――第一線――(七月三日) 

 昨日の天気予報では梅雨明けしたと言っていたけど、空には重そうな黒い雲が広がり大気は蒸し暑く、動いていなくても汗が自然とにじみ出てくる。


 部活を終えたわたしはそのまま下校せず、教室に忘れ物を取りに戻った。


 夏の都大会予選に向けて練習は日々ハードになってきている。努力はしているけど、まだ先輩達についていくのがやっとで、疲労はピークだったりする。

 

 教室の自分の席でわたしは机に両手をつき、うつ伏せとなった。

 

「疲れた……」


 誰もいないせいか、ひとり言は自然にこぼれる。


 しばらくの間、両腕で作った暗やみの世界に留まることにする。体は動きたくないと言っている……と言うか動けない。


 ウトウトして、いよいよ意識が怪しくなったきた頃、瞼の向こうに虹がかかり、次に花が咲き、香りに包まれ、白く大きな雲が広がり……やがて雨音が地面を打つの感じる。


 わたしの中で新たなメロディーが生まれたのだ。

 

 それはキラキラと輝いているけど、すぐに五線譜に刻まないと流れ星のように消えてしまう。


 わたしはむくりと体を起こすと、机の中から五線譜ノートを取り出す。

 

 頭の中のメロディー再生ボタンと停止ボタンを交互に押すことを繰り返し、五線譜に一音ずつ刻んでいく。

 

 この時間はとても楽しい。

 

 ひょっとしたら今の方が、鍵盤を毎日弾いてたあの頃より音楽が好きかもしれない。

 

 当時は、発表会用の曲ばかり練習していて必ずしも好きな音楽ばかりではなかったから。


 わたしは夢中で、譜面に音を刻み、空白のページを音符で埋め尽くしていく。

 

(よしできた!)

 

 やがて今日分の新しいメロディーは譜面に余すことなく刻まれる。


 実際弾いてみたいとわからないけど、割と良い出来だと思う。


 わたしはそのまま満足感に浸っていると、ふいにノートの後ろ側、まだ何も書いてないページに折り目があることに気づいた。

 

 机の中で他のノートや教科書と重なった際についてしまったのかもしれない。


 直そうと思い、折れたページを開いてみるとそれは五線譜にひっそりと刻まれていた。



『すき』



 たった二文字でアイを表す言葉だった。

 

 特別な好意をあらわす言葉だから、誰かに向けて使う時は気を付けないといけない。恋愛に無縁なわたしでもそれくらいは知っている。


 でも誰が何のために刻んだのか?


 わたしに『すき』と伝えるため?

 

 ――そんなことある訳がない


 わたしは目立つわけでも、誰かの気を惹くようなものもがあるわけでもない。ここにある『すき』は偽物で誰かのいたずらに違いない。


「はぁ……」


 自然とため息がでる。


 初めてのこと、経験のないことをやらなければいけない時は気が重い。

 

 右手を胸の辺りで軽く握ってこぶしを作り、左の人差し指でその二文字をなぞった後、瞳を閉じ唇を軽く噛む。

 

 でも、いたずらじゃなくて……本当だったら? 


 僅かな痛みとともに、初めて逢った日のカノジョの笑顔が浮かぶ。


――もし、これを刻んだのがカノジョだったら……


 キーンコーンカーンコーン~♪


 最終下校時間十分前を告げる予鈴が急に鳴るから、思わずビクッとする。


 時間がない、今これ以上考えるのは止めよう。


 わたしは気持ちの整理が付かないまま、机の中に五線譜ノートだけを残し足早に人気のない教室を後にした。

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