第3話

 陽翔が碧の家に来て、一週間が経った。

 基本的には、生活が変わることはなかった。

 バイトに行って、バンド練習して、寝て。

 一つ変わったことと言えば、昼飯も用意するようになったことだ。レンジが使えるように場所を床の近くに移動して、使い方を教えて、留守番している陽翔が自分で温めて食べている。

 それ以外には、特に。陽翔のために早く帰ることもなければ、バンド練習を休むこともない。

 それでいい、と陽翔が言ったから。

 早めに帰ろうか、と聞いた時、陽翔は首を横に振った。だから、陽翔が来る前と、変わらない生活をしている。

「じゃあ、行ってくる」

 その日も、バンド練習だった。バイトから帰ってきて、着替えてすぐにギターを手に取る。

 玄関に行って、靴を履いて、足を踏み出そうとした時、足が後ろに引かれた感覚がした。

 下を向くと、這いつくばってここまで来たのだろう陽翔が、足をがっしり掴んでいる。汗をびっしょりとかいて、顔を歪めている。

「大丈夫かよ」

 碧は陽翔の前にしゃがみ込んだ。

 どうやら、陽翔は脚を動かそうとすると激痛が走るらしく、普段、ここまで移動することはほとんどない。それが元々なのか、浜辺で記憶を失った時にそうなったのかは、まだ分からない。

