第5話 厨房裏の会話 間話



 湯浴み後、アナに髪を整えて貰っていると、急にアナの手が止まる。


「イネス様、少しよろしいですか?」

 アナのお節介が始まりそうだ。温室を出てから、黙り込んでいるイネスに物申したいのだろう。


「温室のこと?」

「そうですね… 」


「お説教なら今はいいわ… 」

「お説教ではありませんけれど… 」


「何?」

「楽しく過ごせたようで良かったですね」

 アナの手が再び動き始めて、髪の水分をタオルで拭う。


「え?」

 アナは二人と距離を置いていたから、話の内容はわからないはずだ。


「違うのですか?」

 アナの手が再び止まる。


「… 楽しいか、楽しくないかで言えば、楽しかったけれど… 」

「その先は結構です」


「え?」

 鏡越しにアナを見ると涼しい顔をしている。


「楽しかったのであれば、それで良いではありませんか」

「どういう意味?」


「ブルーノ様や他の男性と話をしているイネス様は本当につまらなさそうですからね。お愛想笑いばかりでよくお疲れにならないものだと、普段から尊敬申し上げております」

 アナは歳上であるし、あっさりした性格でもあって無駄口を叩くタイプではない。主人であるイネスにも媚びないところが気に入っている。付き合いは長いが、初めて褒められた。



「ええ… 当然、最低限の礼儀は私でもするわ」

「今日は、お愛想笑いなさいませんでしたね」


「… そうね」

「それが、最低限の条件・・ですよ」


「… 」

「他のことは、明日考えたらよいではありませんか。今日は楽しい一日だったと思ってお休み下さいませ」


 心なしかアナの手付きがいつもより優しく丁寧な気がして、不器用で素っ気ないのは父方の同じ血のせいなのかと、おかしくなった。







∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵




「ミス・アナ!」

 アナが昼前に一階の廊下を歩いていると、下男のサムが廊下の窓の外から呼ぶ。


「サム、あなた、よく足音だけで私とわかるわね… 」

 アナが窓から顔を出すと、数十センチ下にサムの頭がある。


「足音でこの屋敷の三十人を聞き分けられるのが、特技ですからね。さて、例の旦那がミス・アナにまたお届け物。厨房の裏に回ってやってくださいよ」


「ありがとう。はい、これ」

 アナはポケットからクッキーの包みを取り出すと、窓からサムに手渡す。


「毎度!」

 サムはクッキーを受け取ると去って行く。




 アナが厨房裏に回るとトーマスが待っている。

「やあ、ミス・アナ!」

 トーマスはアナの姿を見ると、快活に挨拶する。


 彼は、この国にマクシミリアンが連れてきた侍従で、同じく異国人だ。赤みがかったブラウンの髪、この国の人々より白い肌にそばかすがある。


「トーマス様、ご機嫌よう。いつもご苦労様」

 裏庭の小さな四阿に向かう。アナが伯爵家の縁戚の子爵家の娘であるように、このトーマスもマクシミリアンと何某の繋がりのある貴族の息子であるらしい。家はイーストレイ伯爵家の事業の一つを手伝っているらしいが、今はマクシミリアンの留学に伴って侍従をしていると言っていた。



 トーマスが籠に持ってきた花束を取り出す。


「こちらが、マクシミリアン様からイネス様への花束、それとカード」

 二人で指差し確認しながら受け渡しをする。


「あと、これは、この前貰った焼き菓子のお礼。ミス・アナに」

 トーマスは小さなチョコレートの箱を取り出す。


「ありがとう!これは、中央通りに新しくできた店ね。試してみたかったの。お屋敷でも好評?」

 アナが箱の包み紙を見て答える。


「いや、屋敷ではまだ誰も。今度、あなたの感想を教えて。美味しかったら、屋敷にも買って帰るよ」

「私が先でいいの?」

 


「いや、この街の三大ショコラティエと比べてどうだったか、って教えてくれると、その蘊蓄うんちくごと僕の手柄にするから、よろしく頼むよ」

「なるほど、そういう仕事ね。じゃあ、次回報告するわ」

 アナは遠慮なくポケットに箱をしまう。


「後は、これ」

 アナはハンカチに包んだペーパーバックとサムに渡したのと同じクッキーの包みを取り出す。

「おお、ありがとう」

 トーマスに頼まれた本だ。この国の共通語で書かれた小説だ。トーマスは彼にとっての外国語である共通語を話すし、読み書きもだいたいできるらしいが、会話表現を学びたいとのことで、アナが持っている大衆小説を貸すことになった。


「この本の表現は、古臭くない? そのまま使っても格好悪くない?」

「そうね… 主人公が使う表現は大丈夫よ。主人公の祖父母の会話表現はやめた方がいいわ。少し方言も使われているし、古いわ」


「なるほどね。助かるよ。クッキーもありがとう」

 トーマスは内ポケットに本をしまう。


「イネス様はカードの返事をすると思う?」

「すると思うけれど、夕方まで予定があるから、今持って帰るのは無理ね。夕方に誰かに持たせるわ」


「じゃあ、夕方、僕がまた取りに来る?」

「無駄骨になったら申し訳ないわ」


「そうだね… 別の用事のついでに来れたら来る。返事が用意できてたら、先に使いを出してくれて構わないから。屋敷の方は、イネス様からだと言えば、誰に渡してもマクシミリアン様に確実に手渡すから安心して」


「ありがとう。夕方は私も忙しいから、ここまで回ってこなくて大丈夫よ」

 この屋敷の場所は、街の外れである。別の用事のついで・・・にはならないだろう。このそばかすの若者はフットワークが軽い。日中から晩餐までの間、主人であるマクシミリアンがカレッジに篭っているため、暇なのだともこぼしていた。



「ミス・アナ、チョコレートの件はよろしくね、ではまた!」

 歳下のくせに、やや馴れ馴れしいそばかす青年は笑顔で去って行った。




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