播磨守江戸人情小噺 御家存続の悲願

戸沢 一平

第1話

 南町奉行池田播磨守頼方(いけだはりまのかみよりまさ)が下す裁断についての、江戸市民たちの評判がすこぶる良い。大見得を切って正義を振りかざすような派手さは無いのだが、胸にジンと染みる温情をサラリと加える加減が玄人好みなのだと、うるさ型の江戸っ子たちはいう。

 このままの評判が続くようであれば、大岡越前や遠山の金さんの裁断と並ぶ名裁断として後世後々まで語り継がれるかも知れない。

 あるいは、そうでないかも知れない。

 どこかで猫が鳴いている。



「必ず殺してやる」

 たえは何度も、何度も、自分を鼓舞するように呟いた。


 頭巾を被って灯りも持たず、深川沿いの道を河田町の方向に歩いている。胸に短刀を忍ばせ、目指すのは幕府勘定役組頭奥田源右衛門(おくだげんえもん)の屋敷だ。


「決して、許すことなど出来ようか、あの男」

 たえに迷いは無かった。


 江戸の街を夜の闇が包んでいる。


 たえの夫である柴田智央(しばたともお)は幕府の勘定役であったが、帳簿記載誤りの不始末があって切腹させられていた。二人の間に子が無く、家は断絶せざるを得なかったが、たえの末の妹を養女に迎えて婿を取り家の存続を、というのが腹を切る際の柴田の遺言だった。

 話を進めるには幕府の許しが必要である。具体的には老中の裁可を得なければならない。たえは、それを柴田の上役となる組頭の奥田に相談した。直属の上司であったのでそれが当然の措置であった。奥田は分かったと言ったが、何と、その見返りに、たえの体を求めたのだ。


 到底、受け入れることなど出来ない。しかし、奥田はそれが条件だという。たえは悩んだ。そして遂に、お家の存続のため、自分は死んだと思って受け入れた。


 柴田家は旗本として代々勘定役を務めていた家康の治世から続く名門である。この柴田家を自分が子を産まなかったことで絶えさせることになる、という責任感からの決断であった。そして、柴田家存続が幕府から許されたならば、たえは自害する覚悟だった。たとえどういう理由があれ、このような事をしたという羞恥心を抱えたまま生きることは耐えられなかったためだ。


 しかし、それでも話はなかなか進まなかった。奥田は小出しに、状況を説明すると言いながら呼び出しては、たえの体を弄んだ。それが一年近く続いたのだ。


 ところが先日、たえはお家存続の願掛けで浅草の観音様を訪れた時に、その前で、勘定奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)の奥方のエツと偶然出会った。

「あら、たえさん、お久しぶり」

「これは奥様、ご無沙汰致しております」


 純然たる階級社会である。女同士の繋がりは男にも増して濃かった。妻たちは主人のために上役の奥方には気と金を使い、上役の奥方は亭主のお役目が順調にいくよう部下の奥方の面倒を見て、何かあれば相談にも乗っていた。エツとは柴田が死んだ時以来の久々の再会となった。


