第2話

「大変だったんでしょ、慎」

「ん、何が?」

「この三年間。相手の家との付き合いとか、社交界の勉強? 的なやつとかさ。わたしには何も言ってくれなかったけど」


 それでも時々、慎が疲れたように心桜の家にやってきては添い寝をすることがあった。

 ただ隣で眠るだけでいい。そう言って彼女は心桜の腕の中で眠りについた。

 安心した顔で子供のように眠る彼女の顔を見るのが好きだった。だから心桜も何も聞かなかったのだ。彼女が何も言わないからこそ過ごせる、あの時間すらも愛おしくて。

 雨が強くなってきた。叩きつけるような春の雨は冷たく、まるで氷が身体を包み込んでいるかのよう。心桜は目を細めながら空を見上げる。

 分厚く黒い雲の間で一瞬、何か光るものが見えた。


「――雷?」


 すぐ耳元で声がして視線を向ける。すると慎も同じように空を見上げていた。心桜はふっと笑う。


「春雷ってやつ?」

「えー、これってそうなのかな。どちらかというとゲリラ豪雨だよ」


 慎は笑いながら言ったが、すぐにその表情は消えた。


「このまま逃げちゃう?」


 彼女は視線をフェンスの向こうに移しながら言う。


「このまま、わたしたちだけでさ。どこか遠い場所に行って暮らすとか」

「……無理だよ」


 そんなこと現実的ではない。そんなこと慎だって分かっているはず。

 お金だってない。住む所だってない。自分たちだけで生きていく方法なんて何も知らない。それでも彼女は言う。


「無理じゃないよ。だって、わたしたちもう十八歳だよ? 成人だし」


 穏やかな口調は普段の慎のものと変わらない。しかしその言葉はひどく空虚だった。

 心桜は彼女の手をギュッと握る。


「ねえ、おじさんに言ってみない? わたしたちのこと」

「無理だよ」


 考えることもなく、はっきりと彼女は言った。


「あの家で、もうわたしに発言権はないんだ。約束しちゃったから」

「――約束は守らないとだもんね」


 心桜の言葉に彼女は小さく頷いた。それは二人が幼い頃から決めていたこと。

 約束したことは守る。できないことは約束しない。


 だからもう、二人の関係は詰んでいるのだ。


 空が低く音を響かせ始めた。どこか遠くで雷が鳴り始めたらしい。雨は変わらず激しく心桜たちを打ちつける。

 繋いだ手に互いの体温などもう感じない。感覚すらもなくなってきた二人の手は、まるで氷に固められて一つになったかのようだった。


「ねえ、心桜」


 低く地響きのような音が轟く中、慎の声が微かに聞こえる。


「なに、慎」


 心桜も慎と同じようにフェンスの向こうを見つめながら答えた。そして次に聞こえたのはカシャンと鳴るフェンスの音。


「飛び降りちゃおっか」


 まるで軽い冗談のような調子で慎は言う。心桜は微笑んで慎へと顔を向けた。


「いいよ」

「……ほんとに?」

「二人で一緒に、でしょ?」


 もうここで彼女と一緒にいられないのならば構わない。

 彼女が隣にいないのなら生きていても仕方がない。

 慎がいない人生なんて何の意味もない。


 ――だけど。


 心桜は微笑んだまま慎を見つめる。その瞳の奥にあるのは恐怖と迷い。当然だ。慎は強くて優しくて、そしてとても怖がりで臆病で泣き虫。

 そんな彼女を守るのが心桜の務め。


 ――子供の頃も今も。


「おいで、慎」


 言って心桜は一度手を離すとフェンスを乗り越えた。スカートが引っかかって破れてしまったが構わない。

 降り立った屋上の縁は狭く、少しでもバランスを崩すと落ちてしまいそうだ。心桜はフェンスに体重を預けるようにして体勢を安定させてから「もし怖かったら帰っていいよ」と慎に微笑む。


「……そうしたら、心桜はどうするの?」

「それは慎が気にすることじゃないから。わたしたちはもう別れるんだし」


 慎は無言でしばらく心桜を見つめていたかと思うと、ゆっくりフェンスをよじ登って心桜の隣に降り立った。


「――高いね」

「怖い?」

「手、繋いで」

「うん」


 再び繋いだ手は仄かに慎の温もりが感じられた。しかしそれも一瞬のことですぐに感覚は消えてしまう。それでも彼女の手が微かに震えていることだけはわかった。


「寒い? それとも怖い?」

「わかんない」


 青ざめた慎の顔はしかし恐怖に歪んでいるわけではない。心桜を見つめるその瞳にはすでに迷いはなくなっているように見えた。あるのは、ほんの少しの怯え。

 彼女は青ざめた顔に薄く笑みを浮かべる。


「お別れだね」

「そうだね」

「このまま友達になれないのかな。わたしたち」

「慎はそれでいいの?」

「……やだな」


 その答えに安心する。そう思っているのは自分だけではない。彼女にだって自分が必要なのだ。それを確かめることができた気がして心桜は息を吐いて笑った。


「ねえ、慎」

「なに、心桜」


 心桜は慎の手を握って彼女へと身体を近づける。


「キスしよっか」


 一瞬きょとんとした表情を浮かべた慎だったが、すぐにはにかんだ笑みを浮かべた。


「三年間しなかったのに今なの?」

「今だから、だよ」


 心桜が顔を近づけると慎はわずかに視線を揺らす。


「ダメ?」

「……いいよ。ファーストキスだね」


 囁くような彼女の言葉。

 心桜はゆっくりと彼女に唇を近づける。彼女の冷たい吐息が心桜の頬をかすめた。

 そのときだった。

 頭上で光の球が弾けたかのような閃光が走り、身体がバラバラにされるような衝撃を受けたのは。

 彼女との記憶はそこまでだ。

 最後に見たのは悲しそうな慎の瞳。

 覚えているのは雨の冷たさと繋いでいた慎の手が離れていく感覚だけだった。

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