第二章 シャドラ・グレイハースト
第5話
どうやらそこは心桜がいた世界とは違うようだった。何がきっかけで迷い込んだのかわからない。だが、この世界で時間を過ごせば過ごすほどに、ここが自分と慎がいた世界とは違うということを実感せざるを得ない。
心桜は与えられた部屋の椅子に座り、ぼんやりと窓の向こうに視線を向ける。
あれから何日経ったのだろう。
目が覚めるとベッドの上だった。身体は綺麗にされ、着ていた制服はなくなっていた。代わりに着せられていた服は真っ白な寝間着。まるでシルクのような素材で高級品なのだろうことは想像がついた。
何者かに助けられた。それは間違いないだろう。だが、その何者かがよくわからない。食事は使用人らしきメイド服の女が運んできては置いていく。一切の会話もなく目を合わせることもない。
目覚めたばかりの頃に誰かがベッドの近くまで来て話しかけてきた気がするが高熱と全身の痛みにうなされていたせいか、よく覚えてはいなかった。
食事はどれも質素で薄味。それでも食べられないほどではなく、病人食と言われたらそうなのだろうと納得できるものだった。少なくともこの家の主は心桜をすぐに殺すつもりはないようだ。しかし自由にする気もないようで部屋のドアには鍵が掛けられていた。
心桜は椅子の背にもたれて深くため息を吐く。
――慎。
意識を失う直前、スマホに届いたメッセージ。あれは幻覚だったのだろうか。
彼女は助けを求めていた。
もし本当に彼女からのメッセージだったのだとしたら彼女を助けに行かなくてはいけない。しかしスマホも制服と一緒にどこかに消えてしまった。もし見つかったとしても、きっともう充電が切れていることだろう。メッセージを確認する術はもうない。
心桜はもう一度息を吐くと立ち上がり、窓の前に立つ。
穏やかに晴れた空からは温かな太陽の光が降り注いでいる。緩やかに吹く風に窓のカーテンが揺れた。
心桜がいる建物はどうやら大きな屋敷らしく、部屋は四階にあるらしい。窓から見えるのは綺麗に手入れされた花壇、噴水。その敷地を囲っている立派な塀。そして塀の向こうに広がっている草原。さらに向こうには建物が密集した地域が見えた。
高い建物はひとつもなく、しかし田舎の風景と呼ぶにはあまりにも広すぎる。そう思えるのはアスファルトの道や電線などもないからだろう。
心桜はそんな平和な景色を眺めながら両手に拳を握った。
騙されるものか。ここは平和な世界などではない。ここに住んでいるのは化け物ばかり。
化け物たちは心桜の命を狙っている。
彼女の命も狙っている。
――敵だ。
この世界の化け物たちは全て敵。この家の住人もきっと敵に違いない。心桜を助けたのも何か目的があってのことだろう。もしかすると慎が逃げ延びたのかもしれない。そして同じ制服を着ていた心桜のことを仲間だと思い、慎の行き先を聞き出して一緒に殺すつもりなのだとしたら。
「……全員、殺すか」
ぽつりと呟く。その瞬間、目が熱を帯びてきたような気がした。思わず動かした腕にもなぜか痛みが走り、心桜は顔をしかめた。
そのとき「はい、そこまで」と声が聞こえた。振り向くと、部屋の入り口に女が立っていた。
髪の色は色素が抜けてしまったような金色。瞳は薄い紫色をしている。歳の頃は二十代前半といったところだろうか。やたらゴワゴワしたドレスを着た女は「その殺意、とりあえず鎮めてもらってもよろしいですか?」と静かに言った。心桜は答えず、ただじっと彼女を睨みつける。
「もしかして言葉の意味をご存知ありませんか? 殺す意思と書いて殺意。相手を殺めてやろうという――」
「知ってる」
思わず口を開くと「左様でございますか」と女はニヤリと笑みを浮かべた。その表情を見て心桜は「うざ」と顔をしかめる。
