第5話
数週間後のことだった。
夕飯を食べ終えた陽翔は、いそいそと隠し持っていたメモ帳を碧に差し出した。
『いつもありがとう』
何度も練習したのか、前よりは綺麗な字で白い紙の上にそう書かれていた。
「……何、これ」
陽翔は恥ずかしそうに頭を下げる。
「ありがとうは、こっちのセリフだよ」
気が付けば、口が動いていた。
「帰ってきても誰もいなかった毎日に、陽翔が突然やってきて。それは、最初は驚いたよ? 浜辺に横になって倒れてるし、記憶ないし、文字も書けないし。でも、家に帰ったら誰かいるって、こんなに幸せなことなんだって思えた。上京して二年くらい経つけど、家に人がいる幸せを思い出せた。それに……」
碧はメモ帳から顔を上げた。
ぽかんとしている陽翔の頬に、そっと唇を押し当てる。
「……俺、陽翔のことが好きらしい」
碧はやっと自分の気持ちを素直に伝えた。
ずっと目を逸らしていた自分の気持ち。
陽翔は目を丸くして固まっている。
「陽翔が蓮と一緒にいると、嫉妬するんだ。他の誰かと一緒にいることを考えたくない。ずっと、俺といてほしい。俺の物になってほしい」
突然のことに、陽翔は動けずにいる。碧は震える手で陽翔の手を取った。
「……嫌なら首を横に振って。いいなら首を縦に振って」
しばらくしてから、こくり、と陽翔は頷いた。
「……ゆっくりするから」
陽翔を抱き上げると、ベッドへと向かった。
× × ×
必要な道具は、陽翔をベッドに寝かせたあとに買いに行った。買い出しなんて行くものだからムードなんてないに等しかったけれど、口づけをしているうちに、だんだんとそんな雰囲気になっていく。
静かな営みだった。
声の出ない陽翔に、碧は「好きだ」と呟く。
陽翔はうんと頷き、碧の首に腕を巻き付ける。
濡れた音が下から響き、陽翔が背中をしならせる。
ほどよくついた筋肉が、快楽に流されるようにうねる。
二人が同時に絶頂に達した後、碧は汗に濡れる陽翔の前髪を掻き分けた。
潤んだ瞳がかち合って、まだ整わない息のまま、自然と唇と唇を合わせる。
「おでこ、広いな」
そう言うと、恥ずかしそうに陽翔は前髪を下ろした。
「陽翔も俺のこと好きだったんだ」
陽翔の横に仰向けになりながら聞くと、陽翔は碧の耳を甘噛みした。
「何? それは『そう』ってこと?」
暗闇の中で、うんと頷く気配がする。
「両思いじゃん」
手を伸ばして、ぎゅっと陽翔を抱き締める。髪に手を絡ませて、くしゃくしゃと撫でまわす。陽翔は碧の胸に顔を埋めて、気持ちよさそうに目を細める。
「陽翔、聞いて」
暗闇の中、陽翔を抱き締めながら碧は言った。
「俺、陽翔って呼ぶたびに、あいつのことが頭をよぎってたんだ」
陽翔が動きを止める。
「陽翔、陽翔、陽翔って呼ぶと、どうしてもあいつが頭の中に浮かんできて、『兄貴』って言うんだ」
こんな時にこんなことを言うのは最低かもしれない。けれど、伝えておきたいことがあった。
「でも、蓮が遊びに来た時、家を追い出されてうろうろしながら、ずっともやもやしてたんだ。陽翔が蓮に取られるんじゃないかって。そして気づいた。俺は、お前のことが好きだって」
力を込めて、陽翔を抱き締める。
「ごめん、上手く言えないけど、陽翔が好きだって気付いた瞬間から、陽翔はお前のことになった。弟のことじゃなくて、お前が陽翔なんだ。俺は、陽翔が好きだ」
潰れてしまうんじゃないかと思うほどに抱きしめる。このまま離したくない。誰にも取られたくない。
そっと、背中に手が触れた。その手は上から下に、あやすように背を撫でる。
「陽翔……」
力を緩めて、目を合わせる。
目が合うと、陽翔はふにゃりと笑って見せた。
「陽翔……」
碧は陽翔の額に口づけると、もう一度、胸に抱きかかえた。
× × ×
蓮がまた会いに来た。陽翔が会いたいと言ったのだ。算数のドリルに挑戦したいらしい。
「じゃあ、俺は」
「行ってらっしゃーい」
陽翔が蓮の隣で手を振った。笑顔だ。
複雑な気分になるが、碧はいつも通りを装って外へと出る。
蓮のタイプではないから、取られることもない。
そう考えてなんとか気持ちをやり過ごしていると、思ったより早く連絡がきた。
『帰ってきて』
蓮には似合わない簡潔な文章に、もやもやした、嫉妬とは違う何かが胸に渦巻く。
『分かった』
そう返して、碧は足早に来た道を引き返した。
× × ×
「ただいま」
靴を脱いで上がると、蓮が碧の服を引っ張って部屋へと誘導した。
「何、何、何?」
無言のままの蓮に問うが、蓮は何も言わず、陽翔の背中を軽く叩いた。
