第9話 アムネリスの登場



 歌劇場では、マクシミリアンがイネスをエスコートしていることに、人々は驚いた。

 二人は早々にシケイラ侯爵夫妻と合流する。というのも、婚約関係でもない二人だけでボックスシートに入るわけにはいかず、シケイラ侯爵公認で交友を深めている段階である、というアピールが必要だからだ。


 これだけで、イネスの今後の婚約者探しにはダメージだ。シケイラ侯爵がイネスの両親に挨拶の場に同席したのは、これを受容するようにという圧力だった。イネスは当然覚悟の上だが、イネスの両親からすれば、予想外に早い進展になった。




「こんな好奇の目に晒されて、平気?」

「平気よ。毎年、こんな噂話ばかり。誰が誰のエスコートで歌劇場に、夜会に現れた、って。皆が皆、その後うまく行くわけじゃない… 」


 劇場内をマクシミリアンのエスコートで侯爵夫妻の後ろをついて歩く。時折、居合わせた貴族たちを紹介され、会話をする。

 侯爵家に友好的、肯定的な人がほとんどだが、たまに挑戦的な態度を取る人もいる。そのあしらいも夫妻から学ぶところがあるし、マクシミリアンが卒なく対応していることにも安心した。


 開演ぎりぎりまで廊下で貴族たちと話して、ボックスに入る。夫妻の目当てが観劇ではなく、二人の関係を知らしめることだと痛感する。


「ねえ、あなたのご両親は… あなたと侯爵がしてることを承知してるの?」

「ああ… 母は随分前に亡くなった。父には手紙で知らせている。シケイラ侯爵が賛同する相手なら文句はない、と。父とシケイラ侯爵は、若い頃からの親友なんだ。僕の二人目の父みたいなもの」

