第9話
柴田の屋敷に向かう少し前、神宮はある男と会った。
以前にお縄にした小悪党で、その後何かと面倒を見ながら、聞き込みや頼みごとをしている男だ。顔が広いことで、結構、美味い話を運んで来てくれる。
柴田の奥方が捜査の対象に浮かんできた頃、その周囲の聞き込みを頼んでいた。
とある寺の境内に入ったところで、男が待っていた。神宮は紙に包んだ金を渡した。男はペコリと頭を下げてにこりとした。
「で、どうだった」
「へい、周囲に知り合いも少なく、あまり出歩くことも無いので、結局、使用人だけの話ですが、この一年近く、夜中に屋敷を抜け出すことが何度かあったようです。帰りは朝方。使用人には、何も言わずに出かけています」
「使用人は見ていたのか」
「夜中に出ていくところと、朝に帰って来た時は、見かけることがあったようです」
「その事で、奥方は何か言っていなかったか」
「一度、夜中に出ていく時に声をかけた使用人には、急な用事で実家に行くとか。あと、朝にばったり出会した使用人には、眠れなくて散歩をして来たとか」
「どれくらいの割合だ」
「毎回見ていた訳ではないらしく、確たる回数は分かりませんが、少なくとも、月に一、二度はあったのでは、という感じのようで」
屋敷の使用人に小銭を渡して聞いたので、まず間違いは無いと言う。日中は、ほぼ毎日のように浅草の観音様へお参りに行っている。これは、行き先を告げていた。
「そうか、ありがとうよ。また頼む」
神宮がまた金を渡すと、男は周囲を警戒するように去っていった。
柴田の屋敷は溝口町の一角にある。禄高千石といえば旗本の名門の部類に入る。智央の死による無役となったことで、いずれはこの屋敷も明け渡すことになるが、しばらくの猶予が認められていた。
大きな門構えと広い屋敷に使用人も五人と多く、暮らしを維持するのに苦労する毎日だが、たえの実家である磯野家からの支援もあって、何とか持ち堪えていた。
お家存続に目処が立てば、いずれ屋敷を明け渡し、柴田家は狭い屋敷に移り、慎ましい生活になるだろう。婿殿が、それがどのような男かは知らないが、いつか、お役にでも付いてくれれば、また、こうした広いお屋敷に住むことも出来よう。
いや、屋敷などどうでも良い。柴田家が存続してくれさえすれば、たえにとっては満足であった。
話が老中に上がったのであるから、その沙汰も、そう遠くない時期に降りるだろう。勘定奉行の奥方エツからは、早ければ、十日もすれば状況が分かるのでは、という知らせが来ていた。
町奉行所の動きも無かった。あるいは、大丈夫ではないか、そういう期待も芽生え始めていた。
廊下を慌てて近づいてくる足音がした。下男の声がした。
「奥方様、町奉行所の役人が見えております」
来たか。たえは覚悟を決めた。襖を開けると、下男が不安そうにたえを見上げている。
「客間にお通ししなさい」
へい、と言って、下男が去っていった。
たえが客間に入ると、神宮が頭を下げた。
「町奉行所同心の神宮と申します。先日の、勘定奉行組頭奥田殿が殺された件で、折りいって話を伺いしたいことがありまして」
たえが神宮の対座に座った。
「何でございましょうか」
たえは表情一つ変えずに、神宮にまっすぐ視線を向けている。慌てるだろう、と思った神宮の読みが外れた。
例え、この件と無関係であったとしても、殺しのことで奉行所の役人が話を聞きに来たとならば、誰であれ、相応の戸惑いはあるはずである。神宮の思惑に迷いが生じた。
「その・・、柴田家のお家存続の話を、上役の奥田殿に相談していたという話がございまして、そのことは、間違いありませんか」
「はい。御老中様へお話を上げていただくように、お願いしておりました」
「どのような話になっていたのですか」
たえが肩の力を抜くようにやや視線を下げて、経緯を語り出した。
たえが語った内容は、出かけた状況については、概ね、使用人らの話と同じだった。奥田から呼び出しがあると出かけたという。話は、お家存続の内容で、状況がどうなっているのかが中心だった。
内容が内容だけに、奥田からは他言無用という指示もあり、使用人たちにも内緒にしていた。時刻は、先方が指定して来たもので、従わざるを得なかった、と語った。
「そういった話を、わざわざ夜中にするとは、やや不思議な気がしますが」
「そうですね。それは、私も思っておりました。ですが、奥田様に言わせると、この時刻でないと、ゆっくりと話も出来ないということでした」
「どういう事ですか」
「奥様が起きている間は、屋敷で女と会うことなど出来ない、という事情だそうです」
神宮は奥田の奥方の顔が思い浮かび、妙に納得した。茶屋女にはある程度目をつむっていたとしても、部下だった者の奥方と屋敷で何度も会うなど、知れたら大事になったのは間違いない。
「それは、そうでしょうなぁ・・」
たえの表情が緩んだ。
「奥様をご存知なのですか」
神宮は肩の力が抜けて、フウと息をはいた。
「ええ、先日、話を聞きに行きまして、散々やり込められました。きついお方でした」
「私も何度かお話をさせていただきましたが、とても厳しいお言葉ばかりで、打ち解けることが難しくて」
神宮が身を乗り出した。
「そう、そうなのです。このような普通の会話が出来ないのです。何を聞いても、突き放すような言葉が帰って来ましてですね、そりゃあ、苦労しました」
「お役人様に対しても、そのような感じなのですか」
「ええ、まるで親の仇に対するように、睨みつけられまして。そりゃあ、キツイ顔で。こっちが悪い事をしているのか、と思うほどでした」
「ご苦労が多いのですね」
たえが同情するように憂を含んだ目で神宮を見た。惚れ惚れするような整った顔立ちに、色気を含んだ眼差しが、神宮を思わずゾクゾクとさせた。
「あ、いやあ、お勤めですから・・」
神宮が照れ臭そうに笑いながら、薄くなった頭に手を当てた。
「お勤めとはいえ、嫌な思いをなさるのは、辛いことです」
たえの視線を感じながら、神宮は、日々の苦労が癒される思いが湧き上がって来た。
家では、奥田の奥方ほどとまではいかないが、頭が上がらない口うるさい妻にやり込められて、奉行所では、何かと細かい上司の指摘に窮する毎日である。優しい言葉をかけてくれる者など居ない。心の休まる時も無い。
殺しの下手人では、という疑いがある女が、ここまで自分の苦労を親身になって慰労してくれるとは。しかも、その言葉と態度には、何ら不自然さは無かった。これでは、情が移っても不思議は無い。
神宮に複雑な思いが交錯し出した。
この女が人を殺すはずなどない、と思いたい気持ちと、仮に下手人であったとしても、無事に逃げおうせて欲しいという思いだ。
役人としてはあるまじき身勝手な思いだろう。だが、人としては間違った感情では無いとも思えた。せめて、この女が望んでいる柴田家の家存だけは叶って欲しい。そう願うことに、何の後ろめたい気持ちも無かった。
一通りの聞くべきことを聞いて、殺しに直接結びつくような話は聞き出せなかった。
神宮は胸を撫で下ろした。
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