第7話 一時の戯れ



「あ… ご機嫌よう…」

 イネスが返事をしている間に、ルシアは近づいてくるダニエルを見つけて離れていく。


「… 今晩こそ、ダンスのお誘いを…と」

 マクシミリアンの表情は硬い。


「ええ、勿論。少し休んでからでも?」

 イネスはグラスを受け取りながら、笑顔で答える。


「ええ。楽しそうに踊っていらっしゃった」

 イネスの座る椅子の隣に立ったまま、マクシミリアンはにこりともしない。

「ルシアの二番目の兄のアントニオ殿です。幼馴染で… 二年ぶりの夜会でダンスで、練習にお付き合いしてましたの」


「そうですか…」

 マクシミリアンは明らかに不機嫌だ。

「私の楽しい気分に水を差しにいらしたの?」

 初っ端から喧嘩を売らずともよい。不機嫌に不機嫌で返すのは悪手だとわかっているのに、口は勝手に悪態をつく。


「いえ… そういう訳では… 妬いているだけです」

「ただの幼馴染です。本人も今踊っている相手が今日の本命だと言ってますから…」

 腹の底のざわつきを抑えて、これ以上の嫌味が出ないよう堪える。




「今日の本命?」

「だそうですよ。その晩に一番踊りたい相手という意味で」

 座っているイネスが、長身のマクシミリアンを見上げるのは首が痛い。隣に座らないのは、不機嫌な顔を見せたくないということか。


「あなたの今日の本命は?」

「え… それは、マックス、あなたのつもりでしたけれど?」


「つもりだったけれど、今は違う?」

 マクシミリアンの絡み方が鬱陶しい。腹の底が大きく波打ち始める。



「そんな風に不機嫌では、踊っても楽しめないのでは?」

「… きみが?」


「いえ、あなたが、よ」

 文法上、私とあなたを混同する訳がない。マクシミリアンが意地悪を言っていることに苛立つ。


「お詫びする… この前も言ったけれど、きみは僕の生死を握っているからね」

「本当に大袈裟よ」


「大袈裟じゃない。このかすみ草は、僕の贈ったもの? そう思って喜び勇んできみの元に近づこうとしたら、きみは兄君と知らない男と楽しそうに話しているし、ファーストダンスをその幼馴染と踊るし、更に二度も踊るじゃないか… この花が僕の贈ったものかも自信がなくなって… それで今ここに不機嫌に立っている」



 まただ。マクシミリアンは好意を直球で投げかけてくる。それは真摯に受け止めるべきだと頭ではわかる。公園でもそうだった。皮肉や嫌味で返しては駄目だ。


「… わかったわ。これは、あなたの花よ。本当は、コスモスを付けようと思ったの。季節の花を贈ってくれる約束をしたでしょう? でも、いろいろと…自信がなくなってやめたの」

 


