第10話

「幕府創設以来の大きな汚点となるほどの重大な誤りを犯した者の家に、温情の沙汰など持ってのほか、まかりならぬ。ということらしい」

「他の老中の方々はどうなのだ」

「皆、柴田家の存続に異存は示されなかった」


「つまり、井伊だけが反対したのか」


「うむ。予想は出来たことではあるが、やはり厳しいお方だ」

「そうか。で、阿部さんは何と」


「阿部さんは穏当な方だ。お家存続に理解は示しても、反対する井伊を説得してまで、という気は無い。井伊の意見が通った形だ」


 勘定奉行川路が頼方に、柴田家存続に係る沙汰が降りたことを話している。


 溜間詰筆頭井伊直弼の反対により、存続は認められなかった。


 この日、幕府のとある筋から、柴田家存続案件の沙汰が降りたらしいという話を聞いた頼方は、その内容を確かめようと川路を訪ねたのだ。

 昨日、老中詰所に呼ばれた川路は、その内容を告げられた。予想出来たこととはいえ、やはり落胆した。部下であった者が、切腹させられた上にお家断絶とは、上司としても断腸の思いだ。


 頼方が深いため息を吐いた。この話は、川路と同様に難しいだろうとは思いつつも、あるいはと期待していただけに、頼方もまた落胆を禁じ得なかった。


「柴田の奥方は、さぞやがっかりするだろうな」

「うむ。今、家内が柴田家に行って、状況を説明している。正式には俺が出向くべきなのだが、気が進まぬので、家内に頼んだ」

「女同士で、色々と相談できるから、むしろその方が良いのではないか」

「家内も、今後のことを含めて、話をしてくると言っていた。とにかく、こうなったからには、柴田の奥方には出来る限りのことはさせてもらうつもりだ。家内にも、そこは良く親身になって相談に乗るように言ってある」


「ああ、俺からも、そう、願いたいところだが・・」


 川路が怪訝な顔をした。

「何かあるのか」


 頼方が前屈みになって声をひそめた。

「例の奥田殺しの件、どうも、柴田の奥方が怪しい」


 川路が目をむいた。

「何だと、確かなのか」


 頼方が頷いた。

「確たるものは無い。だが、状況からして、柴田の奥方以外に、奥田を殺す理由がある者がいない」


 頼方がこれまでの状況を語った。


 川路が顔をしかめながら腕を組んだ。

「確かに、奥田ならやりかねない。あの女好きならばのう。それで一年近くも体を弄ばれて、挙げ句に、頼んだ話が全く上がっていなかったとなれば、殺意を抱くのもうなずける」

「柴田の奥方も、奥田の屋敷に何度も行っていたことは認めた。しかも、夜中に」


 川路が声をひそめた。

「それで、どうするつもりだ」


「確たるものがなければ、しょっ引いて吐かせる、という事は、さすがに出来ない。だが、このまま何もしないという訳にもいかない。幕臣が殺されたのだからな」

「それはそうだが、俺は、柴田の奥方に同情する」


 頼方が大きく頷いた。

「うむ。確かに情状の余地はある。自ら、名乗り出てくれて、反省の言葉があれば、相応に考えるのだが・・」


 頼方としても、川路以上に、たえには同情を禁じ得なかった。女としての尊厳を踏みにじられた上に、それを我慢するための願いであったお家存続が認められなかったのだ。


 しかし、どういう理由があったにせよ、人を殺して良いという道理は無い。町奉行がこれを見逃しては、世間への示しが付かないだけでは無い。市民同士の揉め事による私刑を、幕府が認めることに繋がりかねない。

 あくまでも、たえが自分の犯した罪を認め、それを反省することが、情状を酌量する条件になる。そうでなければ、厳しい対応をせざるを得ない。


 ただ、これ以上たえを追い込むことは避けるべきである、という思いは頼方にあった。


 その頃、川路の奥方エツが、柴田家を後にした。


 たえにとっては予想もしない結果だった。

 楽観していたという訳では無いが、大いに期待していたのは確かだった。これまで、家を存続させる今後の段取りだけが頭にあり、認められなかった場合のことなどは、全く考えていなかった。


 それだけに、エツの最初の言葉が耳に入った瞬間に、頭が真っ白になった。その後の話は、それが一刻も続いたのだが、何も頭に残っていない。エツの必死に話す顔だけが目に焼きついただけだ。


 エツを見送った後に、部屋に戻り、今後、自分はどうなるのかを思った。


 柴田家がなくなり、全ての望みが断たれた訳だ。その上に、自分の身に起こった屈辱に耐えながら生きていくことなど、どうして出来ようか。


 柴田家が存続され、自分と奥田とのことが世間に知れることがなければ、まだ、秘事を抱えて生きていけるかも知れなかった。しかし、一年近くも自分が奥田の屋敷に、しかも夜中に出入りしていたことが、奉行所の知るところとなっている。そこで何があったかなどは、いくら自分が取り繕っても、いずれ、世間に知れ渡るだろう。


 もはや、何もかもが崩れてしまった。混乱した思いから、徐々に落ち着きを感じていた。自分のとるべき行動が見えて来たのだ。残された道は、自ら命を断つことだった。


 たえは智央の仏前で手を合わせた。

「申し訳ございません。柴田家は断絶してしまいます。この上は、死んでお詫びをいたします。お許しください」


 誰かを恨む気持ちも無かった。仮に、奥田が直ぐに話を上げても、結局、同じ沙汰が降りたのであらう。であれば、どう事を運んでも、結果は同じだったのだ。


 たえは短刀を手にした。


 その時、廊下を近づいてくる足音がした。たえは短刀を懐に隠した。下男の声がした。

「奥方様、奉行所のお役人様がお見えです」


 たえは迷った。役人が何の用事なのか。もし、自分をお縄にするために役人が来たのなら、その前に自害すべきなのだ。


 再び、懐から短刀を取り出した。


「あ、お役人様、お待ちください・・」


 下男の声と同時に、襖がザッと開いた。


 大男が素早くたえに近づいて、短刀を持った手を抑えた。

 男は直ぐに短刀を取り上げて、低いドスの効いた声で叫んだ。


「町奉行池田播磨守頼方だ。早まるな」


 たえは呆然として頼方を見た。

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