 そんな陽翔がここまでするということは、何か重要なことがあるのかもしれない。

 そう思った碧は、陽翔が上半身を持ち上げながら身振り手振りするのをじっと見た。

「俺も行く?」

 碧が読み取った言葉に、陽翔は頷いた。

「なんで」

 陽翔はまた何か伝えようとする。何か迷っているように見えた。

 しかし、何を伝えたいのか読み取れない。

「分かんないけど、スタジオ、狭いから連れて行けない。ギターもあるし、おぶれないし」

 あからさまに肩を落とす陽翔に、「今度のライブならいいよ」と言った。

「今度のライブなら、人少ないだろうし、車椅子も、ライブハウスにあると思う」

 ライブという単語が分からないのか、陽翔は首を傾げる。

「……とりあえず楽しいことがあるから、楽しみにしてろよ」

 碧はそう言うと、陽翔の頭を撫でた。

   ×   ×   ×


 ある日、バイト終わりに家に帰ると、いつもは本棚の上に置いてあるはずの写真立てがテーブルに移動していた。

「……陽翔」

 すやすやと昼寝をしている陽翔を揺り起こす。

「これ、なんでここにあるんだ?」

 目をごしごしと擦っていた陽翔だったが、碧が指さしているものに気づいて、申し訳なさそうな顔をした。

「どうしてここにあるんだよ」

 碧はふつふつと自分の中の怒りが沸き上がっているのに気が付いた。

 抑えなければいけない。

 陽翔は身振り手振りで、気になったから手を伸ばして取ったと伝えた。

「……」

 陽翔は写真を指さして、首を傾げた。

 写真には、小学生くらいの男児と、若い碧の姿が写っている。男児は恥ずかしそうにピースをしている。雰囲気から、家で撮られたものだろう。

「弟だ」

 へえ、と陽翔が頷く。

「五年前に死んだ」

 ぴきっと、表情が固まる。

「それだけだ」

 そう言って写真立てを戻そうとすると、陽翔が手を伸ばして阻止してきた。

「何?」

「……」

 陽翔は何も言わず、じっと碧の目を見る。

「……陽翔っていう名前は、弟の名前だ」

 自然と口からこぼれた。

「交通事故で死んだ。写真に写りたがらない奴だったから、小学生の時の写真しかない。死んだのは中学の時。それだけ」

 陽翔は手を離した。碧は写真立てを元に戻す。

 じっと写真立てを見つめる碧。

 その脚を、陽翔がそっと撫でた。

「……何?」

 何も言わずに、視線も合わせずに、ただ撫でる。

 まるで、座っていいよと言っているように。

 碧は促されるように本棚の前に座った。

 すると、陽翔がずるずると這い寄ってきて、腰に手を回した。

 猫のように胸に顔を埋める。

「……」

 すうすうと呼吸をする陽翔の頭を、碧はそっと撫でる。茶色い髪は柔らかくて、まるで、弟のようで。

「……陽翔」

 気づけば、涙が流れていた。

 泣いていいんだよ、と言われている気がした。

 涙が止まらない。

「陽翔……陽翔……」

 葬式でも泣かなかったのに。

 冷たい奴だと後ろ指を差されたのに。

 どうして、陽翔の前だと、泣けるのだろう。

 陽翔が、顔を上げた。覗き込むような格好になっている碧の涙をぬぐう。

「……」

 ──大丈夫。

 そう、口が動いた気がした。

   ×   ×   ×


 ライブの日が来た。ギターを前日に竜介に預けて、当日は陽翔をおぶってライブハウスに向かった。

「これしかないんですが……」

 事前に連絡を入れていたものの、ライブハウスの車椅子は古びたものだった。椅子の部分が割れ、クッションがはみ出ている。

 けれど、背もたれがあって座れれば問題ない。

「これでいいです」

 そこに陽翔を乗せ、客席の一番後ろに連れて行く。少しはしゃいでいる様子で、陽翔はきょろきょろと辺りを見回していた。

「ここからで見えるか?」

 陽翔は目を輝かせて頷いた。碧の方を見向きもしない。

「多分、曲が始まると観客は立つと思うから、見えづらいと思うけど我慢しろよ」

 きっと聞いていないのだろう。陽翔は適当に頷く。

「俺、準備あるから行くな」

 陽翔が碧の方を向いた。

「……」

 頑張って、と言った気がした。


   ×   ×   ×


「今日来てんだろ?」

 新が狭い楽屋の中で煙草をふかしながら言った。

「誰が?」

「決まってるだろ、お前んちの浮浪者」

「浮浪者じゃねえ」

「じゃあ居候」

「……それは合ってるかもしれない」

「えー、俺も見たい」

 竜介がソファに身を乗り出して言った。

「客席の一番後ろに車椅子がある。それに乗ってるのが陽翔」

「陽翔って、お前……」

 新が信じられないものを見るような目で碧を見る。新も龍介も蓮も、全て知っている。

「陽翔には全部言った」

「……いいのかよ」

「……いいんだと思う。陽翔は、何も言わなかった」

「……複雑だな」

「複雑だよ」

 一組前のバンドが戻って来た。

「行くか」

 新がタバコの火を消して、ギターを手にする。

「ん」

 蓮が、碧のギターを差し出した。

「ありがと」

 碧がギターを受け取ると、「準備お願いします」とスタッフから声がかかる。

 四人は楽屋をあとにして、明るいステージへと歩き出した。


   ×   ×   ×


 致命的なミスがないことを成功と言うならば、成功だった。

 いつも通りと言えば、いつも通りだった。

 ただ、いつも通りの出来ではあったものの、心のどこかに、ちょっとした緊張感があった。

 ここ最近は感じることが少なかった、プレッシャーという類のものだった。

 人に見られているという意識は、ステージ上にいるかぎり、少しなりともある。目の前には人がいるわけだから、感じない方が難しい。

 しかし、誰か一人を意識するということは、ここ最近、なかったことだった。

 客席の一番奥、車いすに乗った陽翔がこちらを見ているという意識は、プレッシャーとなって心の片隅を占領した。

「なんか、今日、ノリノリだったじゃん」

 楽屋に戻ると、新に腕をつつかれた。

「え?」

「声もよく出てたし、音程もいつもより正確だった」

「いつも音痴みたいな言い方すんな」

 はは、と笑って、新は煙草に火をつけた。

「にしても、かっこいい奴だな、居候」

「確かに、かっこよかった」

 新の言葉に、竜介も乗る。

「かっこいいというか、かわいいじゃない?」

 蓮が入ってくる。

「……ただの居候だよ」

 碧はギターをケースに入れながら言う。

「あ、ギターは俺が持って帰ればいいわけ?」

「うん、お願い」

 ギターケースに収めたギターを竜介に渡す。

「これで壊したらどうする?」

「弁償アンド罰金一千万」

「そこら辺の宝石以上の価値かよ」

 竜介はけらけら笑いながらギターケースを背負った。

「よし、帰るか」

 今回は、終わった人から順に帰れるライブだった。

 煙草を吸い終えた新が、吸殻を灰皿に捨てる。

「俺は陽翔を拾って帰るから、先帰って」

「オッケー」

 じゃあ、と挨拶を交わして、新と竜介と蓮の三人は出口に、碧は客席に続く扉を開けた。

「陽翔」

 次のバンドがステージ上で準備しているのを尻目に、陽翔へと近づく。

「そろそろ帰るぞ……」

 言いかけて、足が止まった。

 陽翔が、ぽろぽろと涙を零していた。呆然とステージの一点を見つめたまま、その場所だけ時が止まったようだった。

「陽翔……?」

 もう一度呼びかけると、ようやく我に返ったらしい。

 碧を認識すると、ごしごしと目元を擦った。

「どうした?」

 車椅子の前に座り込んで見上げると、陽翔は何でもないと首を横に振った。

「ホントに大丈夫か?」

 陽翔は頷く。

「大丈夫なら、いいんだけど」

 碧は立ち上がって後ろに回ると、ぎしぎしと音をたてる車椅子を押して、客席をあとにした。

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