第9話

 慎を助けに行く。そう決めたものの、まずは体力をつけなければ動けそうになかった。どうやらそれほど心桜の身体は衰弱していたらしい。何週間も寝込んでいたというのだから当然といえば当然なのかもしれない。

 病人食のようだと思っていた食事も心桜が体力を取り戻していくに連れて味の濃いものに変わっていった。どうやらメニューもすべてメイドが考えてくれているらしい。


「……あんた、全然喋んないよね」


 すっかり体力も戻って普通の食事も食べられるようになった頃、昼食の食器を下げにきたメイドに心桜はそう声をかけた。すると彼女は驚いたのだろうか、食器を下げる手を一瞬だけ止めた。しかし反応はそれだけだ。無言で作業を続けている。


「そういえば名前も聞いてないけど」


 しかし彼女は黙々と作業を続ける。

 心桜はため息を吐くと立ち上がり、彼女の腕を掴んで動きを止めた。ビクッと彼女が身体を強ばらせたのがわかった。その反応に眉を寄せながら「名前、聞いてんだけど?」と彼女の顔を覗き込む。いつも俯きがちで前髪が目にかかっていたので気づかなかったが、どうやら額に大きな傷跡があるようだった。


「どうしたの? それ」


 しかし、やはり彼女は答えない。心桜は再びため息を吐く。

 答えがなくとも想像はつく。彼女は日本人。どうやって生き延びたのかはわからないが、おそらく彼女もまた奴らに襲われたはずだ。傷はそのときについたものに違いない。もしかするとそのときに喉を潰されでもしたのだろうか。だから声が出ないのか。


「声出せないなら文字でもいいけどさ、名前くらい教えなよ。あんたのこといつまでもあんたとしか呼べないんだけど?」


 すると彼女は初めてはっきりと表情を見せた。驚いたように目を丸くしたのだ。


「――風見かざみ瑠璃るり


 微かに聞こえた声に心桜は「え、なんて?」と眉を寄せた。彼女は姿勢を正すと「風見瑠璃と申します」と頭を下げた。


「声、出るんじゃん……」

「話せない、とは申しておりません」

「……あんた、主人に似てんだね」


 まるでシャドラのような揚げ足取りに心桜は眉を寄せた。


「まあいいや。瑠璃って何歳?」


 彼女は少し考えてから「おそらく、そろそろ二十歳かと」と無表情に答えた。


「おそらくって……」


 言いかけてから「まあ、そっか」と頷く。

 この世界に来てから何年経ったかなんてわからないかもしれない。暦も違うだろう。四季だって日本と同じようにあるとは限らない。しかし、どうやら彼女の方が年上であるようだった。果たして呼び捨てでも良いのだろうか。

 少し考えていると彼女は「わたしはあなたのメイドですので、お好きなようにお呼びください」と静かな口調で言った。

 まるで心桜の考えを読んだかのようだ。心桜はじっと瑠璃を見つめる。


「あんたも魔者なの?」

「人間です」


 答えた彼女の表情から何も感情を読み取ることができない。元々そういう性格なのか、あるいはこの世界に来てそういう性格になってしまったのか。しかし、どうやら楽しくお喋りを楽しめる相手ではないということだけは今の会話で分かった。


