第10話 御者台の会話 間話
アナが御者台に登ろうとすると、トーマスが手を差し伸べる。
「ありがとう!」
トーマスの手に捕まりながらアナはよじ登る。
「御者もやるの?」
「ああ、今日は特別ね」
車室を振り返りながら、トーマスが答える。
「さっきは酷かったわね… 」
アナが御者台にやって来たのは、歌劇場内の騒動について、
「ああ… あのガキ… 」
車室の小窓から中を確認し、トーマスが馬を歩かせ始める。
「評判が悪いの?」
「悪いも何も!あの一族は酷い。あのガキは末娘だけど、上の娘も躾がなってないし、親がアレでは碌な大人にならないね」
「まあ… 」
「あの一家に狙われると、皆、苦労する。小判鮫のようなんだ。金の亡者だ」
「資金繰りが厳しいとは噂に聞いたわ」
「浪費家。資産管理が杜撰。やってるのは投資じゃなく、投機」
繁華街の人や荷馬車、荷車がごった返す中、ゆっくり馬車を進める。
「マクシミリアン様の資産を狙ってるわけね」
「そうなんだ。ああ言う、おかしな縁談を吹っかけてくる輩は上手く遇らうのが一番だけれど、マクシミリアン様の母君は早くに亡くなっているし、旦那様はそういうのに無頓着で、結果的にマクシミリアン様が自分で対処しないといけないのさ」
「なるほどね… 」
アナは御者台の揺れに抗うように座面に手のひらをつく。
「腰が滑って不安定? 左側の手すりに捕まるか、僕の腕に手を掛ける?」
前を見たままトーマスが言う。
「ありがとう… これね… 」
手すりを握る。
「あまり、左に寄り過ぎないで落ちるから… 僕を踏んづけてもいいから真ん中に寄っていてよ」
「踏まないわよ」
アナがトーマスを睨みつけると、トーマスは笑っている。
「ところで、イネス様のご両親の反応は?」
「何とも… イネス様のお母様の話は知ってる?」
「ああ、ソーンダーズ伯爵家ね。知ってる。決まりかかっていた婚約を白紙にして、フェレイラ伯爵に嫁いだんだ。当時はそれなりに噂になったらしいよ?」
「そこまでは知らない。旦那様、無茶をなさったのね… 」
「それに比べたら、今回は障害も少ないけれど… 」
「奥様は、嫁いだ後のことをとても心配なさってるの」
「イーストレイは変なしがらみは少ない一族だよ。それに、資産はある。領地は僻地だけどね」
「ふうん」
「あの泥棒貴族を振り切れれば、心配はいらないさ」
「そう… 」
泥棒呼ばわりされるあの一族は、やはり注意がしなくてはいけない。
「イネス様がイーストレイに嫁ぐなら、あなたはついて来る?」
「… 考えてみたことなかったわ。誰かイネス様について行くなら、私かしら… 」
「結婚は?」
「え?」
「結婚するまでの仕事だろう?」
「そうね… イネス様の将来が決まらないと、何ともね」
イネスの父からは、縁戚の男爵家の次男でどうかと言われてはいる。しかし、医学を学んでいて、落ち着いて結婚できるようになるまではまだ数年は掛かりそうだ。相手の方も修行中で全く結婚にも、アナにも興味は無さそうである。
馬車は道を曲がり、真っ直ぐに西日に向かって進む。
「帽子が足元にあるよ、使って」
トーマスがアナの足元を指差す。
「え? この箱?」
「そう」
アナが箱を開けるとツバの広い白い帽子が入っている。
「… 新品じゃない?」
「使って。帰りは眩しいとわかっていたのに、帽子を持ってくるのを忘れたんだ。第四幕の間に近くの帽子屋に行って、コレを買ったんだ。ついでにあなたの分も」
トーマスは自分の帽子のツバを少し下げて、アナの方を向く。
「ありがとう。お借りするね」
「いや、お世話になってるお礼。気に入ったら、持って帰ってよ」
アナはシンプルなその帽子を被る。内側についているタグに書かれた文字を読んで、そのメゾンの名に驚いた。
「え!? 大したことしてないのに」
「してくれてるよ。仕事の方でも、イネス様にうまく取り次いでくれて助かってるし、菓子とか本とか用意してくれて個人的にもお礼をしたかったんだ」
「ありがとう… こんな高価なものいいの?」
「この国にいてもあまりお金を使わないから… それに、僕のこっちの帽子の方が高かったよ」
トーマスが戯けて笑う。確かに、質の良さそうなウールとレザーメッシュのコンビネーションのデザイン性の高い帽子だ。西日避けにしてはツバは小さい。
「それはとてもいい帽子だものね! 落ち着いて見えるわ。もっと若者っぽい流行りの形でも良かったんじゃない?」
「… ミス・アナ、前から思っていたんだけれど、僕をいくつだと思ってる?」
「? 十八歳ぐらい?」
「なるほどね… 」
はあ、とトーマスはため息をつく。
「違う?」
「もうすぐ、二十五歳」
「え!!」
アナはあまりにびっくりして腰を浮かす。
「こらこら、危ないよ」
トーマスが慌ててアナの腕を掴んで座らせる。
「そばかすのせいで若く見えるんだよ… この国では特に… 髭もないしね… 」
「大変、失礼いたしました… 」
今まで、弟に接するような口調だったことを思い出して、恥ずかしくなる。
「今さら、畏まらなくていいから 」
「私は、二十です… 」
「わざわざ言わなくても… 大体わかってたよ」
「すみません… 」
「ところで、今度、書店で本を選ぶのを付き合ってくれたら嬉しい」
「勿論、手伝います!」
「ほら、いつもなら、
「はい。ではお言葉に甘えて… 」
アナがトーマスの横顔を見上げると、前を見つめたまま微笑んでいた。
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