わたしは彼女を〇〇ため、〇〇になる。

城門有美

第一章 心桜と慎

第1話

 雨の香りが鼻を刺激する。いや、これは木々の匂いだろうか。それとも草が潰れた匂いか。あるいは自身の血の臭いか。もうよくわからない。

 美空みそら心桜こころは木の幹に背をもたれ、土を抉るような勢いで頭上から落ちてくる雨粒をぼんやりと見つめていた。

 身体が冷たい。手足はもうほとんど動かない。吐いた息は一瞬だけ白く存在を示し、雨粒に叩き消されていく。

 心桜は短く息を吐き出すと静かに瞼を閉じた。

 暗闇の中で聞こえてくるのは雨音。どこかから響いてくる化け物たちの声。それに混じって耳の奥に聞こえてくるのは記憶の中にある愛しい彼女の声だった。


 ――卒業、しちゃったね。


 学校の屋上。鍵を壊して入ったそこで、傘も差さずにフェンスに手を掛けた彼女は街の方を見つめながらポツリとそう呟いた。雨に濡れた長い黒髪の隙間から細く真っ白なうなじが覗く。


「三年って短いね」


 心桜の言葉に彼女は「そうだね」と頷く。そして振り向くと微かに微笑んだ。


「いつも心桜との時間はあっという間だよ……。何も決められないまま、楽しい時間だけが一瞬で過ぎていっちゃう」

「……そうだね」


 微笑んだ彼女の笑顔が悲しそうで、心桜は浮かべた笑みを俯かせた。彼女と出会って三度目の卒業式。

 これが最後の卒業式。

 きっと、これが一緒に過ごせる最後の時間。


「――どうする? わたしたち」


 心桜は顔を俯かせたまま聞く。ずるいやり方だ。彼女にすべてを託そうとしている。彼女が苦しむことがわかっているのに。


「お父さんは明日にでもわたしを向こうに行かせたいみたい」

「へえ」


 彼女、水無瀬みなせしんの家はどうやら普通とは違うらしい。どこか大きなグループ会社を経営しているようで、いわゆる上流階級の家庭。その一人娘である慎はどこかの御曹司と高校を卒業したら結婚するのだそうだ。

 今時そんな政略結婚などあり得ない。そう思うのは心桜の家がごく平凡な家庭だからだろうか。

 心桜は俯いた顔に皮肉めいた笑みを浮かべる。


「行くんだ? よく知らない男のところに」


 ――違う。そんなことが言いたいわけじゃない。


 思いながら下ろした手を握りしめる。


『行かないで』


 そう言いたいだけだ。だけどそんな言葉を言えるわけもない。だって彼女はすでに心桜のそんなワガママを叶えてくれた。

 すでに約束は果たされているのだ。

 親が決めた私立高校への進学を予定していた慎に婚約話が持ち上がったのは中学三年の春。それを知ったとき、心桜は思わず泣いてすがってしまった。


 行かないで。


 そう何度も繰り返しながら。

 だって二人はいつも一緒だった。離れるなんて考えられない。家柄のことなどわかりもしないような幼い頃から、いつだって隣には慎がいたのだから。


 義務教育の期間は一般的な環境で育てたい。そんな家の方針だったらしいが、それでも慎は周りから少し浮いていた。

 どこかの児童公園でポツンと一人でいた彼女のことが気になって声をかけたのは何歳の頃だっただろう。三歳か、四歳か。そのときの彼女の笑顔はずっと忘れられない。安心したような、嬉しそうな笑顔。

 あの日から、あの笑顔を見ることができるのは自分だけで、彼女の隣にいて彼女を守るのは自分だと思っていた。

 実際そうだったのだ。慎は泣き虫で優しくて、いつも誰かのために我慢していた。心桜がいなければ潰れてしまいそうな、そんな儚い子だった。


「仕方ないよ。約束だもん」


 彼女は諦めたようにそんな言葉を吐く。

 そう。

 これは約束だった。

 彼女と離れたくなかった心桜が泣いてすがって彼女を引き留めたとき、彼女が両親とした約束。


『高校卒業後は言う通りにする。だからそれまでは自由にさせてほしい』


 慎の親も理解がないわけではない。一人娘の最後のワガママだとでも受け取ったのか、とくに反対することもなく慎の要求を呑んだ。そして三年間、心桜の隣には慎がいてくれたのだ。

 それまでのような心桜のことを頼りにしていた泣き虫な彼女ではなく、どこか凜々しく強くなった彼女が。


「ねえ、心桜」


 慎は振り向くと心桜の方へ移動して手を伸ばした。反射的に心桜も手を伸ばす。触れた彼女の手は冷たい。いや、自分の手が冷たいのかもしれない。よくわからない。

 ただ感じるのは彼女の手の柔らかさ。いつも繋いでいた彼女の手の心地よさ。

 心桜は彼女の細い指に自分の指を絡める。


「わたしね、心桜のこと好きだよ」


 雨に濡れた彼女の顔に笑みが浮かぶ。嬉しそうではない。楽しそうでもない。苦しそうで、悲しそうな笑顔。

 そんな彼女の手を握りしめて心桜も笑みを浮かべた。


「わたしも好きだよ。慎のこと。たぶん慎よりもずっと前から」


 この告白は二度目だ。


 初めての告白は中学の卒業式の後。

 あの日はまだこれから来る高校生活に期待をしていた。告白してお互いの気持ちがわかれば、きっと未来は変わるはず。

 慎はこれからもずっと隣にいてくれるはず。

 そう思っていた。


「三年間、何してたんだろうね。わたしたち」


 心桜は笑みを浮かべたまま彼女を引っ張るようにしてフェンスの前に立った。


「うん。何もできなかったね。わたしたち」


 慎は呟くように言う。

 できなかった? 違う。何かをする勇気がなかったのだ。少なくとも心桜はそうだ。

 慎に触れれば触れるほど彼女を自分のものにしたくなる。だけど卒業してしまえば彼女はいなくなってしまう。

 もしかしたら未来が変わるかもなんて、そんな僅かな可能性にすがって脳天気に恋愛ができるほど心桜は子供ではなかった。

 子供ではいられなかった。

 日に日に大人びていく慎の姿を隣で見ていたから。

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