 イネスは頷く。


「では、侯爵は私と私の家を査定済みなのね…」

「まあ、そうだろうね…」


「何だか障壁がどんどんなくなっていくみたい」

「後は、僕の勝負か… 」


「勝ち負け?」

「きみにも、きみの両親にも納得してもらいたい」

 マクシミリアンがイネスの指に口づけを落とすと、会場の明かりが消え、幕が開いた。







 幕間になると、シケイラ侯爵がマクシミリアンに何か耳打ちする。


「それは、少々厄介です…」

 マクシミリアンの返答だけが聞こえる。


「しかし、逃げても仕方ないな」

 何ごとかと、イネスも侯爵とマクシミリアンを見つめる。


「国の貴族の、来訪団がここに来ている。その家族の一人が面倒な令嬢なんだ… 」

 マクシミリアンが答える。


「マックスの妻になるのだ、と主張する小さなレディがいる。マックスの腕の見せどころさ」


 イネスはマクシミリアンを睨む。

「相手は、八歳の女の子だから!」

「まあ、ライナム子爵は人気者ね」

 マクシミリアンが肘を差し出すと笑いながらイネスは手を掛けた。




 夫妻と共にボックスを出ると、待ち構えていたかのように、幼女がマクシミリアンに飛び付いてくる。


「ご機嫌よう、アン・マリー嬢… 淑女は男性に襲いかかってはダメだよ… 」

「まあ、マックス、冷たいのね!二年ぶりだというのに!わたくし、どんどん淑女になってるのよ!」


 アン・マリーの両親だろう夫妻が近づいてくる。

「お久しぶりです。シケイラ侯爵ご夫妻、それにレイナム子爵」


「ご無沙汰しています。フィンボールド侯爵」

 彼女の両親は娘を嗜めるでもなく、シケイラ夫妻と挨拶を交わす。

 侍女に引き離されたアン・マリーとマクシミリアンも挨拶の輪に加わる。


「こちら、フェレイラ伯爵家のイネス嬢です」

「お目に掛かれて光栄です、イネスです」

 イネスは、彼らの国の言葉で答える。


「… どうぞよろしく。この通り、娘に甘い親なので、このような場にまで押し掛けて面倒を掛けます」

「アン・マリーはマクシミリアン様に首っ丈でして…」


 初めての挨拶にしては、礼を欠いている。明らかにイネスとイネスの家を格下に見ている。シケイラ侯爵に対する侮りでもある。イネスは不快感を表さないように気をつける。

 マクシミリアンは解放された腕をイネスに差し出す。イネスも意図を汲んで、肘に手を乗せると、マクシミリアンは更にその手に手を重ねる。


「マクシミリアン様、皆、あなたの帰国を首を長くしてお待ちしていますのよ?」

「納得行くまで学んでから帰る予定です」

「こちらでの支援は当家で責任を持っておりますので、どうぞご心配なさらず」

 シケイラ侯爵も突き放した物言いだ。


「それはもう、侯爵がついておられれば、マックスも安心でしょう」

 慇懃な態度だが、まるでマクシミリアンを身内のように扱い、四人の神経を逆撫でした。


「こちらに滞在中に一度訪ねていらしてね」

 フィンボールド侯爵夫人がマクシミリアンを見て言う。

「公務でお忙しいところ、私のためにお時間を頂くのは申し訳ありません」

 マクシミリアンの立場も難しい。国に帰れば、邪険にできる相手ではなさそうだ。




 イネスが愛想笑いを顔に貼り付けていると、ドレスが引っ張られる。

 ちらりとそちらを見れば、マクシミリアンとイネスの間にアン・マリーが割って入ろうとしている。


 後ろに控えていたアナが近寄ってくるが、イネスの使用人がアン・マリーを咎めるべきではない。アナに目配せして、留まらせる。

 アン・マリーは自分の従者から果実水の入った飲み物を受け取る。


 イネスは何か嫌な予感がする。

 アン・マリーがグラスを持つ手をイネスは咄嗟に握った。


「あら、こぼしてしまいますわ。お気をつけて」

 周囲に聞こえるよう、不自然にならない程度にゆっくりと声を張る。

 その声に何人かの貴族が振り返る。


 アン・マリーがグラスをイネスの方に傾けようと力を入れているのがわかる。グラスを巡り、押す力と止める力が拮抗する。

 イネスがアン・マリーの服を汚したら、余計に面倒なことになる。細心の注意でグラスを水平に保つ。


 イネスを睨みつけるアン・マリーの底意地の悪い瞳が挑発する。

 横っ面を叩きたく気持ちをぐっと堪えて、イネスはアン・マリーに聞こえるだけの声で囁く。


「マクシミリアンに見合う淑女になりなさい。そうしたら、いつでも相手になるわよ。その子どもじみたやり方、通用しないわ」

 イネスの言葉で、アン・マリーの瞳が揺らぐ。


「アン・マリー、皆の洋服を汚してしまうから、椅子に座って飲もうか。いつもはそうしているんじゃないか?」


 マクシミリアンが加勢する。イネスは、アン・マリーに対等な勝負を持ちかけたが、逆にマクシミリアンは彼女を子ども扱いした。

 アン・マリーの手の力が抜ける。


 所詮、子どもなのだから、子ども扱いで良かったのか、とイネスは思い直し、アン・マリーから手を離した。

 途端にアン・マリーの目付きが変わる。明確な意思でグラスの中身を掛けようとしている。


 その瞬間、マクシミリアンはイネスを引き寄せ、それに合わせてアン・マリーが矛先を変えたため、マクシミリアンとイネスにレモン水が降りかかった。



「こら、アン・マリー!マクシミリアン殿に失礼をしてはならん」

 フィンボールド侯爵が声を上げた。

 マクシミリアンの名だけ挙げた違和感に成り行きを見ていた周囲が驚く。

 碌な挨拶すらなく、アン・マリーを引きずるようにしてフィンボールド侯爵一家は立ち去って行った。




「私たちに、詫びはないのかしら…」

 取り残された四人は首を傾げる。周囲も面倒に巻き込まれた四人に同情の目を向ける。所詮、異国の無作法な貴族のしたことだ。


「シケイラ侯爵家から、二人の正装代を請求しようか。ひとまず、二人は着替えて来なさい」

 イネスはこんなこともあろうかと、替えのドレスをアナに持たせて来た。マクシミリアンは令嬢たちに注目されている。マクシミリアンのエスコートで社交の場に出るのなら、嫉妬に巻き込まれるのは想定済みだ。

