第11話
「死なせてください、後生です」
「待て、落ち着け、俺の話を聞け」
「これで生きて行く事など出来ましょうか。お家が断絶し、その上に、お奉行様に引き立てられて、生き恥を晒す事など、どうして出来ましょう」
頼方がたえの肩を両手で押さえて、無理やり座らせた。
「だから、まず、俺の話を聞け、お縄になどしない」
たえが全身から力が抜けるように、ガクッとへたりこんだ。
「私を、お縄に、なさらないのですか・・」
頼方が頷きながら、たえから手を離して、ゆっくりと座った。
「しない。だから、まず、俺がここに来た訳を聞け。話はそれからだ」
たえが息を整えるように、数回深呼吸をした。頼方がその様子を見ながら、少し離れて座り直した。たえも姿勢を正して座り直した。
「まずは、そなたが柴田家のお家存続の願いが通らなかった知らせを聞いて、早まったことをしないだろうかと心配で来たのだ。案の定、この通りだ」
たえが下を向いた。
「まあ気持ちはわからないでも無い。どうしても、というのなら、俺は止めない」
たえが顔を上げた。
「それでは・・」
頼方がジッとたえを見据えた。
「だが、一日待て。それからでも遅くないだろう」
たえがジッと頼方を見詰めた。不安と期待が交錯するように、目が微妙に動いた。
「今日、此処に来たのは、こっちの方が本題なのだが、明日、俺が井伊直弼に直談判する。柴田家を存続させるように頼み込む。だから、一日待て」
たえがハッとしたように目を見開いて頼方を見た。それを受けて、頼方が力強く頷いた。
「その結果を、明日、俺がまた此処に来て、そなたに知らせる。死ぬのなら、それからにしろ」
「お奉行様からお頼みいただければ、柴田家が、存続されるのですか・・」
「それは、わからない。何とも言えない。難しいのは確かだ」
「それではなぜ、そこまでしてくださるのですか・・」
「いや、これは、むしろこっちの都合なのだが」
町奉行頼方としては、幕臣殺しの下手人を挙げることは何を置いても重要であった。しかし、たえが奥田を殺したとは思っているが、それを証明するものは何も持ち合わせていない。あくまでも、憶測の域を出ていないのだ。
確実なものがなければ、さすがに、下手人と決めつけることは出来ない。
「それで、そなたに取引を申し入れたいのだ」
「取引、ですか・・」
「俺が明日、井伊に柴田家存続を認めさせたら、そなたも、正直に、奥田を殺したのなら、それを認めて欲しい。どうだ、悪い条件では無いと思うが」
たえがジッと頼方を見た。
「それでも、柴田家存続が認められなかった場合には、どうなりましょう」
「死ぬなり、逃げるなり、好きにすれば良い。こちらが出した条件が整わなかったのなら、取引が成立しないからな」
たえにとっては、暗闇で、微かな灯りが見えた想いだった。自分がもがき苦しんでいる時に、スッと差し出された助けの手のようにも感じた。
ただ、これまで、たえは期待して信じたものに何度も裏切られてきた。それゆえ、懐疑心は人一倍強くなっている。この町奉行の言葉をそのまま信じて良いのか、という疑いの念も湧き上がっていたが、頼方の言い方には、それらを払拭する裏のない真っ直ぐな想いを感じさせる響きがあった。
一日の淡い夢だとしても、たえはこの男に賭けようと決意した。
たえが両手をついて頭を下げた。
「お奉行様、わかりました。よろしくお願いいたします」
「では、明日」
頼方が立ち上がった。そびえ立つような大きな体でたえを見下ろし、頷くと、大股で部屋を去っていった。
井伊直弼を説得出来るかといえば、流石に頼方としても自信は無かった。むしろ、たえにも言ったように、難しい、というのが本音だ。理屈では到底太刀打ちできない。かといって、情に訴えて通るような相手ではない。
さて、どうするか。
柴田家の門を出たところで、頼方は足を止めた。
「まいったなぁ。此処は少し、知恵を拝借するか」
頼方は、おもむろに体を反転させて、お真美の茶屋に向かった。
何処かで猫が鳴いている。
お真美が頼方に酒を注いだ。
「ふーん、それで」
頼方がグイッと一気に杯を開けた。
「井伊直弼を説得出来るような、何か良い方法がないかと思ってね」
「普通は、そいつの弱みを握って、そこを突くわよね」
お真美が手酌でグイッっと酒をあおった。
「まあ、それはそうだが、さすがに幕府の高官ともなれば、そう簡単にはいかない」