「言語能力、思考能力に問題がないようで何よりです。それで、その殺意を鎮めていただけますか? そのままだとあなたの左目が暴走してあなた自身が痛い目を見ますよ」
「あんたが敵なら、このままあんたを殺す」
「あなたの全身の肉も弾け飛びますよ?」
「別にどうでもいい」
「それで激痛に耐えながら再び数週間寝込んで身体の回復を待つことになりますが、それでもいいと?」
心桜は眉を寄せる。
「普通は死ぬでしょ。全身の肉が弾け飛んだら」
「普通は死にます。でも、あなたは魔者なので死にません」
わけがわからない。心桜は身体の力を抜くと額に手を当てた。
「なんか、わけわからなくて頭痛い」
「それは大変ですね。では、ひとまずお茶にしましょうか」
言って彼女は視線をドアの方に向けた。そこにはメイドが紅茶と焼き菓子を載せたトレイを持って立っていた。心桜はため息を吐くと椅子に戻って腰を下ろす。
「存外、落ち着いていらっしゃるんですね」
テーブルを挟んで心桜の向かいに座った彼女は、紅茶の準備をするメイドを横目に見ながら言った。
「騒いだら何か解決するわけ?」
「しませんね」
無表情に彼女は言うと「でも」と視線を心桜に向ける。
「普通、人間はこの世界に来たら命乞いをするか気が狂うかのどちらかですよ」
「化け物しかいないもんね、ここ」
コポコポと音を立ててお湯がポットに注がれていく。メイドが紅茶を入れる様子をじっと見つめながら心桜は「毒とか混ぜたら殺すよ」と続けた。メイドは一瞬だけ動きを止めたが何を言うでもなく再び紅茶を淹れる作業に専念する。
「うちの子をいじめないでくださいな。この子はあなた専属のメイド。人間ですよ」
女の言葉に心桜はメイドの顔を見た。顎くらいの長さで切りそろえられた黒髪に黒い瞳。その瞳にはわずかな怯えが見える。じっくりと顔を見たのは初めてだが、予想外に若い。もしかすると心桜と同年代かもしれない。
じっとメイドを見ていると女が「その子は日本人です。あなたもそうなのでしょう?」と続ける。
「だから言葉もわかります」
「……そうなの?」
聞くとメイドは微かに頷いた。その表情は硬く怯えているものの、一瞬だけ視線が心桜に向けられた。心桜は「ふうん」と息を吐くと澄ました表情で椅子に座る女に視線を戻した。
「ってことは、あんたも日本人? この人に言葉通じてるでしょ」
「あら。案外、頭も悪くないんですね」
「目の色も髪の色も、どう見ても日本人じゃなくて化け物だけど」
「こちらではこの容姿が普通なんですよ」
「あんた何なの? つうか、ここって何なの? なんでいきなりわけもわからないまま化け物に殺されなくちゃいけないの?」
メイドがカップに紅茶を注ぐ。ふわりとした香ってくるのは心桜がよく知る紅茶の香りと同じ。焼き菓子はクッキーのようだ。
「わたしの名前は
「――超日本人じゃん」
心桜が呟くと彼女はフフッと笑った。
「今はシャドラ・グレイハーストと名乗っています」
グレイハースト、と心桜は眉を寄せて呟いた。たしか森で意識を失う前に聞いたレイヴァナのフルネーム。彼女もグレイハーストと名乗っていなかっただろうか。
考えながら心桜は「どっちで呼ぶのが正解?」と訊ねる。
「シャドラ、とお呼びください。もう日本名は遠い昔に捨てましたので」
彼女は言って首を傾げる。
「あなたの名前は?」
「……心桜。美空心桜」
「綺麗な名前ですね」
そう言って彼女は柔らかく笑みを浮かべる。心桜は「どうも」と低く答えると顎をあげて話の先を促す。そのとき、メイドが温かな湯気がフワフワと立ち昇るカップを心桜と彼女の前に置いた。
「お話しましょう、この世界のこと。わたしたちのこと。あなたのこと。お茶を飲みながら、ゆっくりと」
シャドラは笑みを浮かべたままティーカップに手を伸ばした。
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