 マクシミリアンも用意してきたとは驚きだが。


「靴の替えはないだろう? ごめん、油を注いで…」

「仕方ないわ」

「癇癪持ちの子どもの扱いは下手なんだ… 」

 マクシミリアンは人目も気にせず、イネスの前に跪いて、ハンカチでイネスの足元を拭った。


 マクシミリアンが拭き終わると、シケイラ侯爵夫人がイネスの腕を取り、控え室に同行する。


「あちらね… 最近、投資に失敗しているの。マックスを金蔓に見てるのよ。あの娘、まだ八歳よ。はしたないにも程がある。無礼な親子だわ… 」

「まあ… そうなんですか… 」


 八歳とは言え、完全に女の顔だった少女を思い出す。親の刷り込みのせいで道具にされている。彼女が成人した時、マクシミリアンは三十一歳だ。無くはないが、今のイネスでも三十路を越えた男性には二の足を踏む。


 相手がマクシミリアンなら、踏まないのだろうか? マクシミリアンの十年後を想像する。

 自信に満ち溢れ、もっと精悍になり、男盛りの色香を放つのだろうか。益々、女性の注目を集めるに違いない。そう思うのは、イネスがマクシミリアンと歳が近いからか。



「でも、気にしないで。マックスはあなたに首っ丈・・・なんだから。あなたの靴に口づけしそうな勢いだったじゃない?」

 イネスの妄想をシケイラ夫人が遮る。


「あなたがその気になれば、私たちも加勢は惜しまないわ。国外での生活は不安があると思うから、慎重に考えて」


 母ほど歳の離れた夫人の言葉は、イネスを安心させる。彼の周囲が良識的で協力的であることは重要だ。彼自身が周りの人々に受け入れられ、信頼されている証でもある。


 シケイラ夫妻がイネスとマクシミリアンの仲を積極的に進めようとしていたら、イネスは身構えたかもしれない。しかし、少なくとも夫人はイネスの判断を尊重しようと言ってくれたことが嬉しかった。


 




 アイーダ

 第一幕

 エチオピア王女の身分を隠しエジプトの奴隷となっているアイーダはラダメスと秘密の恋仲。しかし、エジプト王女のアムネリスもラダメスに恋している。

 エジプトにエチオピア王アモナズロが侵略しようとする。エジプト王に指揮官として任命されたラダメスは「侵略者には死を」と軍を鼓舞する。その一方で、アイーダを愛するラダメスはアイーダに祖国を返したいとも願っている。


 第二幕

 アムネリスはアイーダがラダメスを愛しているのではと疑い、アイーダにラダメスが戦死したとカマをかける。アイーダは泣き出し、アムネリスは確信し、憎しみを募らせる。

 ラダメスは勝利をもたらし、凱旋する。アイーダはラダメスの連れてきた捕虜の中に、エチオピア王である父アモナズロを見つけ再会を喜ぶ。しかし、エチオピア王であると悟られてはならず、アモナズロはエチオピア王は死んだと告げる。

 エジプト王はラダメスに褒美を尋ねると、捕虜の解放だと言い、アモナズロ以外の捕虜は解放される。エジプト王は娘、アムネリスを褒美とし、後継者にラダメスを据えると言う。


第三幕

 アイーダはラダメスに会いに神殿に行くが、父アモナズロが現れ、エチオピアを守るため、エジプト軍の侵略ルートをラダメスから聞き出すようにアイーダに迫る。アイーダは苦悩するが、祖国のため父の頼みを聞き入れる。

 やってきたラダメスにアイーダは一緒に逃げようと頼む。ラダメスが逃走路を話すと、アモナズロが再び現れ、エチオピア王だと明かす。それにより、ラダメスは自分がエジプトを裏切ったことを知る。

