18話
屋敷は静かだった。シャドラは庭先のテラスで椅子に座り、紅茶を飲みながら小さく息を吐く。
静かな屋敷はいつもと変わらない。これが日常。シャドラがこの屋敷を王から与えられた何十年も前から、この屋敷が賑やかになったことなど一度もない。
――当たり前だったはずなのに。
少し冷めてしまった紅茶を口に運びながら思う。
シャドラは自分が人間であった頃のことはあまりよく覚えていない。
日本という国で生まれた。
戦時中であった。
そんな断片的なことくらいしか覚えていない。それなのに、ここ最近で思い出したことがある。それは人の気配がする家の感覚だった。人の温かさ、とでもいうのだろうか。
シャドラは椅子の背にもたれて瞼を閉じる。かすかに湿り気を帯びた夜風が緩やかに吹き抜けていく。そして遠くで木々の葉が揺れる音。その音に混じって聞こえてくるのは楽しそうな笑い声。
懐かしい声。
温かな雰囲気。
息を吸い込めばそのときの香りすら思い出せそうな気がする。ぼんやりと瞼の裏に浮かんでくるのは狭い台所に立つ女の姿。そして美味しそうな良い香り。
思わず深く息を吸い込んだシャドラだったが、実際に香ってきた夜の空気の匂いにガッカリして目を開けた。そして小さく息を吐いては紅茶を口に運ぶ。微かに思い出せそうだった記憶の欠片たちは再び深く暗い意識の中へと落ちて消えてしまった。
――思い出せるはずもない、か。
シャドラは薄く笑みを浮かべて夜空を見上げる。
当然だ。自分がこの世界に来たとき、シャドラは記憶を食われたのだ。レイヴァナ・グレイハーストに。
自分の記憶をレイヴァナに捧げ、変わりにレイヴァナの血をこの身に受けた。それがシャドラがシャドラとなった瞬間であり、彩川しおりが死んだ瞬間でもある。そのときに日本で暮らしていた頃の記憶はほとんど失ってしまった。それでも最近、こうして向こうでのことを思い出そうとする自分がいる。
「近くに人がいると変わるものなのかしら」
夜空を見上げならポツリと呟く。すると「変わったの?」と声がした。それは少女のようにも聞こえ、少年のようにも聞こえ、そして大人の女性のようにも聞こえる不思議な声。
シャドラは視線を空に向けたまま微笑んだ。
「いつも突然の来訪ですね、レイヴァナ」
「あんたはいつも驚かないのね。つまんない」
「もっと意外性のある登場を期待しているんですよ」
シャドラは言いながら顔を前に向ける。さっきまで誰も座っていなかった向かいの席では美しく長い白髪の少女が頬杖をついてモグモグとクッキーを食べながら座っていた。
「いかがですか? お味は」
「まあまあ、ってとこ」
「そうですか」
「これ、あんたが作ったやつじゃないでしょ?」
「ええ。あの子が最後に作ってくれたものです」
シャドラは目を細めてテーブルに置いた皿の上に残るクッキーを見つめる。それは瑠璃がここを出て行く前日に作ってくれたもの。
「あんたが拾ってきた人間の子供?」
「はい。もう子供ではありませんが……。心桜と一緒に行ってしまいました」
「ふうん。結局、魔者にしなかったんだ?」
興味なさそうに彼女はもう一つクッキーをつまんで顔の前にかざした。マーブル模様のクッキー。その作り方を教えた頃の彼女は、確か十二歳と言っていただろうか。
無口な子供だった。しかし賢い子供だった。教えたことはすぐに理解し、できなかったことは一人で努力してできるようになっていた。文句も言わず、シャドラに頼ることもなく何でも一人でやる子だったが、きっと向こうの世界にいる頃からそういう風に生きねばならなかったのだろう。
誰かに甘えるということを知らない子供だった。
「魔者は歳を取らないから、あの子が大人になるまで待ってるのかと思ったけど」
「あの子がそれを望まなかったので」
「あんたが言えば望んだんじゃない?」
「それはあの子の意思とは言えません」
「あんたさー」
うんざりしたようにレイヴァナはため息を吐くとクッキーを放り投げて器用に口でキャッチした。
「なんでしょう?」
「なんでそんなクソ真面目になっちゃったの?」
「わたしは元々、こんな性格ですよ?」
「わたしが見つけたあんたはもう少し面白そうだったよ?」
「あの時のわたしは無我夢中だっただけです」
――あんた、なんでそんなとこに浮かんでるの?
