クジラの唄

@peipei0726

第1話

クジラの唄


ぶおぉ〜〜〜ん

日常に割って入る突然の鳴き声。それは30人のホルン奏者が一斉に顔を真っ赤にして吹き鳴らしたような、胸を掻き乱す不協音だった。クジラだ、と思った僕は立ち止まって顔を上げると、ホームセンターの看板と信号機の間から、スクールバスほどのクジラがゆったり宙を泳いでこっちに向かってくる。日曜日の街頭に迷い込んだその異物は、人間の生活などてんで聞こえないとでも言うように、優雅に体をしならせて心地良さそうに泳いでいた。一畳ほどの尾ひれが空気を押し流し、そこから生まれた小さな竜巻が電線をわずかに揺らせると同時に、クジラは体をくの字に曲げて下降をはじめる。

落下地点は?反射的に僕はクジラの進行方向に目を向けると、すでにその予兆は現れていた。交差点でには右折待ちの乗用車が対向車線の流れが途切れずに、イライラしたようにエンジンをふかしている。その向こう、スマホを見ながら横断歩道を渡ろうとしている学生。両者が交わるであろう一点に向かってクジラは下降する。

ぶおぉ〜〜ん

ふたたびホルン奏者たちの大合奏。しかし、僕を除いて誰もクジラの声は聞こえない。町は変わらず平穏を装っていて、そんな日常に向かってクジラは頭から突っ込んでいく。やがて信号は点滅を始め、歩行者に気が付かない車が思いきりアクセルを踏み、三者は待ち合わせていたように交錯する。

ガッシャーン!

急ブレーキを踏んだ自動車は後輪を滑らせ、避けきれなかった歩行者はダミー人形みたいに弾き飛ばされた。手押し車のおばあさんは悲鳴をあげ、隣の喫茶店からはエプロンを着た店主がすっ飛んでくる。クジラは幽霊のように何事もなかったかのようにそのまま地面を通過して、ゆっくりと地中に潜っていった。

すでに救急への電話を準備していた僕は、走り寄りながら電話をかける。うめく歩行者はそれほど重傷でもないらしく、肩を押さえながら尻餅をついていた。次々と駆け寄ってくる道ゆく人々。

「大丈夫ですか?」

集まった人々に怪我人はか細い声で、

「すみません、スマホを見ていて…」

自分の怪我よりも罪悪感が勝るらしい。

「いや、クジラが…」

とは言えない。誰も信じないだろうし、信じたところで何になる?僕は淡々と救急センターの人に現在地を伝えた。


クジラを見るのはたのしかった。はじめて目にしたのは小学生の頃、学校の休み時間、校庭の上空に現れたクジラを発見した僕は、夢中になって追いかけた。学校を飛び出して住宅街に飛び込み、屋根の間に見え隠れする巨大な生物を見失うまいと必死に追った。しかし、細い路地をいくつか曲がったところでクジラは消えていた。代わりにあったものは、道路の上に転がっている自動車にひかれた猫。思わず駆け寄り、まだぜいぜいと喘いでいる猫を凝視した。下半身が潰れて血だらけの足がひくつき、頭はだらりとアスファルトに横たえている。しかし目だけは僕をじっと見据えていた。僕は立ったまま手をぎゅっと握りしめ、命が尽きようとしている小さな獣を微動だにせず観察した。筋肉、血管、内臓、骨。精巧に作られた身体がたった一瞬で破壊され、ぐしゃぐしゃになって、ぺったんこになって、それでも尚、生きようと懸命に足掻いている様に、目を背ける事ができなかった。あの時、僕を満たしていた暗い興奮はなんだったのだろう。

それからというもの、クジラを見かけるたびに僕は追いかけるようになった。クジラはいたる所に前触れなく現れた。上空に現れる彼等のシルエットは美しく、しかし恐怖でもあった。クジラの目はガラスでできているように微動だにせず、意識なく世界を見ている。彼等の目に僕が映ることはなく、いや、僕だけでなく街なんかまるで興味がないとでも言うように、ただ眼球の形をした装飾品を誰かが接着剤でくっ付けたという感じ。彼等のいく先には決まって災難が待ち構えていて、種々雑多の悲劇を撒き散らしては地中へと消えていった。一番多いのは交通事故で、次は病院。一度はビルに突撃したクジラを見たが、次の日のニュースでビルに入っていた会社が倒産した事を知った。

かつて僕がクジラを追っていたのは、はじめて見た猫に感じた暗い願望だけでなく、落下地点にいる人を助けたいという正義感も確かにあって、その相反する感情はマーブルチョコレートみたいに渦をつくって混ざり合い、自分でも何の感情で追っかけているのかよく分かっていなかった。とにかく噴水のように湧き出た衝動を、どこから来たのかも分からずに身を任せて駆けていた。しかし悲惨な光景は数見れど、人を助けたいという願望はついに果たされることはなかった。周りに「クジラが来るから早く逃げて」と訴えても誰も信じてくれなかったし、だったら別の理由でと、ああだこうだと子供なりに考えた嘘で人々を追っ払おうとしてみたが、悲劇は避けることができなかった。それもそのはずだ。僕が止めるべき相手はスマホ歩きの学生でも派遣切りの企業でもなく、クジラだったのだから。

