第4話
蓮が遊びにやって来た。
「お邪魔しまーす」
陽翔と会ってみたいと言っていたのをすっかり忘れていた碧は、数日前、いつになったら会えるんだと蓮が憤慨したことで、やっと予定を立てた。バイトが休みだからと、家に招いたのだ。
「陽翔さん、初めまして」
陽翔には事前に伝えていたものの、ここに来てからは碧以外の人と会ったことはなかったため、がちがちに緊張しているようだった。
「大丈夫だよー」
じゃん、と蓮は文房具屋の紙袋を取り出した。
「文字が書けないって言ってたから、ドリル買ってみた。お節介だった?」
中には赤や青のドリルが入っていた。ひらがな、カタカナ、算数のドリルだった。
「漢字はちょっと難しいから、後でいいかと思って」
陽翔はすぐに飛びついた。三つのドリルを抱いて、ぺこぺこと頭を下げている。
「今日はお勉強する?」
うんうんと陽翔は頷いた。
「碧」
ドリルを選んだり、ペンを用意したりしながら、蓮が言った。
「少し遊んできたら?」
「え?」
「たまには息抜きしてきなってこと」
確かに、陽翔が来てから、家にいる時はずっと陽翔と一緒にいる。
「うん、分かった。ありがと。ちょっと出てくる」
すると、陽翔が顔を上げた。
「大丈夫だよ。少し出かけてくるだけだから」
蓮がそう言ってなだめる。
確かに、知らない人と突然二人にされたら嫌だろう。
「……やっぱりいいや」
そう言って戻ろうとする碧を、蓮は立ち上がって阻止した。
「ちょっと聞きたいことあるんだ」
陽翔には聞こえない声で、囁くように言う。
「……狙ってるのか?」
「え、違うよ」
蓮は慌てて否定する。
「そうじゃなくて、ちょっとね」
何がちょっとなのか気になったが、蓮も悪いことをするような奴ではないことを知っていたため、碧は蓮に陽翔を任せることにした。
「何かあったら電話ちょうだい」
「オッケー」
「じゃ、行ってくる」
心細そうな陽翔を置いて家を出るのは心が苦しかったが、碧はそれを振り切るようにしてアパートの階段を急ぎ足で降りた。
× × ×
町中を歩いていても、気分は晴れなかった。
それどころか、どこかもやもやとする。
コンビニに寄って飲み物を買っている間も、頭の中は陽翔のことでいっぱいだった。
公園のベンチに腰を下ろして、子供たちの遊んでいる和やかな風景を見るともなく見る。
今頃、陽翔は何をしているのだろうか。
蓮とドリルでも進めているのだろうか。
陽翔はどこから来たのだろうか。
本当の名前はなんなのだろうか。
背もたれに背中を預け、空を仰ぐ。ペンキを垂らしたような青空が広がっている。
砂場の辺りで喧嘩が勃発したのか、泣いている声が聞こえる。それすらも平和な日常の一コマに見える。
そうだ、と碧は気づいた。
陽翔に対する自分の気持ちがなんなのか、ようやく分かった。
嫉妬だ。嫉妬をしているんだ。
そう実感した瞬間、またさらに疑問が湧いてきた。
なぜ嫉妬しているのだろう。
もしかして、人に取られることが嫌なのだろうか。
人に取られることが嫌。
なぜだろうと考えて、首を横に振った。そんなはずはない。陽翔は男で、自分も男だ。
その時、ぱっと蓮の顔が浮かんできた。蓮の恋愛対象は男だ。同性愛者である。
もしかして、自分も──
その時、ポケットの中のスマホが振動した。
蓮からの電話だった。
『長い間借りちゃってごめんね。もう帰って来ていいよー』
「……分かった」
碧はチクチクとした胸の痛みを抱えながら、飲みかけのペットボトルを手に公園を出た。
× × ×
蓮が家に遊びに来てから数日が経った。あの後、なんの話をしていたのかと聞いても、二人とも、はぐらかして教えてくれなかった。
陽翔はひらがなが徐々にかけるようになり、少しずつカタカナにも挑戦するようになった。
碧がバイトやバンド練習でいない間は、一人で文字の練習をしている。算数はまた蓮が遊びに来た時に教えると約束しているらしく、算数ドリルには手をつけていない。
「ただいま」
その日も夕日を背にバイトから帰って来て、陽翔に声をかけた。
「陽翔?」
いつもなら出迎えてくれる陽翔が、今日は出てこない。
寝ているのかと思ってリビングに足を踏み入れると、陽翔はぼーっと手元を見たまま、まるで石になったかのように固まっていた。
「陽翔?」
もう一度呼びかけると、ふっと陽翔が碧を振り向いた。
「どうした?」
あっという顔をして、陽翔は首を横に振った。手元にあった何かをすっとポケットにしまうと、おかえり、と口を動かす。
「ただいま。何持ってたの?」
そう聞くと、右往左往したのちに鉛筆を一本手にして、紙に字を書き始めた。
それを待つ間に、買って来た総菜を冷蔵庫に入れる。
『えんぴつもってた』
拙いひらがなで、メモ帳にはそう書かれていた。
「鉛筆持ってたって、さっきまでテーブルの上にあったじゃん」
陽翔の顔にしまったと大きく書かれる。
「まあ、なんでもいいけどさ、ゴミならちゃんと捨てといてね」
何かプレゼントでも作ろうとしていたのかな、などと考えて、自分が少し浮かれていることに気が付いた。
なぜただの同居人に対してそんなことを考えているのだろうか。
碧は変な思考に切り替わる前に、夕飯の準備を始めた。
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