「え?」

 マクシミリアンの表情が和らぐ。

 だが、これで公園ではマクシミリアンに押し切られたのだ。


「ちゃんとカードを付けて。一時の戯れでないなら、ね」

 イネスにだって、言うべきことがある。母からもたらされた疑いを必死に抑えつけて、心の中でマクシミリアンを擁護していたのだ。


「一時の戯れ?」

「留学先での戯れには付き合うな、と母に言われてるわ」


「そんなつもりじゃない」

「それなら、わかるようにしてくれなくては… 」

 ぽんぽんと互いの言葉に反応してあらぬ方向に行っている。しかし、イネスの辞書に退くという単語はない。


「だから、きみの家に挨拶をさせて欲しいと言ったんだ」

「じゃあ、今からする?」

 文字通り、売り言葉に買い言葉だ。言っていて、分が悪くなってきたのを感じる。



「待って… 悪い話をしてるわけじゃないのに、何で僕たちはこんなに険悪なの?」

「あなたが不機嫌だから?」


「今はきみが不機嫌だよ?」

 マクシミリアンはイネスの手からグラスを取り上げる。


「まず、チョコレートを食べに行かない?」

「… 機嫌を直すために?」


「そう」

 差し出されたマクシミリアンの腕に手を乗せる。


「そうね… 仕切り直しね」

 イネスが答えると、マクシミリアンはようやく笑顔を見せた。





 二人で軽食の置かれている部屋にやって来る。

「チョコレートだけ? クッキーも?」

「チョコレートだけ… ねえ、私がチョコレートが好きって知ってるの?」


「知ってるよ。ずっと見てたから」

 マクシミリアンが給仕から皿を受け取ると、片隅の長椅子に腰掛けた。

「少し、落ち着いた?」

「ええ。あなたは?」

 チョコレートを頬張りながら尋ね返す。


「落ち着いた。ルシア嬢の一家は僕にとっては鬼門だな… 」

「え?」


「きみは僕がルシア嬢を気に入っていると勘違いしていたし、この先も僕は三人の兄弟たちに嫉妬しなくてはいけなくなりそうだ」


「ふふ。幼馴染だもの、でもそういう対象にはならないから… 」

「そういう?」

 マクシミリアンはイネスの顔を覗き込む。


「また… 意地悪ね。すぐそうやって言葉尻に反応する」

「揚げ足を取っているわけじゃない。きみの気持ちが少しでも僕に傾いてきたなら、その喜びを味わいたいからね」


 イネスは手に取ったチョコレートをマクシミリアンの口に入れる。


「甘いわよ?」

「これが、その味?」


「どうかしら… 」

「あ… オレンジピール… 苦い」

 マクシミリアンは揶揄われたとわかって、目を大きく見開く。


「恋の味は甘苦いのよ」

 そう口に出すと、イネスの胸が締め付けられた。


「へえ? その味を知ってるの?」

「最近ね」


 マクシミリアンにまた揚げ足を取られる前にイネスが口を開く。

「ねえ、マックス、とあなたを呼ぶのは誰?」


「父、それから友人… 男のね」

「そう… 私だけじゃないのね?」


「特別さがない?」

「マクシー」


「可愛らし過ぎない?」

「駄目?マクシー?」


「いいよ、リズ。二人の時にね」

 イネスが瞳を上げると、優しい笑みが返ってくる。

 大勢の人に囲まれていて良かった。イネスはマクシミリアンの灰色の瞳に吸い込まれそうだった。




「イネス?」

 顔を上げると、父と母だった。


 イネスより早くマクシミリアンが立ち上がると、イネスの両親に挨拶をする。


「娘からレイナム子爵のお噂はかねがね」

 父は笑顔でマクシミリアンと握手する。

 レイナム子爵、マクシミリアンがそんな称号を持っているとは知らなかった。父にマクシミリアンの話はしたことがない。


「イネス嬢はとても聡明な方でお話ししていると、いつも・・・時間を忘れてしまいます」

「いえ、この国の血・・・・・なのか、気の強い娘ですから、失礼がないかと親としては心配で仕方ないですよ」


 父の牽制にハラハラする。異国人には、気の強い娘は合わないでしょう、と言っている。

「近い内に、お茶にご招待してもよいかしら?」

 険悪な雰囲気になる前に、イネスが本題を切り出した。


「勿論。是非いらしてください。歓迎いたします」

 ひとまず、予告が受け入れられたことにほっとする。


「私たちはこれで失礼します。イネス、あなた、一緒に帰らない?ミゲルはコンスタンサ嬢を送らなくてはならなくなったの」

「トニーと帰るわ」

「では、私がお送りします」

 マクシミリアンが口を挟む。


「いえ、それでは申し訳ありませんわ。娘のお目付け役をお任せするわけには…」

 やはり、母にも棘がある。


「トニーもあなたの目付けにはならないから駄目よ」

 母がイネスに耳打ちする。



 仕方がない。マクシミリアンに手を差し出す。

「では、また…」


 マクシミリアンがイネスの手に口づけるとき、耳元で囁いた。

「明日、午後五時、サンタンジェリン教会」

 マクシミリアンは頷いた。









 イネスは街の中心、丘の上のサンタンジェリン教会の庭のベンチに腰掛けている。街が一望できる丘の上に建てられた教会から、目抜き通りに向けてなだらかな石段が続いている。

 オレンジ色の瓦屋根が、夕陽で一層紅く染まっている。


 イネスのタウンハウスは郊外だ。この瓦屋根が途切れた先の丘陵地帯にある。母が街中の喧騒を嫌うため、貴族街には家を持っていない。家までは馬車で半刻以上かかる。


 予定よりも早く教会の活動は終わったが、教区の人々や教会関係者の出入りが激しく、すっかり人疲れした。この調子だと、馬車で眠ってしまいそうだ。



 約束の時間まであと一刻。疲れたから、もう帰ろうか。後ろに控えているアナに伝言を頼めば、マクシミリアンの従者に伝えてくれるだろう。


 それに、昨晩は両親の態度に苛立って、マクシミリアンを教会に呼び出すような真似をしたが、こうして隠れて会うことはやはり好きじゃない。考えが二転三転するのも、しっくり来ない。何をやっているのだろう。