井伊直弼は、彦根藩主としては藩政改革を断行し領民から慕われ、幕政に参画するようになると、有力藩主で構成される溜間詰の筆頭となり、その存在は、各老中も一目置くまでになっている。事実、各老中が賛意を示す案件であっても、井伊が異を唱えれば、途端に頓挫していた。それを、老中首座の阿部でさえ説得できずにいる。
頼方が猪口を持つと、お真美が酒を注いだ。
「今の井伊に、弱みなどあるかなぁ」
「誰にだってあるでしょうが」
「では、何故、各老中は、そこを突いて井伊を説得しないのだ」
「無能なだけよ」
猪口を持った頼方の手が止まった。少し考えて、おもむろに、それを口に運んだ。
「そうとは思えないが・・」
お真美が手酌で酒を注いで一気に開けた。
「幕府のお偉方が無能でないなら、何でこんなに世の中が乱れているのよ」
「そりゃあ、幕府も諸藩も、それぞれ思うところがあり、譲れないことも多い。庶民同士でも同じだろう。常に揉め事はある」
「そうやって言い訳ばかりしているから、何事も進まないのよ」
「うーん、確かに、そういう言い方も出来るか・・」
その時、襖が開いて、神宮が顔を出した。
「奉行、お楽しみのところ失礼します。牧野様が奉行に御用があるとのことで、こちらにお連れしました」
「何、次席が」
中年の小柄だが眼光の鋭い男が入って来た。老中牧野忠雅である。この時、老中としては首座である阿部に次ぐ位置にあった。越後長岡藩主で、寺社奉行や京都所司代を歴任している。阿部からの信任が厚く、牧野も幕政においては常に阿部を支えていた。
「あーら、噂をすれば何とやら、幕府のお偉いさんですか、これは、このようなところへお越しいただいて。さあ、まずは一杯、どうぞ」
お真美が、いそいそと牧野に近付いて徳利を差し出した。それを牧野が右手をあげて遮った。
「酒を飲みに来たわけではない」
お真美がムスッとして徳利を膳に置いた。頼方が手に持った猪口を置いて、姿勢を正した。
「いかがいたしましたか」
牧野が頷いた。
「池田殿、明日、溜間詰筆頭のところに行くということだが、どのようなご用件で行かれるのかを伺いたい。実は、首座がこの件を小耳に挟んで、拙者に確かめてくれとのことで」
「ほう、阿部さんが」
「左様。ご案内の通り、今、幕閣は攘夷派と開国派が対立して、上層部は神経質になっている。この上、何か町奉行所掌に関する揉め事を持ち込まれては、更に混乱するのでは、とご心配なのだ」
「なるほど。そのお気持ちはごもっともですなぁ」
「で、どのような案件でござるか」
「実は・・」
頼方がこれまでの経緯を説明した。
内容がわかると、堅苦しく身構えていた牧野の態度が和らいだ。
「そうでござるか、まあ、そうであれば、揉めるようなことは無いな」
すかさずお真美がスッと寄って、徳利を差し出した。
「お話が済んだところで、さあ、どうぞ」
牧野が注がれた酒を一気に飲むと、美味そうに頷きながら満足げな笑顔になり、フーと息を吐いた。お真美がまた酒を注ぐ。牧野がまた一気に開ける。
牧野の顔がやや赤くなった。
「しかし、池田殿、そのような事をあの筆頭に頼んでも、一蹴されて終わり、ということになりかねないぞ」
「そうなのだが、断られたからといって、すごすごと引き下がるのもみっともないので、何か、攻め手が無いか考えていたところでござる」
「弱みを握ってそこを突けば、と言っていたところなのです」
お真美がそう言うと、牧野が猪口を持った手を止め、しばらく考えていた。
「弱みがあれば、それも良いが、下手をすると逆に筆頭の怒りを買ってしまいかねない。仮に、拙者であれば、むしろ、強みにすがるだろう」
「強みにすがるとは」
「情け容赦がないとはいえ、筆頭とて人の子、全く話のわからないお方という訳でも無い。しかも、自尊心も人一倍強い。使命感の塊のような方だ。そういうところを、利用するのが得策ではないかな」
頼方が身を乗り出した。
「牧野様であれば、どう攻めますか」
牧野が首を振った。
「いや、急に言われても、直ぐには思い浮かばないが・・」
お真美が牧野に酒を注いだ。牧野がゆっくりとそれを開けた。
「とにかく、説得の策を練る前に、相手を知ることだ。まずは、拙者の知る筆頭の生い立ちから性格までを教えて進ぜよう。それを持って、一晩考えてはいかがか」
頼方が姿勢を正して頭を下げた。
「かたじけない。お願い致す」
お真美が立ち上がった。
「これは長くなりそうね。お酒を持って来ますね」
何処かで猫が鳴いている。
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