第3話 くつろいだ仲



「メンデス夫人、ご機嫌よう」

 イネスと夫人の間に入ってきたのはマクシミリアンだった。


「あら、マクシミリアン殿、いらしてたの?」

 夫人とマクシミリアンは知り合いのようだ。先ほど、せっかく気を利かせてルシアから離れたのに、彼は何をしているのだろう。


「今ね、こちらのイネス嬢に中世の絵の話をしていたところよ」


 夫人はマクシミリアンにイネスを紹介する。初対面ではないが、訂正して話の腰を折るのも躊躇われるため、改めて挨拶しておく。

 マクシミリアンもイネスに合わせ、慇懃にイネスの手を取り膝を折って挨拶する。


「あなた、この侯爵邸の西階段に飾ってある厨房画にご案内できる?私、今晩は雨のせいか膝が痛くて」


「ええ、ベラスケスの初期の絵ではないか、と言われている絵ですね?」

「そうそう。真偽は定かじゃないのだけれど、見て来るといいわ。こんな機会でもなければ、あの階段にゲストが入れる時はないもの」


 マクシミリアンが来る前、この国の貴族が所有する傑作についての講義を夫人から受けていただけに、興味はある。しかし、マクシミリアンの案内で、とは少し具合が悪い。


 マクシミリアンは先ほどの挨拶で手を預けた後、流れるような仕草でイネスの手を自分の肘の上に置いていた。その小慣れた感じはさすが令嬢に人気の異国人か、と思わせる。


「喜んで。私は以前、一度夫人にご案内を受けてますから、説明もできます」

 マクシミリアンは、イネスに微笑みかける。


「では、行ってらしたら?酔客が増えると西階段までの通路が混み合うから」

「ええ… 」

 断るきっかけを掴めず、夫人に背中を押されるように、廊下に向かって歩き始めた。




「マクシミリアン様、ルシアを誘わなくてよいのですか?」

 夫人から少し離れたところでイネスは足を止める。


「ルシア嬢は先ほどダニエル殿とホールに戻りましたよ?」

「そうでしたか…」

 マクシミリアンに促され、イネスもまた歩き始める。

 ルシアはありきたり文のダニエルとまた踊るというのだろうか。



「… イネス嬢は、あちこち動き回りますね…」

「え?」


「… 話そうと思ってお訪ねしたのに、席を外してしまうし、その後も、レナート殿、そのご夫人、メンデス夫人と… 」

「ああ… 」

 誰かさんから逃げようとしていたことを言っているようだ。

 

「…避けていらっしゃる?」

 廊下はメンデス夫人の想定よりも早く混雑が始まり、騒がしくてマクシミリアンの声が上手く聞き取れない。


「… ええ、結婚の条件から話されるようなことは苦手です。条件だけの話ではないと思いますから… 」


 この喧騒の中で、マクシミリアンに声は届いたのだろうか。ルシアはマクシミリアンを気に入っていたようだし、彼とも下手に距離を縮めたくはない。



「なるほど、人となりや相性に重きを置かれるわけですね」

 マクシミリアンも声が届かないと思ったのか、少し顔を寄せて話す。

「… 夜会の短い接点で、わかるものではないのかもしれませんけれど」

 そう言えば、ブルーノは何を思ってあんな話をしたのだろう。面白みの欠片もないブルーノを揶揄うような態度もしていたのに。やはり、条件だけか。



「わかります。ダンスは夜会の一つの要素ですが、あの時間は僕には苦痛です。会話らしい会話もできないし…」


「そうですわね。ダンスも会話も手紙も何でも定型的ですもの」

 ブルーノを頭に思い浮かべながら、うっかり本音を漏らしてしまった。上の空で喋るのはさすがに失礼だ。言った後で気まずくなり、マクシミリアンの顔色をうかがう。


「私の… ああ、さっきと言ってしまいました… こんな話し方でもよいですか? 母国語ではないので、間違えてしまいます…」

「どうぞ、気楽に話してくださいませ」

 上の空だった少しの罪悪感から、愛想よく返事をしながら、ブルーノを頭の中から追い出した。



「僕の国でも、儀礼的ですよ。それが良しとされています」

「まあ… では、絵を見に行く間ぐらいは、儀礼的なことは省略しましょうか」

 マクシミリアンの国の方がさらに様式美を重んじている。イネスの愚痴以上にマクシミリアンの方が切実なのかもしれない。


「そうですね。では、そういう…仲になりましょう。共通語で何と言うんでしたか、くつろいだ・・・・・屈託のない・・・・・気楽な・・・?」


「ふふ… そうですね。そういう仲はいいですね。利害関係が絡まない感じですね?」

 結婚相手としてどうかといったことを気にしなくてよい関係なら気を張らないで済む。

「ええ、そうしましょう」


 ルシアが言っていた教養とユーモアがあるというのは、こういうところか、とイネスは納得する。彼の共通語はほぼ完璧だ。どの表現が適切なのか、わかっている上で、イネスに気を遣わせないようにわざとあれこれ挙げておどけて見せたのだ。