 一頻りの挨拶の後に、エツはやや神妙な顔になった。

「たえさん、実は私、少し気になっていたのですよ」

「はあ、と申しますと・・」

「あなたの、これからの身の振り方ですよ。まだ、お若いですし、どうなさいますの」


 エツは姉御肌で頼り甲斐はあるが、やや押し付けがましいところがあった。奉行の妻であるという自尊心も言葉の端々に顔を出す。


「ありがとうございます。ですが、とりあえずは、お家のことに目処がついてからと思っています」

「お家とは、柴田家のことですか」

「はい。私の末の妹を養女に迎え、その娘に婿を取りたい、という願いを、御老中様まで申し上げていますので」

「あら、それは大事な話ですね」


 エツは、それであれば、というように頷いた。

「早く、そのお話を進めてもらいましょう。全く、川路も何をしているのかしら。私にはそのような事は何も話してくれませんのよ」

「組頭の奥田様を通じて願い出ております。お奉行様にも話は上がっているとは思いますが、奥田様の話によると色々とあるようで・・」


 エツは、主人の尻を叩いてやりますからね、結果は後ほど使いの者から知らせますから、と言いながら家に戻って行った。


 たえは安堵した。これで、話が進んでいくと期待出来たからだ。


 だが、届いたのは意外な知らせだった。何と、勘定奉行の川路は何も聞いていなかった。奉行が知らない話が、老中に上がっている訳もない。

 たえの驚きが怒りになり、それが殺意に変わるのに時間はかからなかった。


 奥田は離れで酒を飲んでいた。

 奥田は女好きで通っている。奥方だけでは飽き足らず、四、五日すると違う女の肌が恋しくなって、その時は茶屋の女を買っているほどだ。そんな時、たえから柴田家存続の相談を受けた奥田は、棚から牡丹餅、渡りに船を得る、の気分だった。お役方の奥方の中でも抜きん出たその美形は、前々から、女には目の肥えた奥田の心をくすぐる存在になっていたからだ。茶屋の女たちの誰も、たえには敵わなかった。奥田はたえの虜になっていた。


 一度だけでは到底満足など出来ず、とにかく関係を長続きさせたい、と思うのは、女好きの男として当然であった。柴田家存続の話を上にあげる気が無かった訳ではない。そのうちに、と思いながら、上げてしまえば、たえに拒否出来る理由を与えるようなもので、そうはさせたくないという思いが、それを止めていた。


 更に、奥田にはもう一つの言い訳があった。

 幕府の溜間詰(たまりのまづめ)筆頭に井伊直弼(いいなおすけ)が居たことだ。溜間詰は有力大名で構成され将軍の顧問という役柄ではあるが、幕政に参画し、権限は老中と同等だった。


 井伊は激しい気性の上に理詰めで物事を判断する癖があった。しかも、柴田には切腹が妥当と主張したのは他ならぬこの井伊である。老中の間では、たかが帳簿の誤り、と役変えや禄の減俸といった処分が妥当とする意見が大半であったが、井伊は、不明朗な財政の原因を作って幕府の権威を失墜させたとし、即刻切腹を主張した。このような男が幕府の中央に居る限り、淡い温情など期待すべくも無い。いずれにせよ、時期を見て上げる必要があったのだ。


 余談ながら、井伊は後に大老となり、強権を行使して反対派を尽く弾圧した。いわゆる安政の大獄である。


「向こうから会いたいとは驚きだ。いつも渋々来るのに、ようやく情が湧いて来たのか」

 女の扱いには慣れている、という奥田の自惚れが、酒が入って大きくなっていた。


 たえに限らず、女を呼んだときには屋敷の裏木戸を開けておき、そこから入れていた。自身は離れで酒を飲みながら待つ、という形を定番としている。


 人の気配に気付いて、奥田は杯を持った手を止め、顔を上げた。

「私でございます」

 低い艶のある声がした。奥田はニヤリとして杯を膳に置いた。

「入れ」

 障子戸が開いて、山吹色の着物姿のたえが入って来た。戸を閉めて落ち着いた動きをしながら座った。頭巾を取ると、整った顔立ちの色白で端正な顔が表れた。


「お主から会いたいと言ってくとは意外だったな。ん、どうしたのだ」


 たえはいつ斬りかかるかを思案していた。丸腰とはいえ相手は武士、そう易々と女に刺されるとは思われない。


「まあ、話は後だ。ゆっくりと、楽しんでからにしよう」


 奥田はジリっと近寄って手を握ったが、ハッとして手を離した。たえの顔にただならぬ殺気を感じたのだ。

「どうした、怖い顔をして」

「いえ・・」


 ここで警戒されては、尚更刺すことは難しくなる。一度失敗すれば、二度目は無かった。この男が、もっとも隙を見せたときを襲うしかない。そう思うと、たえに肝が据わるような落ち着きが出て来た。そのためには、油断をさせる演技も必要だろう。


「なかなか声がかからず、待ち兼ねた気持ちになりましたもので」

「ようやく、そういう気になったか」


 奥田は疑う様子がなかった。その鼻の下を伸ばした表情を見て、たえは成功を確信した。


 たえは立ち上がり、行灯の火を消してゆっくりと着物を脱ぎ出した。障子戸を照らす月明かりによる僅かな明るさの中、湯文字姿のたえが布団に入った。それを確認すると、奥田がゆっくりと布団に入って行った。


 たえは右手にしっかりと短刀を握りしめていた。

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