幕間 風見 瑠璃
第10話
シャドラが少女を連れて戻って来た。少女は容姿からして日本人で高校生のようだ。ドロドロになった制服を着て右手にはスマホを握りしめている。
懐かしい故郷の香りを彼女から感じて、瑠璃はぼんやりとシャドラが少女をベッドに横たえる様子を見ていた。
「もう。見てないで手伝ってくださいな」
シャドラの言葉で我に返り、瑠璃は頷いて彼女からの指示を待つ。
「わたしは湯を沸かしてくるから、あなたは着替えを用意してくれる?」
しかしどう見ても彼女は怪我をしている。血が出ているし、顔や手足のアザもひどい。手当をした方がいいのではないか。思ったが、シャドラが「平気よ。その子、魔者だから」と言った。
「……魔者」
それを聞いてガッカリしてしまう自分に気づく。同じだと思った。彼女も自分と同じ人間で、わけも分からずこの世界に来て殺されかけたのだ、と。
「そう。だから怪我は放っとけば治るでしょう」
シャドラはそう言うとキッチンに向かう。瑠璃はベッドの上で苦しそうに眠る少女を眺めた。
自分がこの世界に来たときはわけも分からず殺されかけ、頭部の裂傷から大量に流れ出た血を見て死んだと思われたのか森に投げ捨てられ、そこで運良くシャドラに拾われた。
いや、運悪くだったのかもしれない。
あのまま死んでいた方が楽だったはずだ。この世界に自分の居場所などない。元の世界でもなかった居場所が、別の世界に用意されているはずもないのだ。
瑠璃は未使用のまま棚に片付けられている寝間着を取り出してテーブルに置くとベッドの脇で待機する。着替えさせるのは身体を綺麗にしてからだろう。湯が沸くまでには少し時間がかかる。そのとき、彼女の手からスマホが滑り落ちた。
ベッドに横になって力が抜けたのだろうか。瑠璃は布団の上に落ちたスマホを取ってその画面を見る。ロック画面には楽しそうな笑みを浮かべた少女が二人。
楽しく普通の高校生活を送っていたのだろう。
「可哀想に」
ポツリと呟いて彼女の額に手を乗せる。熱があるようだ。解熱剤を飲ませた方が良いだろうか。たしか自室の棚に残っていたはず。
そう思って彼女の額から手を離そうとしたとき、その手を少女が掴んだ。そして苦しそうに唸る。
「……行かないで」
夢を見ているのか、彼女は掠れた声でそう呟くとそのまま瑠璃の手を抱えるように身体の向きを変える。
「あの、放してください」
「行か……ないで」
少女に意識はないのだ。言葉をかけても無駄だと分かっている。瑠璃はため息を吐いた。そして眉間に皺を寄せる。
――行かないで。
幼い頃、そう言って母に泣きついていた自分を思い出す。この少女のように母の手を一生懸命に掴んで抱えて泣きわめいて。母はそんな子供の手を振り解いて行ってしまったけれど。
「――慎」
誰かの名を呼んで彼女はグッと瑠璃の腕をさらに抱え込む。傷ついた身体で、意識もないのに強い力で。
「わたしはその人ではありませんよ」
閉じた目から流れ落ちた涙を指先で拭ってやりながら瑠璃は呟く。そのとき部屋のドアが開く音が聞こえた。
「あら。仲が良いのね」
「そう見えますか」
思わず答えるとシャドラは少し驚いたように目を見開き、そして微笑んだ。
「久しぶりね、あなたのそんな顔を見たのは」
瑠璃が首を傾げると「とても人間らしい顔をしてる」と嬉しそうに彼女は言った。
「放してくれないんです」
「みたいね」
しかしシャドラは助ける気もないようで、そのまま彼女の服を脱がせて身体を拭き始めた。
「……あの」
「なに?」
「わたしもお手伝いを」
「そのままでいてくれたら楽でいいわ」
見ると、確かに少女は瑠璃の腕を抱えこんでいるので身体が横向きだ。背中を拭きやすいのだろう。
――お母さん、行かないで。
強く掴まれた腕を見ていると遠い過去に置いてきた記憶が蘇ってくる。
瑠璃の家に父はいなかった。母は男にだらしなく、しょっちゅう家を空けていた。
与えられた金で食事を済ませ、家族と仲良く遊びに行ったなどと話してくる学校のクラスメイトと友達になる気にもならず、毎日ひとりで学校と家を黙々と行き来する毎日。それはまるで生きながら死んでいるような、そんな日々だった。
母に泣きすがったのはなぜだっただろう。あんな女に何を期待していたのだろう。考えながら少女の額に手をやる。さっきよりも熱い。
――そうだった。
あの日、母にすがったのは体調が悪かったからだ。熱が高かったのか吐き気を覚えるほどの頭痛で身体中の関節も痛かった。まだ十二歳の子供が母親を頼るのは当然だったはず。しかし、母は金だけを置いて出て行った。男の元へ。
あの世界での最後の記憶は冷たい床に倒れて見ていた真っ暗な天井。
あの世界で自分が死ぬのは必然だった。この世界で目覚めたところでそれは変わらない。この世界でも自分が死ぬことは必然。そう思っていたのに。
「行かないで」
掠れた声で何度もそう言っては瑠璃の腕に額を押しつけてくる少女の姿はまるで自分を見ているようだ。