そう言ってあの日、レイヴァナは突然現れた。
目覚めたのはどこかの村のはずれにある湖のほとりだった。そのときにはすでに周囲を異形の衆に取り囲まれ、殺されるのも時間の問題であった。そんな状況だ。何が起きているのかなんて理解ができるはずもなく、ただ無我夢中で守ろうとしていた。
きっとパニックになっていたのだろう。目の前で放たれた炎の魔法を見て思ったのだ。
空襲だ、と。
家族を守らなくては、と。
そこから先のことはよく覚えていない。目の前は真っ赤に染まり、気がつくと周囲は焦げ臭い匂いに包まれていた。
その焦げ臭さが自分からしているのだと気づいた時にはシャドラは湖の中にその身を投じていた。プカプカと水に浮かびながら見つめる空は、ちょうど今日のように雲が散らばった綺麗な夜空だった。星が雲に隠れて見えたり消えたりしていた。
そんな穏やかな夜空を遮るようにレイヴァナは現れたのだ。
「すごい。まだ生きてるのね」
宙に浮いた少女は首を不思議そうに首を傾げてから視線をどこか別の方に向ける。
「あれ、あんたがやったの?」
何を言われても身体は動かないし声も出ない。目を動かすことすらできないので、シャドラはただぼんやりと綺麗な少女を見つめていた。
「すごいね。みんな死んじゃってる。あんたって人間でしょ? どうやったの?」
無邪気な少女の真っ赤な瞳はクルクルとよく動いた。まるで面白いものを見つけた小さな子供のように。その少女の様子に思わず動かない手を伸ばそうとしたのは、きっとそのとき誰かのことを思い出したからだろう。
少女は不思議そうに首を傾げた。
「しゃべれないの?」
――ここは危ないよ。
「危ない? なんで?」
――早く逃げなくちゃ。
「でも、もう誰もいないよ? みんな焼けちゃった」
――みんなを守らなくちゃ。
少女はさらに不思議そうに首を傾げる。
「でもあんた、もうすぐ死ぬよ?」
――死ぬ?
「うん。だってそんなに黒焦げなんだもん。死ぬよ」
――ダメだよ。
「死にたくない?」
――死ねないよ。みんなをちゃんと守らなくちゃ。
「どうして?」
――父さんと約束したから。父さんが国の為に戦っている間、わたしが家族を守るって。だから、あなたのことも守らなくちゃ。
朦朧とする意識の中、頭の中にはそれだけが強く浮かんでいた。
守らなくては、と。
「ふうん」
少女は宙で一度考えるようにくるりと回転すると「ねえ、あんたの頭の中にある記憶をわたしにちょうだい?」と笑った。
「変わりにあんたにはわたしの血を少しだけあげる。そうしたらあんたは死ねない身体になるよ」
――死ねない?
「そう。ほんとはあんたの身体の一部があればそれをもらいたいんだけど黒焦げで美味しそうじゃないし。記憶だけでいいよ。ね、どうかな? 記憶くれる?」
――いいよ。それでまだ生きられるのなら。
「ありがとう!」
嬉しそうにそう言って笑った少女の顔が誰かを連想させた。それが誰なのかは今はもうわからない。
少女は宙に浮いたまま顔を近づけると自らの唇を深く噛み切った。口元には真っ赤な血が流れ出ている。痛そうだった。しかし少女は表情を歪めるどころか嬉しそうに笑みを浮かべてその血にまみれた唇をそっと押し当ててきた。
口に流し込まれたのは温かな血液。そしてまるで吸い上げられていくかのように失われていく記憶。同時に映画のように脳内に流れてきた映像は、誰かの記憶だった。
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