「ねえ、アナ、もう帰るわ… 伝言をお願い」

「はい」

 アナが近づいてくる足音がする。


「また、連絡する… でいいかしら… 理由も必要?」



「僕への伝言?」

 男性の声に驚いて振り返るとマクシミリアンだ。


「あら… ごめんなさい… 疲れてしまって、もう帰ろうかと…」

 イネスの隣にマクシミリアンが腰掛ける。


「間に合って良かった… ご機嫌よう」

「ご機嫌よう… 」


「家まで送ろうか?」

「わざわざ来てくれたのに、ごめんなさい… 」


「会えただけで嬉しい。きみに… 渡したいものがあるんだけど… 」

「え?」


 マクシミリアンは胸ポケットから小箱を取り出す。


 小箱の中には、ブレスレットが入っている。白金の華奢なチェーンに二つ小さな石がついている。


「毎日着けられる目立たないものを、と… 」


「ありがとう… その度にあなたを思い出すわね?」

「そう。忘れて欲しくないから… 」


 イネスは受け取って、石を一つずつ確かめる。

「ふふ… その方が主張が強いわ。石は一つは、グレーね、もう一つはブラウン… 」


「グレーはダイヤモンド、永遠の絆。ブラウンはトパーズ、愛する人を手に入れる… 僕ときみの瞳の色」


「石言葉ね… 華奢なのに、すごい主張… 」

「石の力でも借りたいからね。付けてもいい?」


「はい」

 イネスが腕を預けると、ぎこちない手付きでブレスレットが付けられた。


「ありがとう。ねえ、永遠の絆って… 話をするようになって数日なのに… そこまで言い切れるの?」


「そうなったらいい… 初めは、きみの芯の強そうな眼差しとか、表情に惹かれた。今は、きみと喋るのが好きだ。楽しい」


「私もあなたと喋るのは好きよ。話が合う。予想通りの答えと、予想してない答え、どちらも心地いい」


「その通り。同じように感じてくれていて嬉しい」

「だから、二人だけで会うのは、もうおしまいにしましょう」


 イネスの言葉に、マクシミリアンが固まる。


「… どういう意味?」

 掠れた声で問われる。


「二人だけなら、楽しいのはもうわかった。このまま会っていたら、喋るだけじゃ足りなくなるわ。心地よくなって、幸せな気持ちになって、恋に溺れる」


「… それは駄目なこと?」

「駄目よ」

 マクシミリアンは青ざめて、垂れた頭を両腕で抱え込む。


「だから、家族にちゃんと紹介するし、幼馴染たちとも会わせる。あなたが、周りの人とどう関わるのか、楽しい時、苦しい時にどんな風になるのかを私に見せて」


「それは、僕たちの次の段階っていうこと?」

 不安そうに顔を上げるマクシミリアンが少し不憫になる。話の筋は通っているが、イネスが話を区切ったところが悪かった。


「そうね。マクシー、私をあなたの国に連れて帰りたいんだとしたら、いつでも私を守れるって証明して。私が一人であなたの国へ行っても大丈夫な人間か、あなたもちゃんと私を確かめて。じゃなきゃ、上手くいかないわ」



「リズ… また、きみは… 僕の心を… 生きた心地がしなかった… きみは僕の心を何万フィートもの高さから落として、地面に打ち付けられる瞬間に引き戻すような… 」


「ふふ… 最後までちゃんと聞いてね」

「生きるも死ぬもきみ次第だって、何度も言ってる… 」


「だから、大袈裟なのよ… 」

 イネスはマクシミリアンの方に向き直ると両腕を差し出した。


「これは… ハグしていいって意味で合ってる?」

「疑心暗鬼すぎよ?」


 イネスが思っていたよりも性急に力強く抱きしめられる。

「また、地面に突き落とされたらたまらない… 落とされないようにしがみついておかないと… 」


「ほら… しがみつきすぎると、二人で溺れてしまう… 」

「もう溺れてる」


「格好いいところも見せてね… 」

「格好悪いところも許してよ…」

 マクシミリアンがイネスの肩先で呟いた。

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