第12話
溜間(たまりのま)とは江戸城黒書院に隣接する控えの間で、ここに席を持ち詰める大名を溜間詰(たまりのまづめ)と呼んでいる。
席が与えられるのは有力大名に限られ、概ね五、六名である。構成する大名は時により変わるものの、彦根藩井伊家、会津藩松平家、そして、高松藩松平家の三家は常に席を持つ常溜(じょうだまり)とされている。
格は老中と同等で、将軍の顧問という立場から幕政にも参画する。
この時、その筆頭が井伊直弼である。
「失礼いたす。町奉行池田播磨守頼方で御座います」
頼方が部屋に入り頭を下げた。
奥に座っている井伊が、手に持った書類に向けていた視線を上げて頼方を見た。
「町奉行が儂に何の用事だ」
「お願いがあって参りました」
井伊が手に持った書類を、ポイと前に放り出した。
「腹を切った幕臣のお家存続のことか」
頼方が驚いた顔で首を振った。
「いやぁ、よくお分かりでございますなぁ」
井伊がフンと鼻で笑った。
「そのような事を事前に調べることが出来なくて、大名など務まると思うか」
「確かに、御もっともでございます。恐れ入りました」
「誰かが会いたいと申し出て来たら、その目的を探り、事前に出来る相応の対応をする。それが、この世の中を生き残っていく上で、必要なことだ。会った時には、既に用件は終わっている。そういう訳だ。無駄足だったな」
井伊がまた書類を手にして、それに目を落とした。
頼方がグイッと井伊に近寄った。
「お待ちくだされ、まだ、何も話しておりません」
井伊が顔を上げた。
「儂は既に答えを申しておる」
「その上でのお願いでござる」
「しつこいな」
「しつこくなければ、町奉行は務まりません」
「何度話をしても、答えは変わらぬぞ」
「話した上で、そう言われるのなら、致し方ありません。ですが、何も話さぬうちに諦めて帰る訳には、流石に参りません」
井伊がニヤリとした。
「なるほど、それも理屈だな。会うと言ったからには、少なくとも話だけは聞くか。良いだろう、話してみよ」
「ありがとうございます」
頼方がまた少し近づいて姿勢を正し、語り出した。
井伊は時々目を閉じながら、退屈そうに聞いていた。
「とまあ、そういう訳でございます。ぜひ、柴田家の存続を認めていただきたい」
「つまり、町奉行の手柄のために、この儂に、折れろと申すか」
「こちら側の理屈としてはそうなりますが、筆頭にとっては、また別の意味を持つことになると思われます」
井伊が表情を引き締め、鋭い視線を頼方に向けた。
「どういう事だ」
「物事を情け容赦なく理詰めで判断する、温情など持ち合わせていないのでは、というのが筆頭に対する世間の評判でございます」
「それがどうした」
「仮に今回の事で、柴田家の存続をお認めいただいたならば、いや、そうではない、厳しい面は確かにあるが、時に、人の心に響く温情ある判断もなさる、という評判になりましょう」
「だから」
「確かに、幕府創設以来の重大な不始末をした幕臣ではあるが、本人は腹を切って責を負っているのだから、これまでの忠義に照らせば、せめて、遺族の願いは叶えてやるのが、上に立つ者としての思いやり、正に将として相応しい。必ずやそう評価されましょう」
「評価、だと」
「はい」
「誰が評価するのだ」
「勿論、譜代大名の方々で御座います」
井伊は眉毛をピクリと動かせ、身を乗り出した。
「やつらが、何故に、儂を評価する」
頼方がさらに近付き、声をひそめた。
「この幕政の混乱ぶりを、譜代大名の方々も指をくわえて見ている訳ではありません。水面下では、打開策を巡って様々な動きが御座います」
「うむ、存じておる」
「その中で、幕閣の体制を変える動きも御座います。つまり、政が混乱するのは、老中と有力藩主の合議を基本とする今の体制のため。同等の者が言い合っていては、何事も決まらぬ。これでは、混乱は治らない。この際、大老を置いて、そこに権限を集中させて難局にあたらねば、という方向に譜代大名の方々は動いているとのこと」
井伊がゆっくりと上体を起こした。
それを受けて、頼方が頷いた。
「既に、仕切りにその候補の名も挙がっているとも。堀田様や福井の松平様、そして、当然ながら筆頭の名も挙がっております。ここで、譜代大名の方々に、良い印象を与えておくことが、この件における筆頭にとっての、重要な意味で御座います」
井伊がジッと頼方を見据えた。
「なるほど。話は、とりあえず聞いてみるものだな」
頼方がニヤリとした。
「我らにとっても、筆頭にとっても、双方に良い結果になると思われます」
井伊が大老に就任するのはまだ先になる。
なお、余談ながら、誰を大老にするかについては、将軍家定の後継問題や開国派と攘夷派の主導権争いも絡み、複雑な経緯を辿ることになる。
譜代大名の意見は福井藩の松平慶永(春嶽)にまとまり、老中の堀田が将軍家定に進言するが、そこで家定はその進言を覆し、大老は井伊にするよう命じる。
「家格そして人物からしても大老は掃部頭(井伊)をおいて他にないだろう」
この家定の言葉を受けて、急転直下、井伊自身にも何も知らされぬままに、大老が決することとなった。家格としては確かに井伊家が上であるが、人物としては意見が分かれるところであろう。
いずれにせよ、これは幕末の日本の行方を大きく左右する人事となった。
頼方が部屋を出て行った。
井伊にとっては、当初予想したものとは全く違う印象を持つ話の内容となった。
この国の行く末を想う気持ちは人一倍強いと思っている。さらに、先々を見越して物事を思考することについては誰にも負けぬ、そう自負している。
そこを、たかが町奉行風情が、巧妙に突いて来た。
大老という、どこか少し離れた空間に漂っていたものが、今、しっかりと井伊の脳裏に刻まれていた。
「池田播磨守頼方か、使える奴だな」
井伊直弼の翻意により、柴田家の存続が認められた。
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