陽翔は俯いている。
「何、何があったの?」
状況が理解できない碧は、蓮と陽翔を交互に見る。
「……陽翔」
蓮が、聞いたことないほど低い声で言った。
「言わなきゃいけないことがあるんだよね」
陽翔が、顔を上げた。心なしか、目元が赤い。
がさごそと足元に裏返されていたメモを取り出して、テーブルに出した。
そこに書かれていたのは、『あといっしゅうかんで、ぼくは、うみのあわになって、きえます』という文章だった。
「……え?」
狼狽える碧に、陽翔は次から次へとメモを広げる。
『ぼくは、にんぎょでした。』
『かぞくが、ぼくを、にんぎょに、もどそうとしています。』
『まじょが、ぼくに、にんぎょになるか、うみのあわになるかと、きいてきました。』
『にんぎょにもどるには、あおを、このナイフで、ささなければいけません。』
『でも、ぼくは、あおを、さしたくありません。』
『あおが、すきだからです。』
『だから、うみのあわになります。』
『かぞくが、まじょに、にんぎょにもどしてほしいと、おねがいしたから、もう、にんげんでは、いられません。』
コトリ、と金色の鞘に収められた小さなナイフがテーブルの上に置かれた。
「……なんの冗談だよ」
「冗談じゃない」
そう言ったのは、蓮だった。
「なんで冗談じゃないってお前が分かるんだよ」
「僕の家系にも、人魚、いたから」
「……はあ?」
混乱する碧に、蓮は言った。
「俺の古い先祖に、人魚がいるんだ。その人魚も、人間に一目惚れして、魔女に頼んで人間にしてもらった。そして数か月後、人魚の家族がそれを知って、人魚に戻してもらうように魔女に頼んだんだ。その人魚は身ごもっていた。だから、特別に、魔女は人魚が子供を産むまで待った。そして、子供を産み終えた人魚は、ナイフで愛する人を刺せず、海の泡になって消えていった」
信じられるような話ではなかった。
「陽翔の脚が動かないのは、飾りの脚だから。飾りの脚を動かそうとすると、激痛が走る。だよね、陽翔」
陽翔が、ゆっくりと頷いた。
「……」
「碧、信じられないかもしれないけど、これが真実──」
蓮の言葉を遮って、碧が蓮の胸ぐらを掴んだ。
「魔女はどこにいる」
「落ち着いて、碧」
「魔女に頼む。陽翔が人間でいられるように」
「碧」
冷静な蓮の瞳に見つめられる。
「落ち着こう、碧。ちゃんと陽翔と話し合おう」
いつもと同じ、どこか冷めたような蓮の瞳に、碧は徐々に落ち着きを取り戻していった。
「残酷かもしれないけど、魔女の居場所は分からない。いつも海の中にいるらしいし、人間側からコンタクトが取れるような人物ではないのかもしれない。だから、碧。陽翔との一週間を、幸せなものにしてあげて」
碧が、そっとナイフに手を伸ばした。
「……これで、俺を刺せば、人魚に戻れるんだよな。消えなくて済むんだよな」
陽翔が俯き加減に頷く。
「じゃあ、刺して」
えっと陽翔が顔を上げた。
「大丈夫。死なない程度に刺してくれればいいから。蓮もいるし、すぐに救急車も呼べるから」
碧は陽翔を抱き寄せると、鞘に納められたままのナイフを手に取った。
「ほら。ね、陽翔」
陽翔は碧の腕の中で目を見開いたまま首を横に振る。
「……碧、陽翔が困ってる」
蓮の言葉は、碧に届かない。
「ねえ、刺してよ、お願い、消えないで、ねえ、陽翔……!」
最後はしがみつく勢いだった。
「碧」
蓮が間に入る。
「碧、陽翔は碧の幸せを選択したんだ。だから碧──」
「陽翔のいない世界なんて、幸せなわけないじゃないか!」
碧が叫んだ。涙がカーペットに染みを作っていく。
「陽翔と出会えて、家に帰ってくると陽翔がいて、夜も陽翔と一緒にいられるから、不安もなくなったんだよ……俺は夜が不安で、怖くて……なんで陽翔が消えなくちゃなんだよ……だったら、俺が死んだほうがまし──」
陽翔が碧の唇を唇で塞いだ。
驚く碧を睨みつけたまま、真っ赤な目で陽翔は力強く首を横に振る。
「陽翔は、碧がいない世界を望んでない」
蓮が陽翔の代わりに言った。
「陽翔に生きててほしいんだよ」
碧の中のダムが決壊した。
陽翔を強く抱きしめると、その肩に顔を埋める。
「陽翔、陽翔、陽翔……」
背中に回る陽翔の手が震えていた。
数か月の同棲生活で感じた、陽翔の大切さ。
それを放したくない。
「碧、俺、帰るね。あとは二人で話し合って」
蓮が立ち上がって玄関へと消えていく。
それを追いかけていく気力はなかった。
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