 アムネリスらが兵と共に現れたため、ラダメスはアイーダとアモナズロを逃す。


第四幕

 ラダメスは囚われるが、アムネリスはラダメスにアイーダを諦めれば助命すると告げる。しかし、それを断ったラダメスは死罪となる。

 逃したはずのアイーダがラダメスの前に姿を現し、せめて二人で死のうと言う。ラダメスはアイーダだけでも逃がそうとするが叶わず、天国での愛を誓う。






「お疲れ様」

 横槍はあったものの、オペラを楽しみ、二人は馬車に乗り込む。アナは夕方の風が気持ち良いからという理由で御者台に乗ったため、車室にはマクシミリアンと二人だ。

 何が契機だったのか、アナの気の利かせ方にイネスは少し戸惑う。


「アイーダは楽しめた?」

「歌も演奏も演出も素敵だった。侯爵家のボックスのおかげ? 今度は平土間もいいかも。二幕の始まりを見損ねたのは残念だったし」


「平土間ね。調べておく。次は邪魔されずにじっくり見たいね」


「でも、どうしたら、この悲劇は防げたのかしら… 」

「難しいね。アモナズロが、娘の幸せより国を大切にしたこと?娘を出し抜くのは良くない」

「アイーダが父離れできてなかったのも?」


「肉親か、愛する人か… 自分の責任か愛か? 悲劇はいつもこういう事が相反する」

「肉親よりも愛する人を選んだ時、責任より愛を取った時はハッピーエンド?」


「ハッピーかアンハッピーかはさておき、そこには自分・・の決断が介在する。環境に翻弄されるんじゃないから、ハッピーならメロドラマ、アンハッピーなら恋に翻弄されてはならないという教訓劇になる、違う?」


「うん… そうね… 芝居はさておき、実際の人生は道義的な評価より、本人が幸せかどうかなのかしら」

「程度問題でもある。社会的にインパクトのある地位なら、道義、大義が優先する。アモナズロのように…」

「娘を利用した父だけれど、エチオピア国民から見たら正しい行いだものね…」



「大丈夫。僕は国王じゃない」

「ふふ。私がアイーダなら、二人で生き延びる策を講じるわ」


「何か間違えたね… きみがアイーダなら、僕はアモナズロじゃなくて、ラダメスにならないといけなかった… 」


「ラダメスは、高潔でこの劇の中でただ一人非難されるところがないわ」

「彼はアイーダの父をアムネリスに差し出して、自分とアイーダが逃げるように出来なかったのかな… 」

「アイーダの目の前で、アイーダの父を裏切るなんてラダメスにはできないわよ」

「確かに… それではきみの愛まで失ってしまう」

「私じゃなくて、アイーダよ…」

 すっかりラダメスに自分を重ねているマクシミリアンを嗜める。


「ラダメスも父も、両方を助けようとしたアイーダは欲張りだったのかしら」

「いや、アムネリスさえ現れなければ、上手く行ったかもしれないよ」



「結局、ラダメスが悲劇のトリガーを引いた。最後の分岐は、ラダメスの高潔な決断だもの。ズルして生き延びるのではなく、自分で責任を取ろうとした… アイーダから父を奪うのではなく、自分の死罪でね」


「難しいね… 結果的に彼は、アイーダの愛の深さを軽んじていたようにも思う。逃がしても戻ってくる程、アイーダはラダメスを愛していた」


「私たちは救国の英雄でも王女でもなくて良かった」

 マクシミリアンも頷く。




「でも、現実にアムネリスが登場したわね」

「おいおい、八歳だよ?彼女」

 マクシミリアンは驚く。


「すぐに成長するわ。すっかり女の表情だったし… 」

「十三歳差! 気をつけないといけないのは彼女の両親だよ。人望も信用もないのに、中途半端に権力を振りかざす」


「なるほどね… 嵐は早く去って欲しいわ… 時機が悪い」

「対策を考える。あまり気にし過ぎないで」

 マクシミリアンはイネスの手を握ると、優しく微笑んだ。



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