第2話

 銀幕町の茶屋にも朝が訪れた。


 雀のさえずりが耳に入り、播磨守頼方(はりまのかみよりまさ)は眼を開けた。障子戸が朝陽に照らされていた。

 あいにく、爽やかな目覚め、という訳にはいかなかった。

 酒が残っているのか頭がズキズキしている。寝起きの一服をしようと煙草盆に手を伸ばしたが、体が思うように動かず、手が届かない。


 見ると、下半身には、隣でいびきをかいて寝ているお真美の足が絡んでいた。両手で退かせようとしたが、太い足が動かない。布団の中でモゾモゾと四苦八苦しているところで、ザッと襖が開いた。


「奉行、お取り込み中のところを失礼します」


 同心の神宮燕五郎(かんみやえんごろう)が顔を出した。頼方はあごを突き出し気味に顔だけ神宮に向けた。


「おう、あるるか」


 神宮は相槌を打つときに「ある、ある」と言うのが口癖だが、早口であるため「あるる」と聞こえることから、皆からそう呼ばれていた。中堅格の同心で、何事を行うにも慎重ではあるが、押しが弱いところがあり、周囲からはやや物足りない印象を持たれている。

 一方で、同僚の役人が警戒するような強面のヤクザ者にも、何ら臆することなく、顔色一つ変えずに近づくような、側からは無神経と映るような度胸も持ち合わせていた。

 剣には自信がある、と良く口にしているが、その腕前を見た者はいない。


「勘定組頭の奥田源右衛門が殺されました」

「何だと」


 頼方がお真美の足を両腕で抱えたまま上体を起こした。

「いたたぁ、痛いよぅ、何をするのよ」


 お真美がガバッと起き上がって頼方の頬を平手で叩いた。パチンという音が部屋中に響くと、頼方は頬を左手で押さえた。


「いたぁ・・」


 お真美が顔を顰めて股の辺をさすっている。艶かしい赤い寝巻きが朝陽に照らされて眩しく、神宮は思わず顔を背けたが、視線だけはしっかりそこに向いている。

「股が裂けたかと思ったじゃないの」


 お真美はこの茶屋の女だ。店は酒と料理を売りにしていて、彼女はもっぱら客の相手をしている。見た目は童顔で、いつもこざっぱりした雰囲気なのだが、いざ話をすると気性が荒く、感情を遠慮無く表情と言葉に出すため、周りの男たちは敬遠していた。酒がめっぽう強いのも、男が引いてしまう理由になっている。

 だが、頼方は気に入っていた。勘が鋭く発想が斬新で心を惹かれるものがあった。そして何より、誰もが奉行である自分に気を使い慮る中、お真美だけは遠慮無く意見してくれるのが嬉しかった。

 お真美に頭ごなしにやり込められている時、頼方は、ふと幼い頃母親に叱責されていたときの郷愁を覚えることがあった。母とは、女とは強いものだ、と幼心に染み込まれた体験が、このお真美の強い言葉により、懐かしさと共に顔を覗かせるのだった。

 膝枕で耳を掃除してもらっている時には、その母の温もりも胸をよぎった。


 それゆえに、ここに泊まる事が度々だった。


 神宮がオドオドしながら頼方に顔を向け、小声で囁いた。

「あのぅ・・奉行、それでは奉行所でお待ちしています。出来るだけ早めにお願いします」


 お真美がキッと睨むと、神宮は慌てて襖を閉めた。

 何処かで猫が鳴いている。


 半刻ほど後の奉行所。既に陽が高くなりつつある。

「今朝方、奥田源右衛門が中々起きて来ないので、下男が離れに起こしに行って、死んだ源右衛門を発見しました。首を二箇所、背中を三箇所刺されていました。周囲は血の海で、部屋から縁側を通って、裏門へ続く庭には足跡らしき血の跡がありました。殺した者は裏門から出て行ったようです」


 一通りの状況が神宮から説明された。頼方が頷いて煙草盆に手を伸ばした。

「奥田は何故離れに寝ていたのだ」

「下男の話によると、時々、そういう事があったようです。割合としては、月に五、六回ほどです。必ず、酒を用意させて、裏口の鍵は閉めないように言付けております」


 頼方が煙管に煙草を詰めた。

「女か」


 神宮が頷いた。

「はい。確かに、血の足跡も明らかに女のものです。まあ、奥田殿は女好きで噂が立つほどでしたから、月に五、六度は、むしろ下男が少なめに言ったのではと思われるほどです」


 頼方が煙管をくわえながら火鉢に顔を近づけ火を付け、フッと煙を吐いた。

「どのような女を呼んでいたのだ」

「茶屋筋が多いようですが、様々でしょう」

「茶屋の女を呼ぶくらいなら、そこに泊まれば良いのに」

「ああ、それは、奥方が許さなかったようです。外泊しようものなら、大変な事態になっていたと下男が言っていました。今朝、私も奥方に話を聞きましたが、いやあ、見るからに気が強そうな方でした」

「お真美のような女か」


 神宮が少し上を向いて首を傾げた。

「いやあ、あそこまでは・・まあ、いい勝負でしょうか」


 頼方が肩を落とし、上目遣いに神宮を見ながら煙管を口から離すと、ゆっくりと鼻から煙を出した。


「そうか、奥田も苦労していたんだなぁ。まあ、そうだとすると、呼ばれた女は、何故奥田を殺したのだ。揉め事などは聞いているか」

「店や女に金を払っていないという話は聞いていません。奥田殿と親しい方々の話によると、奥方が財布を握っているらしく、奥田殿の宴席などでの羽振りは決して良いとは言えないそうですが、かといって金に汚いというほどではありません。その関係の揉め事とは考え難いです」


 頼方が首を傾げた。手を出して、親指から順に折っていった。

「それで、月に五、六度は、かなり安い女を呼んでいたのではないか。俺がお真美に払っている額などは安くしてもらっているから・・まあ、俺の事はどうでも良いか。あるいは、金のかからない部類とか」


 神宮が戸惑ったように怪訝な顔をして、眼をパチパチと瞬いた。

「金のかからない、とは・・」

「金を払わなくても来てくれる女だよ。惚れている女なら金など取らないだろうが。あとは、まあ、そうだな・・」


 頼方が上を向いて考えていたが、ゆっくりと頷いた。

「そう、例えば、何か訳ありの女だ。金ではなく、他の事情で繋がりを持った、とかだろう。金での関係なら払ってしまえば後腐れないが、そういう場合には、ちょっとした行き違いで揉めることもある」


 神宮が納得したとばかりに頷き、すっかり薄くなった頭に手を当てた。

「なるほど。そういう場合には、当然ながら、恨みを買うこともあるという訳ですか」


 頼方が頷いた。

「だろうなぁ、女の恨みは恐ろしい。一旦火が付いたら、ただじゃ済まないからな。なんだ、その、奥田も刺されたのが首を二箇所、背中を三箇所だったか。こりゃあ、相当な恨みがあったということだろう」

「確かに、茶屋の女が、そこまでするような恨みを持つことはありませんね」

「そもそも、大の男に、抵抗されることなくそこまでやり切るとは、そんな芸当は金で方が付く女には無理だ。相当な覚悟がないとなぁ」


 神宮が姿勢を低くした。

「ここは恨みの線で行きますか」


 頼方が煙草盆に手を伸ばした。煙管に煙草を詰めながら、上目遣いに神宮を見た。

「いや、そうと決めてかかると、とかく判断を誤るものだ。念のためだ。何事も地道に調べることが肝心よ」

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