「瑠璃」

「はい」

「わたしと同じ制服を着た子がどこにいるか、知らない?」

「存じ上げません」

「他に人間がいるという情報は?」

「人間は見つかり次第、基本的に殺されます」


 ――それでも慎は生きてる。


 心桜は瑠璃の言葉を聞きながら思う。そして「ま、いいや」と大きく伸びをした。


「瑠璃」

「はい」

「わたし、人を探しに行くから」

「承知しました。旅支度を調えて参ります」

「え、誰の」

「わたしと心桜様の分ですが?」


 瑠璃は何を当然のことをというような顔で心桜を見てくる。心桜は「いやいや」と眉を寄せた。


「なんであんたも来るの?」

「わたしが心桜様のメイドだからです」

「あんたの主人はシャドラでしょ?」


 すると瑠璃は怪訝そうに眉を寄せた。


「わたしはあなたのメイドだと、シャドラ様からお聞きになっているはずですが?」

「いや、聞いたけど」


 しかしそれはあくまでもこの屋敷に心桜が滞在している間に過ぎないだろう。そう思ったが、たしかにシャドラは言っていた。彼女は心桜のメイドだから好きにしろ、と。


「あんた、シャドラに捨てられたの?」

「いえ。そもそも、わたしはシャドラ様のものではありません」


 彼女はまっすぐに心桜を見返しながら答えた。


「でもここでメイドやってるじゃん」

「他にすることがないからです」

「は?」


 心桜は眉を寄せる。瑠璃はそんな心桜を無表情に見つめたまま「ここでは、他にすることがないのです」と繰り返した。


「シャドラの世話があるんじゃないの」

「シャドラ様は基本的に身の回りのことはご自分でされております。食事もご自分でお作りになりますし、掃除や洗濯、庭の手入れなどもご自分でされます」

「なんで? 魔者は貴族なんでしょ?」

「他にすることがないからです」


 再び彼女は同じ言葉を繰り返した。心桜はため息を吐くと「まあ、どうでもいいけど」と頭を掻く。


「でも、わたしがここから出るのにあんたまで来る必要はないよ。あんたは人間なんでしょ?」

「左様です」

「死ぬでしょ?」

「殺されたら死にます」

「じゃあ、ここにいた方がいいんじゃないの?」

「わたしはあなたのメイドです」

「……だから?」

「メイドは主人に付き従うものです」

「その主人の命令で残れと言ったら?」


 すると瑠璃は少し考える素振りを見せた。そして首を傾げる。


「失礼ながら心桜様。この世界の地理をご存知ですか?」


 突然の質問に心桜は眉を寄せる。


「知らないけど」

「この世界の一般常識をご存知ですか?」

「知ってると思う?」

「お金は持っていますか?」

「いや?」

「野宿の経験は?」

「あるわけないじゃん」

「魔力以外の戦闘技術は?」

「魔力すらまともに使えないらしいけど?」

「獣を食べられるように捌いたことは?」

「日本の高校生は普通そんな技術持ってない」


 心桜が答えると瑠璃は真顔で「そんなあなたが一人でこの世界を生き抜いていけるとても?」と言った。


「え、ムカつくんだけど」


 無表情の中に嘲笑うような感情が見え隠れするのが不愉快だ。しかし瑠璃が言うことも一理ある。シャドラは言っていた。魔者は死なないが疲れるし怪我もする、と。

 心桜はしばらく考えたが、やがて「わかった」とため息を吐いた。


「あんたを連れて行く。でもわたしはあんたを守らない。殺されても助けない」

「わたしは殺されたら死んでますよ。あなたと違って」


 彼女はそう言うと「では準備をして参ります」と軽く一礼し、食器を載せたカートを押して部屋から出て行った。


「行くのね」


 突然の声に心桜は一瞬ビクッと身体を震わせる。振り向くとそこにシャドラが立っていた。


「どこから来たの」

「お庭から」


 言って彼女は窓の方を指差す。魔者は飛べる、ということだろうか。心桜はため息を吐く。


「不法侵入に盗み聞き?」

「あら、それは心外です。ここはわたしの家ですし、窓が開いていれば話も聞こえます」

「ここ四階のはずだけど?」

「わたしは魔者なので」

「ああ、化け物か」

「あなたもですよ」


 シャドラは無表情に言った。その言葉が、どうやらからかいの言葉ではないらしいとその雰囲気からわかる。心桜が無言で彼女を見返すと「この世界の人たちからすれば、わたしたちは化け物なんですよ」と続けた。


「元人間、魔者というこの世界で認められた存在。つまり、わたしたちはこの世界の人たちに認められた化け物なんです。そのことをお忘れなきよう」

「意味わかんない」

「そのうちわかります」


 言って彼女は視線をドアの方へ向けると薄く微笑んだ。


「あの子を、よろしくお願いしますね」

「……いいの? 本当に連れて行っても」

「あの子が望んでいるのなら」

「困らない? あの人、けっこう優秀なメイドなんじゃないの?」


 そうですね、とシャドラは頷いた。


「そもそも、この屋敷にメイドは彼女だけですから」

「え……?」


 シャドラは苦笑する。


「魔者の家に仕えたいメイドなんていませんよ。それに、わたしは一人暮らしが好きです」

「じゃあ、なんで――」

「やることがなかったんでしょうね」


 シャドラは瑠璃と同じ事を言った。そして「だから」と続ける。


「これからは彼女の意思でやりたいことをさせてあげてください」

「死んでもいいってこと?」

「あの子が望むのならば」


 その言葉にどんな感情が込められているのかわからない。しかし、シャドラの表情はどこまでも優しく、まるで子を旅に出す親のようだ。


「わけわかんない」

「そのうちわかります」

「そればっかり……。わたし、あんたのこと嫌い」


 心桜が言うと彼女は「わたしもですよ。奇遇ですね」と笑った。


「でも、わたしとあなたは眷属ですからそのうちまた会うこともあるでしょう。魔者は基本的に死にませんからね」


 そのときドアをノックする音が聞こえた。


「心桜様。準備が整いました」

「え、早っ……」


 ドアを開けて入ってきた瑠璃はシャドラを見ると驚いた様子もなく「お世話になりました。シャドラ様」と深く一礼をする。


「好きなように生きなさい」


 そう言ってシャドラは微笑み、今度はちゃんとドアから部屋を出て行った。横を通り過ぎていくシャドラの姿を見る瑠璃の表情は、微かに微笑んでいるように見えた。

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