――第二線――(七月四日)

「ちょっとハル、話聞いてる?」


 朝露がかかりそうな長い睫毛と湖底のように深い瞳が、わたしから十センチほどの距離で顔を覗き込んでくる。


 同性同士だって綺麗な顔を近づけられたら、照れくさいし恥ずかしい。


「ツカサちょっと近い」


「ハルがわたしの話を全然聞いていないからだよ」


「ごめん……ちゃんと聞くから離れて」


「女の子に離れろとか言うかな~地味に傷つく~」


 ツカサは少しむくれた表情をするとわたしから顔を離し、中腰の姿勢から立ち上がり、席に座ったままのわたしを見下ろしている。


 ツカサこと清家月砂せいけつかさは、学年主席の学力と飾らないさっぱりした性格で人気がある。


 凛としたその姿は、大人しくしているだけで絵になるのに、その本質は少年のように好奇心旺盛でイタズラ好きの天邪鬼あまのじゃく


 ツカサはいつもわたしを困らせる……けど同時に一番の友達だったりする。

 

 『ハル』というのはツカサがわたしに付けたあだ名、春に初めて逢ったから『ハル』。


 せっかく付けてくれたけど、クラス内でこのあだ名全く流行っていない。『ハル』と呼ぶのはツカサだけ、でもそれが嬉しかったりする。


「何の話だったっけ?」


「はぁ、朝から心ここに在らずだね、目の下にクマがあるけど大丈夫?」


 授業中も、昨日の五線譜のことを考えてしまい集中できてなかった。そう言えば部活の朝練でも先輩に怒られたっけ、ちゃんと集中しないと。


「心配してくれてありがと、昨日よく眠れなくて……」


「そうなの? 午後練休んで、家でゆっくりした方がいいよ」


「大丈夫、そこまでじゃないから」


「本当に?……ハル無理しないでね」


 そう言い残すとツカサはわたしから離れ、教卓のそばで話をしている四人の輪に加わった。


 ツカサはクラス内の特定グループに所属せず、どのグループにも均等に関わる。


 コミュ力の塊なのか、世渡り上手なのかよくわからないけど、わたしにはとてもだけど真似できない。


 他の子たちと楽しそうに話をしているツカサから目を離し、窓の向こう側に広がる梅雨晴れの空を見つめる。


 昨日と違い、今日は天気が良い。微かだけど夏の匂いがする。

 

 五線譜のことで……昨日からモヤモヤしている。


 すごく気になっている。


 でもわからないことを考えるは無駄だと思う、これ以上考えるのはやめよう。


 考えないといけないことは他にも沢山あるわけだし。

 

 わたしは五線譜ノートを取り出し、あの二文字を消しゴムで消すことにした。


 右端が少し折れたそのページには昨日と変わらず『すき』と刻んである。


 でもそれだけじゃなくて――いつの間にか一段下の五線譜に言葉が増えていた。



 『すき 考えてくれた?』



 その言葉を見た瞬間、心臓が止まるかと思うくらいドキリとする。


 誰かがまた五線譜に「アイ」を刻んだ……。


 わたしは無言のまま、五線譜ノートを閉じると、慎重に教室内を見渡す。


 昼食を終えたクラスメイト達は、友達と喋ったり、本を読んだりと、皆思い思いに好きな時間を過ごしている。


 わたしを見ている人は誰もいない。


 今日は朝練の時間帯や移動教室などで、席にいない時間は結構あった。


 こっそり五線譜に書くことはできただろう……。


 でも、誰が何のためにまた書いたの?

 

 五線譜の文字が増えても刻んだ人の手掛かりは昨日と変わらず何もない。丁寧なその文字から、おそらく几帳面な人じゃないかとは思うくらい。


 どうしたものだろう? 

 

 何もしなくても五線譜に言葉が増えていく。

 

 増える理由は……


 わたしをからかっているから?


 わたしが何もしないから? 


 返事がほしくて?

 

 これが手紙のようなものなら何か伝えないと駄目なのかもしれない。わたしは今日刻まれた文字の一つ下の五線譜に返事を刻むことにした。



『いたずらはやめて』



 『すき』は笑えない。とても大切なことだから、だからこんなことは止めてほしい、わたしは期待してしまうから。


 わたしの心の中に秘めた想いと五線譜の『すき』が繋がって一つにならないかなと……。


 これは刻んだアナタは本当にわたしのことすきなの?


 わたしのどこがすきなの?


 わからないよ……。


 わたしは五線譜ノートを机にそっとしまった。

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