目にしたあらゆる悲劇はクジラが原因だと分かりきっていたけれども、クジラが見えない人々は一生懸命に原因を考え出してはそのせいだと信じた。どうやったって不運でしかない悲劇であっても、自分のせいにしたり社会のせいにしたり、ひどいアイデアになると普段の行いがなんだとか運勢だとか、まるでトンチンカンな理由を作り出しては懸命に信じた。とにかく、原因がない事には我慢がならなかったのだ。少なくとも目に見えないクジラよりも、もっともらしい理由が欲しかったのだろう。

やがて僕は大人になり、クジラを見ても何もしなくなった。意識的にも無意識においても、理性の仕切りがついた箱に、どうしようもないものと、そうでないもの、善いもの、悪いものをそれぞれ放り込んで蓋をした。大人になるとはそういう事だ。…いや、もちろん目の前にクジラが突っ込んできたら、救急に電話くらいは掛けるけれども。


巨人が雲を吹き払ったみたいに突き抜けた青空の夏、そいつは現れた。買い物に行こうと電車に乗っていた最中、とんでもなく大きな鳴き声に僕は思わず飛び上がった。

ぶおぉぉぉぉ〜〜〜〜〜ん!!!

それは数十はおろか、数千人の顔が真っ赤なホルン奏者、いや、マーラーのどデカい交響楽団まるごと、もしくは100組のヘヴィメタルバンドが突然耳の中に飛び込んできたみたいに、僕のうたた寝をそいつは爆破した。さすがにちょっと言い過ぎたかもしれない。とにかくその鳴き声はとびきりに大きかったって事だ。もちろん他の乗客には聞こえないから、壊れたゼンマイみたいに跳ね起きた僕は羞恥を晒す羽目になったが、そんな事はどうでもよかった。すぐさま電車の窓から外を見ると、これまで見てきたクジラの比にならないくらい、馬鹿でかい怪物が上空に浮かんでいる。あいも変わらずいくつかの物理法則を無視したその巨体は、大型ショッピングセンターがまるごと移動しているような壮観で、数キロにおよぶ影は電車をまるごと飲み込んでいた。しかも運が悪いことに、そいつは僕の乗っている電車と並走している。

次の駅に電車が止まると、巻き込まれてはたまらないと電車を降りた。日光に晒された途端に吹き出た汗を拭いつつ、ホームに立って空を見上げると、快晴をバックに怪物は気持ちよさそうに遊泳している。あまりに大きな図体は雲をまとい、まとった雲はやがて箒で払われたみたいに散り散りになる。尾ヒレをひるがえすたびに産まれた雲が、青でしき詰めたキャンバスのど真ん中を区分けるように頭上を横断していた。あのクジラの行先は…、人口の多い駅周辺あたりだろうか?おそらく、大惨事を引き起こすだろう。大規模の火災とか、工場が吹き飛ぶとか、飛行機が落っこちるとか、想像もしたくない。

僕は反対車線の電車に乗り、来た道を引き返した。窓の外には遠ざかっていく怪物の後ろ姿が見える。

ぶおぉぉ〜〜ん

思わず顔を背けた。

僕のせいじゃない。僕には大惨事を救えない。ぜんぶクジラが悪い。分かっているが、気持ちは落ち着かなかった。僕は引き返してよかったのだろうか?しかし、助けに行っても何もできない。何もできないと言い聞かせる。分かりきっているじゃないか。くよくよ悩む必要なんてない。しかし、それでも、このまま逃げて良いのだろうか?そんな僕を嘲笑うかのように、クジラの目線を背中に感じる。ガラスの目が微動だにせず僕を見ている。冷房の効いた車両にかくまわれ、ひたすらに下を向く僕を脅迫するように。アスファルトに横たわる猫も、身体を痙攣させながらじっと僕を見つめている。”こっちを見ろ”と、死んだ目の奥に子供の頃の僕を宿して。

だめだ。僕は意識を振り払った。考えたくもない考えを振り払った。僕が恐れたのは、ほんとうに悲劇なのだろうか。それとも僕は傲慢で、恐れたのは他人の悲劇なんかじゃなくて…。とにかく、振り払った。

明日のニュースを見れば、これから起こる惨事が分かるだろう。そこにはどこかの企業のせいだとか、パイロットのせいだとか、整備不良だとかなんだとか、ありもしない理由が書き立てられている。クジラと僕の名前はどこを探しても見当たらない。とにかく、明日のニュースは見ないようにしよう。イヤホンを取り出しながら考えていた。

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