「――ずっと、一緒に」
その言葉を呟いたかと思うと、少女の身体から急に力が抜けた。瑠璃の腕を掴んでいた手もふわりと離れて少女は少し苦しそうではあるが寝息を立て始めた。
「ようやく薬が効いたみたいね」
シャドラの声に顔を上げる。
「薬?」
「ええ。鎮痛解熱の薬をね、先に飲ませておいたの。レイヴァナが持ってこいって言うから」
シャドラはため息交じりにそう言うと少女の身体を拭き終わったタオルを桶に入れた。それを見て瑠璃はテーブルに置いていた寝間着を手に取り、少女に着せていく。
細い身体は華奢というよりは痩せすぎだった。この世界に来て何日逃げ続けていたのだろう。こんな怪我をして、化け物に襲われて、挙げ句の果てには化け物にされて。彼女は理解しているだろうか。自分がもう人間ではないということを。
「この子の世話、お願いしてもいい?」
服を着せ終えて彼女に布団を掛けたとき、シャドラが言った。
「この子が元気になるまで」
「……元気になるまで」
シャドラは頷く。瑠璃は少女の顔を見つめ、そして熱い額をそっと撫でた。
「――あなたが望むのなら、それ以降も」
「え……」
再び視線をシャドラに向けると彼女は微笑んでいた。温かく、そして嬉しそうに。
「ここに来てからのあなたはずっと空虚な表情をしていたのに今はそんなに人間らしい顔をしているんだもの。彼女のこと、気に入った?」
瑠璃は眉を寄せ、少女を見つめる。
「あなたはここに来てたくさんのことを学び、努力してきた」
それは自分が子供だったからだ。子供は勉強し、努力して誰かに認めてもらいたいと思うもの。だから頑張った。一生懸命に勉強した。しかし褒めてくれる人はいなかった。認めてくれる人もいなかった。
「――あなたはそんなわたしには興味を持ちませんでしたね」
瑠璃が言うとシャドラは笑みを浮かべたまま「それはあなたが望まなかったからでしょう」と答える。
その通りだ。シャドラは自分を拾ってこの家に置いてくれた。そんな彼女にそれ以上のことを望むことなどできなかった。またいらない子だと捨てられるのが怖かった。だから彼女に認めてもらいたいとは思わなかった。
答えない瑠璃を見ながらシャドラは穏やかな声で続ける。
「あなたは努力して人並みに戦える力も手に入れた。もう守られる側じゃないでしょう?」
瑠璃は自分の手を見つめ、そして少女に視線を向ける。
「――この子は魔者なのでしょう」
「そう。この子は魔者。見ての通り、弱くて幼い魔者よ」
「でもわたしは……」
「ここにいても、もう覚えるようなこともないでしょ? わたしも一人の方が気楽でいいわ」
彼女の言葉に瑠璃は「そうですか」と頷く。シャドラの優しさはいつも分かりづらい。
目覚めたばかりの右も左もわからなかった瑠璃の目の前でいきなり料理を始めたり、掃除を始めたり、声を出して本を読み始めたり……。突然、目の前で剣の素振りを始められたときには死を覚悟したものだ。
瑠璃はその頃のことを思い出して自然と笑みを浮かべる。
「あなたは自由よ。今までも、これからも」
彼女はそう言うと瑠璃の肩をポンと叩き、桶を持って部屋を出て言った。
静かな部屋に微かに聞こえてくるのは少女の寝息。
「……あ。額を冷やさないと」
見るとテーブルには冷たく綺麗な水が入った桶とタオルが用意されていた。どうやらシャドラがあらかじめ桶を二つ用意していたようだ。タオルを水に浸し、硬く絞ってから少女の額に乗せてやる。
「ん……」
冷たかったのだろうか。少女が微かに顔をしかめた。
「――あなたはこれからどうしますか?」
眠る少女に瑠璃は聞く。答えない少女は眉を寄せて顔を動かした。反動でタオルが布団の上に落ちてしまった。瑠璃はそれを拾って再び彼女の額に当ててやる。ついでに汗ばんだ額に張り付いた前髪をそっと掻き上げていると「一緒に……」と少女が呟いた。
瑠璃は一瞬手を止め、そして微笑む。
「わかりました」
呟いて彼女の柔らかな頬を撫でる。
「一緒にいますよ」
「――慎」
「……その人の代わりになることはできないでしょうが」
それでもこの少女にとって必要な存在となれるのであれば。
この世界に自分の居場所を見出せるのならば。
「――ずっと一緒にいます」
呟いて少女の手を握る。すると少女は安心したように穏やかな表序を浮かべてスヤスヤと寝息を立て始めた。
そんな少女の姿に幼い頃の自分を重ねて瑠璃は微笑む。
「大丈夫ですよ。もう、大丈夫」
――もう、わたしは大丈夫。わたしはもう子供ではないから。
「わたしがあなたを守ります」
かけた言葉に応じるかのように少女は微笑み、寝返りを打つ。ポトッと額に置いていたタオルが布団の上に落ちた。
「……氷枕の方がいいかもしれませんね」
瑠璃は苦笑しながら、再びタオルを額に乗せてやった。
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