「もうすぐです。次の角を曲がると西棟に入りますから、その先に西階段がありますよ。古くていい城ですが、建て増ししているからか、建物の繋ぎ目が迷路みたいですね」


 喧騒はいつの間にか遠くなり、静かな廊下に入る。



「あら、これは?」

 短い渡り廊下の壁と天井に子どもが描いたにしては上手すぎる壁画が描かれている。


「ああ、これは先日、新大陸から来た留学生が描いたものです。壁画を描きたいと言ったのですが、なかなか承諾されず、結局、侯爵がこの渡り廊下を好きに使っていい、と」

 薄暗い廊下に二人で立ち止まる。マクシミリアンが廊下の手前で手にしたランタンの明かりを頼りに周囲の壁を見渡す。


「かわいいけれど、力強いですわね。テーマは自由…かしら?」

「ええ。新大陸には、いずれ革命の波が来るでしょう… 私たちの生活も、これからどう変わっていくか… 」


「… そうですわね」

 今は特権階級である自分たちも、未来永劫そうであるとは限らない。


「そんな時、何を拠り所にしますか?」

「え?」


 何を拠り所にするのだろう。特権も、資産も、職業も全て失うような価値観の変化が起きないという保証はない。この大陸の端には既に王制も貴族制も消滅した国もあるという。



「… 家族でしょうか? それまでの価値が崩壊したときに、頼りになる、信じられるのは、身近な人との繋がりしかないのでは?」

「ええ。僕もそう思います。十年後?二十年後に身近にいる家族。伴侶と自分の子どもたち?」


「そうですね。守りたい人を一緒に守ってくれるような家族… 」


 マクシミリアンを見上げると、その優しい笑みが目に入る。

 肘に掛けた手に彼の手が添えられる。


「あ… 」

 ルシアの顔が脳裏に浮かぶ。


「マクシミリアン様… 」

「どうぞ、僕のことはマックス、と」


「えぇ、マックス様… ルシアのことは、どうお感じになっていますの?」

「え?! ルシア嬢ですか… 素敵な女性では? 今日話をした感想ですが…」


「そうなんですの。私たちは幼馴染ですが、気立てが良くて、一番の親友です」

「はい… では、僕からも質問していいですか?」


「ええ… 」

「イネス嬢、僕のことはどうお感じになっていますか?」


「え?! は、話しやすい方です… くつろいだ・・・・・仲ですものね?」

「ええ。くつろいだ仲です」

 話の方向性がよくわからなくなってきた。


「では、早くルシアともくつろいだ仲になれるといいですわね?」

「いえ、それは望んでいませんよ」

「それとは、違う関係を望んでいらっしゃるのね」

 くつろいだ・・・・・仲は、恋仲、婚約者探しとはまた別の仲ということ、という理解で合っているようだ。




「… 私が、あなたをダンスに誘っていないことを根に持っていますか?」


「私が? 根に持ってるなど、とんでもない! 全く気にも止めていませんから、ご心配なく」

「そうですか… 今度、お誘いしてもいいですか?」


「ええ… 」

 彼はルシア狙いではなかったのだろうか。



「もう一つ、イネスには愛称はないのですか?」

「短い名前ですから… 私はイネスとしか呼ばれません… 」


「くつろいだ仲の証に、特別な呼び方をしてもいいですか?」

「… それは、必要ですか?」


「合図のようなモノです。社交辞令はやめて自然体で、というような」

「なるほど… それなら… ミドルネームを… エリザベスと」


「珍しいですね、この国でその発音はしないのでは?」

「母があなたと同じ国の生まれで」


「へえ… エリー?ベス?イライザ?リズ? そのように呼ばれたことは?」


「そう言えば、幼い頃、母は私をリズと呼んでいたかしら… 」

 イネスは記憶をたぐる。しかし、当時はリズと呼ばれてもしっくり来ず、いつの間にか母も呼ばなくなった。


「リズ、僕もそう呼んでいい?」

 距離感が随分近くなる。呼び名でそこまで変わるものだろうか。


「… 他の人の前でなければ…」

「ありがとう、リズ!」

 久しく呼ばれていなかった愛称に、落ち着かなさを感じる。


「… ちょっと強引?」

「ええ… でも、少し懐かしいような… これで合図になるの?」

 急に距離が近くなって、何だか気恥ずかしい。


「なるよ。ありがとう」

 まるで子どものようなマクシミリアンの喜び方にイネスが首を傾げると、マクシミリアンはクツクツと笑いながら、廊下を進む。





「さあ、着いた、ここが西階段」

「道草したおかげで、随分時間が掛かってしまったわ」

 広い階段で、ところどころに絵が飾られている。どれも静物画で野菜や果物が多い。



「何代も前の侯爵が、激務の使用人たちも絵を見て、心を安らげるようにと、静物画を集めたのだと」

「へえ… 」

 靴の中の足が限界のようだ。数分踊って休むを繰り返す想定で選んだ靴だ。広い屋敷の中を歩き回るには不向きだ。スカートの中で靴から足を浮かせようとして、ヒールが落ち、床にカツンと音を立てた。


「歩き疲れたなら、座って靴を脱いだら?」

「この階段、誰か来るのかしら?」

 階下に厨房があるようで、金属のカチャカチャぶつかる音と、ニンニクとチキンの混じったいい香りが漂っている。


「厨房の料理は中央階段を使って会場に運ばれる。だから、ほとんど使われないよ、この時間はね」

 マクシミリアンはポケットからハンカチを出すと、絵のよく見える場所に敷いた。


「リズ、どうぞ」

「気の置けない仲だから、許してくれる?」



「ああ、それ! 気の置けない・・・・・・、この言葉を思い出せなかったんだ。許すも何も、僕の提案だ」

 マクシミリアンはイネスが腰掛けるのに手を貸すと、数段下に腰掛ける。ぴったりと横に座ってきたブルーノとは違う。


 人気のない階段に二人でいるのに、警戒しなくてよい心地よさがある。結婚の条件を捲し立てられる恐れがないのは気楽である。


 イネスはドレスの中でこっそり靴を脱ぐと、人心地がついた。



 それから暫く座って、巨匠の初期作かもしれない絵を眺めながらお喋りして、二人は夜会に戻った。




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